今日の聖句  2024年12月     nagarenohotori      

      聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。



2024年大晦日
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 」
      ヨハネによる福音書 14:6

ここで大事な言葉は、「わたしが」であります。他のどこかに道があるのではなく、イエスご自身が道であると言うことです。イエスは本質的に、「あなたがたは、どうやって生きていけば良いのか迷うけれども、至極、簡単だよ。わたし自身が道なのだ。わたし自身が真理なのだ。わたし自身がいのちなのだ。」と言われました。彼らは、どうやってこれから生きていけばよいのか迷いましたが、イエスをもっと深く知り、イエスご自身を求めることが生きる道なのです。ですから、私たちが悩むときも、このことを思い出してください。生きる道はとても単純です。それは、主イエスを知ることです。

(祈り)
天にいます私たちの父なる神さま、一年の終わりの日を迎えています。この年もいろんなことがありましたが、無事にこの日を迎えることができて感謝します。どうか、新しい年も、元気に過ごせるように導いてくださいます。どのように過ごすか、迷うときには、主イエスにみ心を示してくださるよう求め、その教えに従わせてください。主の聖なるお名前により祈ります。

12月30日月曜日
「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。 」    ルカによる福音書 2:40

  イエスは神の御子でありながらも、人として成長されました。他の子どもと同じように、言葉をおぼえたりしていたに違いありません。でも、多くの人は、神の御子ならば学習をする必要なないではないか、と疑問を持つでしょう。でも、逆に、小さいときからもし何の学習もする必要がなかったら、イエスは子どもたちに届くことができるでしょうか。子どもたちが持っている悩みや苦しみを、どのようにして理解することができるのでしょうか。イエスは、子どもたちの救い主となるためにも、子どもとして成長されたのです。イエスは、完全な神であられると同時に、完全に人でした。

(祈り)
   天の父なる神さま、御子キリストは私たちの見本となる存在となっています。幼子キリストが、知恵に満ち、神の恵みに包まれ、神と人に愛されて過ごしていたように、私たちも知恵に満たされ、恵みに浴し、愛される者になれるように助けてください。主の御名によって祈ります。

12月29日日曜日
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 「彼はわたしたちの患いを負い、 わたしたちの病を担った。」     マタイによる福音書 8:16-17

  イエスのいやしによる宣教は、預言の成就でした。イエスが、私たちの罪のために身代わりになって死なれたということは、私たちがよく知っている事ですが、実は病をも身代わりに受けられていたのです。その預言はイザヤ書53章4節にありますが、そこを読み進めると、5節に「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」とあります。
   イエスは、十字架につけられる前に、39回のむちを受けられました。イエスは、この打ち傷によって私たちの病を背負われました。ですから、私たちが人々のいやしのために祈る時、イエスの身代わりの業にもとづいて祈る事が出来ます。イエスは、私たちの病を引き受けられたのです。

(祈り)
天の神さま、御子イエスは私たちの罪ばかりか、病も背負ってくださったので、私たちは癒されています。たくさんの人が病んでいます。神さま、どうか、病に苦しむ人たちのために、イエスの癒しを求めて祈ることを励ましてください。祈りが聞き入れられらる望みのゆえに、私たちがあなたを崇めることを楽しませてください。主のお名前により祈ります。


12月28日土曜日
「 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」  カによる福音書 6:38

与えれば、なくなるのではなくて与えられるという法則が存在します。ちょうど、重力の法則が働いているが、それに逆らうようにして空気力学の法則が働くように、与えればなくなるという法則に逆らうようにして、あふれるばかりに与えられるという法則も存在します。それがどのように機能しているかは私たちにはわかりませんが、働いている事実は存在するのです。

(祈り)
天の父なる神さま、クリスマスにプレゼントを受けとることは嬉しいことですが、贈ることがもっと素晴らしいことをあなたは教えてくれました。御子イエスを通して、あなたの愛を惜しみなく与えてくださり、感謝します。私たちが受けたその愛を、どうか、心のうちにしまっておくのではなく、心のそこから与える者に為らせてください。

12月27日金曜日
「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」 テトスへの手紙 2:11-13

