今日の聖句 2024年12月 nagarenohotori
聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。
12月21日土曜日
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
ルカによる福音書 1:41-45
エリサベトは、信仰によって自分のところにあいさつに来たマリヤを祝福しました。マリヤは、まだ自分が身ごもっているか認めることができませんでした。また、エリサベトが子を宿しているか見ていませんでした。しかし、これらのことを信じて疑いませんでした。信じて疑わなかったので、それが行動になって出てきたのです。私たちはどうでしょうか。私たちは確かに確認はしますが、それは、神の言われたことがまだ信じきれないためのことが多く、不信仰によって行動してしまいます。例えば、イエスがよみがえったとき、弟子のトマスは、イエスの手にある釘の穴と、わきに手を入れてみなければ、私は信じない、と言いました。イエスが現れて、トマ
スに、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである。(ヨハネ20:29)」と言われました。見ないで信じる者は幸いなのです。
(祈り)
天にいます父なる神さま、クリスマスに登場する二人の女性は、神さまに選ばれた信仰厚い人でした。一人は年老いてから子を宿し、一人は聖霊によって宿しました。そして、その子が、神さまの働きを行うことを信じて望んでいます。神さまのご計画を受け入れ用いられる人は幸いです。主よ、どうか、私たちも神さまの為されることを待ち望む信仰を持たせてください。
12月20日金曜日
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 マタイによる福音書 1:20-21
天使はまず、イエスは聖霊によってお生まれになったことを告げています。イエスは人間としてはマリヤから生まれましたが、本当のルーツはこの天地を創造された神なのです。それゆえ、イエス・キリストは、神の一人子と呼ばれています。
そして次に、生まれてくる男の子にイエスと名づけなさい、と天使は命令しています。イエスというのは、ギリシャ語で、そのヘブル語にあたる言葉は、ヨシュアです。ヨシュアはヤホシュアの短縮形であり、これを訳すと、「エホバは救い」となります。つまり、イエスとは、主が救いという意味なのです。イエスという名に、この方が、神が人間を罪から救い出すために送られた救い主である意味が含まれています。
(祈り)
救い主イエス·キリストの父なる神さま、マリアとその夫ヨセフの夫婦からを一人子を誕生させるストーリを計画してくださったあなたの偉大さをほめたたえます。マリアとヨセフの正しい信仰が、その計画の実現をもたらしていることを感謝します。どうか、クリスマスに現された主の恵みが、今年も多くの人々の心を魅了することができるようにしてください。
12月19日木曜日
「わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。
約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 』 ヘブライ人への手紙
10:21-23
心と良心というのは、人間にとって非常に大切な部分です。心は感情の奥深い部分、良心は、善悪を知るインジケーター、ここで神の御霊が私たちの霊にかかわりを持たれて、私たちは神を知ることができるようになります。この部分がきよめられていないと、外側では、神を敬っているようにふるまうことができるかもしれませんが、かえって罪を犯して、重荷を背負うだけとなります。自分がいかにだめな人間かと、自分を罪定めするようになります。私たちが良い行ないをすることができるのは、唯一、自分の良心がきよめられることによってのみなのですが、それを可能にするのが、キリストの血なのです。
(祈り)
天の神さま、あなたは聖なる心と生活を喜ばれます。あなたの栄光の為に、すべての不義から私を清めてください。神よ、私の歩むすべての道をあなたに委ねます。どうか、あなたがふさわしいと思う時に、私を引き上げ、あなたのよう聖なる者としてください。主の御名によって祈ります。
12月18日水曜日
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。 「恐れるな、アブラムよ。 わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」 創世記 15:1
「これらの出来事」とは、アブラハムがロトを救出した出来事です。バビロン地方から来た四人の王からロトとその財産を奪い返しました。
その後に残っていたのは、恐れと、喪失感です。
私たちも、霊的に大きな働きをした後に、しばしばアブラハムと同じような心境になります。そこで必要なのは、さらなる大きな神の御業ではありません。主ご自身から直接語られることです。