 私たちは、恵みによって、また信仰によって救われました。それは、私たちの行ないではなく、神の賜物であると、パウロは語りました(エペソ2章)。では、何から救われたのでしょうか?罪と死と地獄から救われました。ですから、パウロはここで、「不信心と現世的な欲望を捨て」と言っています。不信心とこの世の欲から救われたのですから、救われた人とは、「この時代にあって、思慮深く、正しく、信心深く生活し」ている人なのです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたはすべての人を救うために、神の子をこの世に遣わしてくださいました。男も女も、老人も子どもも、北半球に住む人も、南半球の人も、金持ちも貧しい人もみな救いを必要としているので、イエスがお生まれになられたのです。この救いを受け入れた私たち、どうか、信心深く、正しく、思慮深く、生活できるように助けてください。主の聖なるお名前に依って祈ります。

12月26日木曜日
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、  ヘロデが死ぬまでそこにいた。  マタイによる福音書 2:13-15

ヘロデが、「わたしも行って拝むから。」と言った言葉は嘘でした。神は、ヘロデの手からキリストを守るために天使を遣わされて、エジプトに逃げなさい、とヨセフに伝えました。なぜほかの地域でなくエジプトなのか、その理由は、聖書の預言が成就するためであった、とあります。これは旧約聖書のホセア書という書物からの引用ですが、そこを開いてみましょう。ホセア書11章1節です。「 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。 エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」 文脈を見ると、これはイスラエルの民族が、エジプトから脱出した事実を述べている箇所です。それなのになぜマタイが、この箇所をキリストの預言と見るのでしょうか。それは、イスラエルの歴史が、キリストご自身の生涯を指し示すからです。

(祈り)
天の父なる神さま、御子 イエスは世に生を受けるやいなや 敵に追われる日々を生きなければなりませんでした 。あなたはその独り子を 徹頭徹尾、 時代の子として政治的闘争の渦の只中に送り込まれ、その生涯の初めから終わりまでを苦悩の日々としてお与えになりました。 しかし、このことを通して 私どもは知らされます あなたの正義と公平 、あなたの慈しみ と 憐れみとは御子の十字架の苦難を通してこそ 貫かれるものであることを、御子の苦難によらない すべての人間的変革の営みは一時的に過ぎません。 圧迫と博愛の日々を 幼くして味わいつつ 、御心のために働かれた主の後に 、私たちも従う者としてください。 苦難のしもべの御名によって 祈りま
す。

 12月25日クリスマス
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。  今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。  あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 ルカによる福音書 2:10-12

  主の使い、天使が、主の栄光をたずさえて羊飼いに現われ、彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民、全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」   恐れることではなく、喜ぶことを天使は知らせに来ました。それは、救い主が来られることです。彼らがひどく恐れた主は、人として彼らに接近してくださいました。天使が、「あなたがたのために」と、個人的に語っていることに気づいていください。救い主によって、神と人との間にあった隔たりは取り除かれ、人の罪と汚れはきよめられ、神に受け入れられる者となります。そして、この方は、主キリストであります。主とはヤハウェという神の名前のことを表し、キリストは神に油そそがれた者という意味です。

(祈り)
  天の神さま、 クリスマスが まず 羊飼いたちに告げられたことはみ旨にかったことでした。 夜という時 、野宿という状態で働かねばならない 彼らこそ救いを必要としていました。 それゆえ すべての民に与えられる大きな喜びが、 まず、 あなた方 (羊飼いたち)に伝えられ、 「あなたがたのために」お生まれになった方として「主なるキリスト」の誕生を告げられたことは 誠に クリスマスにふさわしいことでありました。 神さま、私たちもまた、今日 貧しくなって主にお会いできますように。 世の財宝、地位 、 教養などを誇るのではなく、 主のみ前にすべてを捨てて、一切をあなたから受ける者として、(飼葉おけ)の主の前にぬかづくことができますように、 主イエスの名によって 祈ります。アーメン

12月クリスマス·イブ
 「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」
   マタイによる福音書 2:9-11

  イエスがこの世に来られてから、まず、最初にユダヤ人の王として礼拝をお受けになりました。 礼拝をしに来た人物は、東方から来た学者達です。東方が具体的にどの地域にあたるからは知られていませんが、イスラエルとは特に深い関係を持っていない国からの人達であるということです。彼らはまた、星についての博士でした。彼らは、国も違うし、文化も違うし、人種も違うし、そして宗教も違うのに、これら東方の博士がユダヤ人の王を拝みに来たのです。御子イエスの誕生はまさに世界を動かす出来事となりました。

(祈り)
  東から来た博士たちを導かれた神さま、あなたはクリスマスの星を まず 東に輝かせたまいました 。地元のエルサレムの人々や ヘロデ に ではなく、アダムとエバが罪を犯して追放された東に、カインが追放された東に、バベルの塔 が造られ、かつ 崩された東に、またアブラハム から 別れた ハガルとイシマエルが行かねばならなかった 東に、輝かせたまいました。 そして それはまことにみ旨にかなったことであり、クリスマスにふさわしいことでありました 。星は罪人にクリスマスの救いを告知いたしました。 選びにもれたものにこそまず 星は輝いたのです。 それゆえ 東の人は非常な喜びにあふれて 幼子を訪ねて、ひれふして拝みました。神さま、私たちも
またみ前に 罪人でしかない 東の人として 、今日 幼子イエスに会わせてください 。喜びにあふれて主を拝ませてください 。罪人を招くためにおいでになった主の名によって 祈ります。ア ーメン


12月23日月曜日
「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」         ヨハネの手紙一 1:5-7

「神は光である」という言葉は、神の本質を表しており、単に神に属する性質を表しているのではありません。ヨハネの手紙には、他に、「神は愛です(4:16)」という言葉があります。これは、「神は愛を持っている」とは異なって、神の本質が愛であって、愛ではないものを神は持っていない、ということになります。同じように、神は光です。「光」とは、聖書では「聖さ」を表しています。神には、いっさい罪や汚れや悪と言った暗やみの部分が何一つない、ということです。

(祈り)
天の神さま、暗やみのなかで羊の群れを見守っている羊飼いに、天の使いが現れ、主の栄光を照らしました。羊飼いはまぶしさのゆえに驚いています。天地創造のときに、神さま、あなたが光あれと言うと、暗やみを輝かしたように、御子の誕生は輝きを現しました。どうぞ、私たちもその光を写し出すものとして、この世にあって輝くことができるようにお守りください。

12月22日アドベント第四主日
 「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。  わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。  わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」ローマの信徒への手紙 8:22-25

私たちクリスチャンは、キリストが自分の罪のために十字架につけられ、よみがえられたことを信じることによって救われました。けれども、からだの贖いがあって初めて救いが完成するのであり、私たちは、将来にからだが贖われることを望まずして生きていくことはできません。主が私たちのために再び来られます。そのときに、私たちは引き上げられて、一瞬のうちに変えられて、新しいからだを身にまとい、主と対面するのです。このことを私たちは日々待ち望むことによって、救われているのです。

(祈り)
主なる神さま、神の御子は、にぎやに街の豪華な宿の綺麗なお部屋で産まれたのではなく、寂しい街の簡易宿の家畜小屋で産まれています。彼は、立派なベットではなく、飼い葉桶のなかに寝かせられていました。それは神の為されることが、人の見えるところを越えたかたちで現されているからです。神さま、どうか、見えるものに心を奪われないで、あなたの言葉によってもたらされるみ業を信仰を持って受けとめることができるように為らせてください。救い主イエスのお名前によって祈ります。

12月21日土曜日
    マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。  主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
    ルカによる福音書 1:41-45

  エリサベトは、信仰によって自分のところにあいさつに来たマリヤを祝福しました。マリヤは、まだ自分が身ごもっているか認めることができませんでした。また、エリサベトが子を宿しているか見ていませんでした。しかし、これらのことを信じて疑いませんでした。信じて疑わなかったので、それが行動になって出てきたのです。私たちはどうでしょうか。私たちは確かに確認はしますが、それは、神の言われたことがまだ信じきれないためのことが多く、不信仰によって行動してしまいます。例えば、イエスがよみがえったとき、弟子のトマスは、イエスの手にある釘の穴と、わきに手を入れてみなければ、私は信じない、と言いました。イエスが現れて、トマ
スに、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである。(ヨハネ20:29)」と言われました。見ないで信じる者は幸いなのです。