主はアブラハムに語ります。主はまず「恐れるな。わたしはあなたの盾であるな。」と言われました。アブラハムの恐れに対して、「わたしが盾になる、わたしがあなたを守る。」と励ましてくださいました。そして喪失感に対しては、「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と言われたのでした。
(祈り)
全能の神さま、クリスマスと言うビックなときを過ごしています。キャンドルサービスやクリスマス祝会があって楽しんでいます。神さま、この恵をを心のなかで持ち続けることができるようにしてください。この恵みを保つことができないときには、どうか、あなたの導きを与えて
、私たちを強めてください。
12月17日火曜日
主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」ルカによる福音書 18:6-8
イエスは、世をさばかれるために再び来られるのですが、それは、この世に罪と不法がはびこるからです。イエスは、終わりの日について、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。(マタイ24:12)」と言われました。ですから、キリストの弟子は、この世においては苦難があります。ますます、この地上で自分は寄留者であることを告白しなければなりません(へブル11:13)。そのため、私たちはこの世において、失望させるようなことが多く出てきます。希望をなくさせるような出来事が起こります。でも、失望しないように祈りなさい、神を信じる者は決して失望に終わりません、と、イエスは教えられるのです。
(祈る)
天にいます父なる神さま、御子イエスはあなたに近づく道として祈ることを教えています。その祈り方の一つとして(失望しないで何時までも祈ること)と、(執拗に祈ること)を求めました。なぜなら、神はみ心に叶う者の祈りを聞いてくださるからです。神さま、どうか、あなたが正しい裁き主であることを信じて、み前で恥じることがないように熱心に祈ることを行わせてください。
12月16日月曜日
(イエスは) 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 マタイによる福音書
26:39
イエスは、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。と祈られています。イエスは、父のみこころが成し遂げられることを、ご自分の願いよりも優先されました。これが私たちのあるべき信仰の姿です。ヘブル書11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
とあります。これは、自分の望んでいることが保証されるのではなく、神の望まれていることが保証されることなのです。自分の願いではなく、神の願いを受け入れることが信仰です。イエスは、私たちに模範を残されました。自分の願うことではなく、神のみこころがなされることを願うのが、私たちのあるべき祈りです。
(祈り)
父なる神さま、御独り子キリストは、あなたの思いがその通りになりますようにと、あえて苦しい十字架の道へと進んで行きました。あなたに従順であったゆえに、キリストは高く挙げられています。神さま、どうか、私たちも、あなたのみ心を受けとめ、それが実現することを望んで歩ませてください。クリスマスのみ心が現されますよう、主の名前によって祈ります?
12月15日アドベント第三主日
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。 主はその民を訪れて解放し、 我らのために救いの角を、 僕ダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して 語られたとおりに。 それは、我らの敵、 すべて我らを憎む者の手からの救い。 主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。」 ルカによる福音書 1:68-72 新共同訳
ここで、ザカリアが預言したのは、主の救いについてです。神は、イスラエルを救い、その救い主をお立てになります。そして、天と地を造られた神が、すべてを支配し、正義と平和で特徴づけられた、理想の国(神の国)を築くのです。ここに、イスラエルが願われるとき、世界にそのような国が立てられることが示されているのです。
(祈り)
憐れみ深い天の神さま、あなたが造られた世界とそのなかに置かれた人が、サタンによって苦しめられていることから救うために御子を遣わしてくださいました。神さま、感謝します、預言者の救い主誕生の預言を成就してくださいました。どうか、私たちがサタンの呪縛から解き放たれ、あなたの恵みのなかを喜びを持って生きることができるようにお導きください。主イエスの御名によって祈ります。
12月14日土曜日
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
ローマの信徒への手紙 7:24-25