(祈り)
  天にいます父なる神さま、クリスマスに登場する二人の女性は、神さまに選ばれた信仰厚い人でした。一人は年老いてから子を宿し、一人は聖霊によって宿しました。そして、その子が、神さまの働きを行うことを信じて望んでいます。神さまのご計画を受け入れ用いられる人は幸いです。主よ、どうか、私たちも神さまの為されることを待ち望む信仰を持たせてください。

12月20日金曜日
  このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 マタイによる福音書 1:20-21

  天使はまず、イエスは聖霊によってお生まれになったことを告げています。イエスは人間としてはマリヤから生まれましたが、本当のルーツはこの天地を創造された神なのです。それゆえ、イエス・キリストは、神の一人子と呼ばれています。
    そして次に、生まれてくる男の子にイエスと名づけなさい、と天使は命令しています。イエスというのは、ギリシャ語で、そのヘブル語にあたる言葉は、ヨシュアです。ヨシュアはヤホシュアの短縮形であり、これを訳すと、「エホバは救い」となります。つまり、イエスとは、主が救いという意味なのです。イエスという名に、この方が、神が人間を罪から救い出すために送られた救い主である意味が含まれています。

(祈り)
  救い主イエス·キリストの父なる神さま、マリアとその夫ヨセフの夫婦からを一人子を誕生させるストーリを計画してくださったあなたの偉大さをほめたたえます。マリアとヨセフの正しい信仰が、その計画の実現をもたらしていることを感謝します。どうか、クリスマスに現された主の恵みが、今年も多くの人々の心を魅了することができるようにしてください。

12月19日木曜日
  「わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、  心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。  約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 』  ヘブライ人への手紙 10:21-23

  心と良心というのは、人間にとって非常に大切な部分です。心は感情の奥深い部分、良心は、善悪を知るインジケーター、ここで神の御霊が私たちの霊にかかわりを持たれて、私たちは神を知ることができるようになります。この部分がきよめられていないと、外側では、神を敬っているようにふるまうことができるかもしれませんが、かえって罪を犯して、重荷を背負うだけとなります。自分がいかにだめな人間かと、自分を罪定めするようになります。私たちが良い行ないをすることができるのは、唯一、自分の良心がきよめられることによってのみなのですが、それを可能にするのが、キリストの血なのです。

(祈り)
  天の神さま、あなたは聖なる心と生活を喜ばれます。あなたの栄光の為に、すべての不義から私を清めてください。神よ、私の歩むすべての道をあなたに委ねます。どうか、あなたがふさわしいと思う時に、私を引き上げ、あなたのよう聖なる者としてください。主の御名によって祈ります。

12月18日水曜日
   これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。 「恐れるな、アブラムよ。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」   創世記 15:1

   「これらの出来事」とは、アブラハムがロトを救出した出来事です。バビロン地方から来た四人の王からロトとその財産を奪い返しました。 その後に残っていたのは、恐れと、喪失感です。
   私たちも、霊的に大きな働きをした後に、しばしばアブラハムと同じような心境になります。そこで必要なのは、さらなる大きな神の御業ではありません。主ご自身から直接語られることです。
   主はアブラハムに語ります。主はまず「恐れるな。わたしはあなたの盾であるな。」と言われました。アブラハムの恐れに対して、「わたしが盾になる、わたしがあなたを守る。」と励ましてくださいました。そして喪失感に対しては、「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と言われたのでした。

(祈り)
全能の神さま、クリスマスと言うビックなときを過ごしています。キャンドルサービスやクリスマス祝会があって楽しんでいます。神さま、この恵をを心のなかで持ち続けることができるようにしてください。この恵みを保つことができないときには、どうか、あなたの導きを与えて 、私たちを強めてください。


12月17日火曜日
  主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。  言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」ルカによる福音書 18:6-8

  イエスは、世をさばかれるために再び来られるのですが、それは、この世に罪と不法がはびこるからです。イエスは、終わりの日について、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。(マタイ24:12)」と言われました。ですから、キリストの弟子は、この世においては苦難があります。ますます、この地上で自分は寄留者であることを告白しなければなりません(へブル11:13)。そのため、私たちはこの世において、失望させるようなことが多く出てきます。希望をなくさせるような出来事が起こります。でも、失望しないように祈りなさい、神を信じる者は決して失望に終わりません、と、イエスは教えられるのです。

(祈る)
  天にいます父なる神さま、御子イエスはあなたに近づく道として祈ることを教えています。その祈り方の一つとして(失望しないで何時までも祈ること)と、(執拗に祈ること)を求めました。なぜなら、神はみ心に叶う者の祈りを聞いてくださるからです。神さま、どうか、あなたが正しい裁き主であることを信じて、み前で恥じることがないように熱心に祈ることを行わせてください。


12月16日月曜日
  (イエスは)  少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」  マタイによる福音書 26:39

  イエスは、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。と祈られています。イエスは、父のみこころが成し遂げられることを、ご自分の願いよりも優先されました。これが私たちのあるべき信仰の姿です。ヘブル書11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」 とあります。これは、自分の望んでいることが保証されるのではなく、神の望まれていることが保証されることなのです。自分の願いではなく、神の願いを受け入れることが信仰です。イエスは、私たちに模範を残されました。自分の願うことではなく、神のみこころがなされることを願うのが、私たちのあるべき祈りです。

(祈り)
  父なる神さま、御独り子キリストは、あなたの思いがその通りになりますようにと、あえて苦しい十字架の道へと進んで行きました。あなたに従順であったゆえに、キリストは高く挙げられています。神さま、どうか、私たちも、あなたのみ心を受けとめ、それが実現することを望んで歩ませてください。クリスマスのみ心が現されますよう、主の名前によって祈ります?


12月15日アドベント第三主日
  「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。 主はその民を訪れて解放し、  我らのために救いの角を、 僕ダビデの家から起こされた。 昔から聖なる預言者たちの口を通して 語られたとおりに。 それは、我らの敵、 すべて我らを憎む者の手からの救い。  主は我らの先祖を憐れみ、 その聖なる契約を覚えていてくださる。」   ルカによる福音書 1:68-72 新共同訳

   ここで、ザカリアが預言したのは、主の救いについてです。神は、イスラエルを救い、その救い主をお立てになります。そして、天と地を造られた神が、すべてを支配し、正義と平和で特徴づけられた、理想の国(神の国)を築くのです。ここに、イスラエルが願われるとき、世界にそのような国が立てられることが示されているのです。

(祈り)
   憐れみ深い天の神さま、あなたが造られた世界とそのなかに置かれた人が、サタンによって苦しめられていることから救うために御子を遣わしてくださいました。神さま、感謝します、預言者の救い主誕生の預言を成就してくださいました。どうか、私たちがサタンの呪縛から解き放たれ、あなたの恵みのなかを喜びを持って生きることができるようにお導きください。主イエスの御名によって祈ります。

12月14日土曜日
  「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。  わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
 ローマの信徒への手紙 7:24-25

  失敗すると私たちは、さらに何とかして、それを行なわないように努力します。けれども、ますます、行なえないどころか、してはならないことまでするようになります。そしてついに、パウロの叫びである、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と言うことができるのです。このことを説明するのに、水の中で溺れている人を助けるためのレスキュー隊のレッスンの話しがあります。溺れている人を助けるとき、その人がまだ元気なときは助けることはできません。助けようとすると、その人は自分にしがみついて、自分までもが溺れてしまう危険があるからです。けれども、溺れてい

人が、もう自分はだめだと思ったとき、自分でもがくのをあきらめたときに、初めて手を差し伸べることができるそうです。救いは自分にはない、と知ったそのときに、私たちに道が切り開かれます。

(祈り)
  天の神さま、クリスマスを感謝します。救い主キリストがお生まれになったからです。このキリストが私たちのために律法をすべて成就してくだっています。神さま、どうか、このキリストを私たちの救い主と信じることができるように、私たちを救うために、この地上にこられたことを喜ぶことができるように導いてください。

12月13日金曜日
  ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」   マタイによる福音書 17:5-7 新共同訳

  イエスは、御国の栄光について教えられます。イエスは初め、父なる神のふところにおられました。その栄光から人の姿になりご自身を卑しくされました。そして十字架の死に至るまでその姿勢を貫かれました。それゆえに、ピリピ2章によると、キリストは引き上げられて、すべての名にまさる名を与えられたのです。このように栄光と苦しみは密接な関わりがあります。主は弟子たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 」(マタイ16:28)と言われました。キリストにあっては苦しみがあるのです。しかしそれは、栄光に変えられるものです。それを教えるために、三人の弟子を高い山に登らせ、山上で御

の栄光をみせられました。

(祈り)
天の神さま、あなたは愛する御子をこの世界に遣わして、十字架を負わせています。それは御子を栄光の御国へ引き上げるためでした。山上で、弟子たちは
栄光に輝くイエスを見てひれふしています。主よ、どうか、私たちキリストに従う者が、御国の栄光に預かるために、この地上で、自分の十字架を負って歩むことができるようにしてください。

12月12日木曜日
  「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」   コリントの信徒への手紙一 1:27-29 新共同訳

  神は、見下されている人や取るに足りない人たちをお救いになることによって、この世の知者がいかにむなしく、この世の権力者がいかに無力であるかをお示しになっています。だれも、自分の知恵や権力を誇ることができないようにされたのです。コリント人が分裂していた問題は、プライドです。キリスト以外に誇りとしていたものがあったので、一つになれていなかったのです。神は、そのようなプライドを打ち砕くために、愚かな者、弱い者、さげすまれている者、見下されている者を選ばれたのです。

(祈り)
天にいます神さま、私たちのために為されたキリストの御業を感謝します。知恵や地位のある者では無く、愚かで弱い者を選んで十字架の言葉を伝えることができるようにしてください。どうか、この十字架の言葉によって、私たちが豊かになり、主のみを誇ることができるように導してください。尊い主の御名によって祈ります。


12月11日水曜日
  「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。  主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」   ルカによる福音書 12:35-37 新共同訳

主人が帰ってくるのを待ち望むことは、数々の祝福を期待することです。そのため、私たちは、喜びをもって主に仕え、しなければならないことをしていくことができるのです。神を第一として生きることが、キリストが来られるのをいつでも待ち臨む事を可能にしてくれます。

(祈り)
天の神さま、主を待ち望んで、主のために働くことができますように整えてください。神の国を相続するために、勤勉に働くことを行わせてください。灯りをともすために、キリストをしっかり見つめて、その輝きを受けとめることができるように、主イエスの御名によってお祈りします。

12月10日火曜日
  「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。  コリントの信徒への手紙二 4:6

  創世記1章から、パウロは引用しています。光が創造された第一目のことですが、やみの中に光が輝き出よ、と仰せになって、光ができました。同じように、神は私たちの暗くなっている心に、キリストの御顔を輝かせてくださるのです。

(祈り)
  天にいます神さま、クリスマスを待ち望むときを感謝します。デジタル時代のこんにち、イルミネーションの点灯がクリスマスに欠かせなくなっています。イルミネーションは、瞬時に光を放ち、辺りを明るくし、輝かせます。それは、キリストの誕生の知らせが光輝くことを表しています。、どうか、この年も、クリスマスの輝きを目の当たりにすることができるようにしてください。

12月9日月曜日
  「 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い とこしえに喜び歌います。 御名を愛する者はあなたに守られ あなたによって喜び誇ります。  主よ、あなたは従う人を祝福し 御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」  詩編 5:12-13

  詩編の作者は、ここであらゆる不義の中で、主を信頼する者たちが神の愛の中で守られ、喜び歌いますようにと祈っています。新約聖書の中にも似たような祈りがあります。例えばピリピ1章。そこには、イエス様が現われてくださるときまで、彼らが霊的識別力をもって、純真で非難されることがなく、義の実にみたされるように、という願いが表されています。

(祈り)
父なる神さま、私たちが信仰によって、生かされていることを、喜び祝います。私たちはまた、信仰によって、あなたに愛されているので、喜び歌います。私たちはあなたに従うことを選んでいますので、主が、私たちを悪いものから守ってくださると信じる者にならせてください。

12月8日ドベント第二主日
  「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」
ローマの信徒への手紙 3:27-28

パウロは、信仰にについて、三つ特徴のことを語っています。
一つ目は、信仰によって、誇りが取り除かれたことです。神が一方的に行なってくださったことをただ受け入れるのであれば、私たちには誇るべきことは何一つありません。  二つ目の特徴は、異邦人が、この祝福にあずかることができることです。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。   信仰の原則についての三つ目の特徴は、律法を確立することです。律法があかししていたこと、また律法が要求していることが、イエス・キリストにあって、すべて成就したのです。イエス・キリストを信じる者は、このキリストをその人のうちにおられるので、その人のうちで律法が全うされたのです。

(祈り)
天にいます神さま、あなたは私たちを愛し、一方的な恵みによって救いを与えてくださいましたました。私たちの不義に対する怒りをキリストに下し、私たちをキリストにあって責められるところのない者にしてくださいました。どうか、この神の愛をしっかりと受け止め、へりくだって歩むことができるように助け導いてください。尊い主の御名によって祈ります。

12月7日土曜日
  「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」  テモテへの手紙一 1:15

  このパウロの、「わたしは、その罪人のかしらです」と言える人こそ、奉仕者にふさわしい人なのです。言い換えれば、悔い改めることを知っている人です。律法主義に陥り、誤った教えをしている者たちは、この悔い改めについて知りません。自分が罪人であるという認識が薄いのです。献身者とは、正しい人ではなく悔い改める人です。
    しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

(祈り)
  主なる神さま、あなたの前で私をへりくだる者にならせてください。自分の考えや力で何でもできるとうぬぼれることがないように、自分の罪深さに 気付かせ、キリストの救いを待ち望ませてください。

12月6日金曜日
  「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 」 ヨハネによる福音書 3:16-17 新共同訳

  多くの人が、「神、罪、裁き」の話を聞いて、こう感じます。「聖書の話、キリスト教の話を聞くまでは、裁きなんてことを気にしなくても良かったのに。何か裁かれているみたいだ。」と。いや、実際は反対なのです。もう既に裁かれているのです。それをただ気づいていなかったのです。だから、その裁かれている状態から救い出すために、神は御子キリストを私たちに遣わしてくださったのです。

(祈り)
  天の父なる神さま、あなたは、私たちをあなたの恵みのなかに戻すために、御子を遣わしてくださいました。御子は私たちのために苦しみを負って神の愛を表しています。アドベントのこのとき、どうか、世を救われる神の愛がすべての人に届けられることを祈らせてください。

12月5日木曜日
 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」  フィリピの信徒への手紙 4:6-7

     ここでパウロが言いたいのは、「主が戻ってこられる日が近いのだから、細部の違いをことさらに強調するのではなく、寛容でありなさい。」ということです。ユウオデキヤとスントケが、細かい違いに目が移っていっているところで、パウロがその目を主ご自身に向けさせました。ピリピ人への手紙には、主が戻って来られるという真理が、至るところに書かれています。それだけ、クリスチャンの歩みにとって、必要不可欠であるからです。    主が戻って来られることが近いことを知ることによって、何がもっとも大切で、何が二義的なことであるかを知ることができる、としています

(祈り)
愛する主よ。あなたに感謝します。あなたは地上の重要なことに手を差し伸べるだけでなく、人生経験のささやかな事柄の内にもおられるからです。神さま、私はあなたを人生のあらゆる領域で見いだしたいと望みます。あなたが私たちの地上での欲求や苦痛にも目を留めてくださるからです。どうか、私たちの生活を、あなたの平和で常に満たしてください。

12月4日水曜日
  「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」  ヤコブの手紙 3:18

  「義の実」つまり、正しさの実は、自分が正しいと思っていることをなんとしてでも通すことによってもたらされるのではなく、平和のうちにまかれて、平和をつくる人によってもたらされます。私たちが、「平和」で支配されているか、柔和さで支配されているか?また、ことばは、人を切り裂くようなものではなく、塩味のきいた恵み深いものになっているか。そうでなければ、主によってもっともっと、砕かれなければいけないのです。

(祈り)
  天の父なる神さま、私たちは穏やかに暮らしたい、平和に,生きたいと願っています。しかし、思いとは裏腹に、腹をたてたり、怒りを表したりして落ち込んでしまうことがあります。神さま、どうか、私たちを平和を実現する者と成らせてください。義の実を追い求め、聖霊の力によって、それを働かせてください。主の御名によってお祈りします。

12月3日火曜日
  「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」
ローマの信徒への手紙 8:15-16

  パウロは、まったく新しい異なる原理が私たちに与えられたことを紹介しています。いのちの御霊の原理です。神の御霊が私たちのうちで生きておられることによって、からだの行ないを殺すことができます。罪に対して死に、いのちにある新しい歩みをすることができるのは、いのちの御霊が私たちのうちに生きておられるからです。

(祈り)
  愛なる神さま、私たちを神の子として、新たな関係に招き入れてくださることを感謝します。それは、あなたの愛によって、私たちのうちに宿ってくださる御霊が働いておられるからです。どうか、御霊が自由に働いて、私たちが神の子としての歩み輝かせることができるようにしてください。

12月2日月曜日
 「 あなたは全き平安をもって こころざしの堅固なものを守られる。 彼はあなたに信頼しているからである。 とこしえに主に信頼せよ、 主なる神はとこしえの岩だからである。」     イザヤ書 26:3-4 口語訳

  これはすばらしい御言葉です。単なる平安の約束ではなく、全き平安、完全な平安の約束です
神の平安は、すべてのことを主にお任せすることによって、思いと理解を超えたところから来る平安です。たとえ状況は変わっていなくても、心は平安に満ちています。主を信頼するところから来る平安です。

(祈り)
天の父なる神さま、日々の営みのなかのすべてのことにおいて、あなたの導きと守りを与えてください。どうか、まことの平安が、私たちを守ってくださることを体感できるよう歩ませてください。

12月1日アドベント第一主日
  「娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。 見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」  ゼカリヤ書 9:9 新共同訳

  アレキサンダー大王をエルサレムの住民が喜び迎え入れたように、彼らはメシヤを自分たちの町に迎え入れます。もちろんこの「あなたの王」はアレキサンダー大王ではありません。この方は馬ではなく「ろば」に乗ってこられます。当時、平和な時に王はろばに乗りました。この方は、「正しい」方であります。そして「救い」を賜っておられます。さらに、「柔和」あるいは「へりくだって」おられます。そうです、この方が私たちの主イエス・キリストです。

(祈り)
  天地の造り主なる神さま、あなたは私たちのために王を遣わしてくださいました。彼は私たちに救いをもたらすために来られています。力強い王としてではなく、へりくだった柔和な君として現されています。その王の誕生を待ち望むこのとき、「来たりたまえ、私たちの救い主」と祈り求めることができますように導いてください。イエス·キリストの御名によって祈ります。



11月30日土曜日
  「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」 ローマの信徒への手紙 13:10

  もし、隣人を愛しているなら、その人の妻と姦淫の関係に入りません。もちろん殺しません。その人のことを愛しているなら、盗むこともしません。むさぼりもしないのですが、その人を愛していれば、たくさんある律法をすべて守っているのです。だから、愛によって律法を全うしているとパウロは言っているのです。

(祈り)
  主なる神さま、御子イエスさまは、律法の中でもっとも大切な戒めは、「主なる神を愛する」ことと、「自分自身のように隣人を愛する」ことであると言われました。主よ、私たちに神さまと私たちの周りにいる人々を覚えて愛することを行わせてください。この世界は神さまの忌み嫌う悪が満ち、私たちを悪に陥れようとしていますが、それでもなお、愛することを戒めとして保たせてください。主のみ名によって祈ります。











今日の聖句2024年10月度
流れのほとり トップページへ