失敗すると私たちは、さらに何とかして、それを行なわないように努力します。けれども、ますます、行なえないどころか、してはならないことまでするようになります。そしてついに、パウロの叫びである、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と言うことができるのです。このことを説明するのに、水の中で溺れている人を助けるためのレスキュー隊のレッスンの話しがあります。溺れている人を助けるとき、その人がまだ元気なときは助けることはできません。助けようとすると、その人は自分にしがみついて、自分までもが溺れてしまう危険があるからです。けれども、溺れてい
る
人が、もう自分はだめだと思ったとき、自分でもがくのをあきらめたときに、初めて手を差し伸べることができるそうです。救いは自分にはない、と知ったそのときに、私たちに道が切り開かれます。
(祈り)
天の神さま、クリスマスを感謝します。救い主キリストがお生まれになったからです。このキリストが私たちのために律法をすべて成就してくだっています。神さま、どうか、このキリストを私たちの救い主と信じることができるように、私たちを救うために、この地上にこられたことを喜ぶことができるように導いてください。
12月13日金曜日
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
マタイによる福音書 17:5-7 新共同訳
イエスは、御国の栄光について教えられます。イエスは初め、父なる神のふところにおられました。その栄光から人の姿になりご自身を卑しくされました。そして十字架の死に至るまでその姿勢を貫かれました。それゆえに、ピリピ2章によると、キリストは引き上げられて、すべての名にまさる名を与えられたのです。このように栄光と苦しみは密接な関わりがあります。主は弟子たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
」(マタイ16:28)と言われました。キリストにあっては苦しみがあるのです。しかしそれは、栄光に変えられるものです。それを教えるために、三人の弟子を高い山に登らせ、山上で御
国
の栄光をみせられました。
(祈り)
天の神さま、あなたは愛する御子をこの世界に遣わして、十字架を負わせています。それは御子を栄光の御国へ引き上げるためでした。山上で、弟子たちは
栄光に輝くイエスを見てひれふしています。主よ、どうか、私たちキリストに従う者が、御国の栄光に預かるために、この地上で、自分の十字架を負って歩むことができるようにしてください。
12月12日木曜日
「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」 コリントの信徒への手紙一 1:27-29 新共同訳
神は、見下されている人や取るに足りない人たちをお救いになることによって、この世の知者がいかにむなしく、この世の権力者がいかに無力であるかをお示しになっています。だれも、自分の知恵や権力を誇ることができないようにされたのです。コリント人が分裂していた問題は、プライドです。キリスト以外に誇りとしていたものがあったので、一つになれていなかったのです。神は、そのようなプライドを打ち砕くために、愚かな者、弱い者、さげすまれている者、見下されている者を選ばれたのです。
(祈り)
天にいます神さま、私たちのために為されたキリストの御業を感謝します。知恵や地位のある者では無く、愚かで弱い者を選んで十字架の言葉を伝えることができるようにしてください。どうか、この十字架の言葉によって、私たちが豊かになり、主のみを誇ることができるように導してください。尊い主の御名によって祈ります。
12月11日水曜日
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」
ルカによる福音書 12:35-37 新共同訳
主人が帰ってくるのを待ち望むことは、数々の祝福を期待することです。そのため、私たちは、喜びをもって主に仕え、しなければならないことをしていくことができるのです。神を第一として生きることが、キリストが来られるのをいつでも待ち臨む事を可能にしてくれます。
(祈り)
天の神さま、主を待ち望んで、主のために働くことができますように整えてください。神の国を相続するために、勤勉に働くことを行わせてください。灯りをともすために、キリストをしっかり見つめて、その輝きを受けとめることができるように、主イエスの御名によってお祈りします。
12月10日火曜日
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
コリントの信徒への手紙二 4:6
創世記1章から、パウロは引用しています。光が創造された第一目のことですが、やみの中に光が輝き出よ、と仰せになって、光ができました。同じように、神は私たちの暗くなっている心に、キリストの御顔を輝かせてくださるのです。
(祈り)
天にいます神さま、クリスマスを待ち望むときを感謝します。デジタル時代のこんにち、イルミネーションの点灯がクリスマスに欠かせなくなっています。イルミネーションは、瞬時に光を放ち、辺りを明るくし、輝かせます。それは、キリストの誕生の知らせが光輝くことを表しています。、どうか、この年も、クリスマスの輝きを目の当たりにすることができるようにしてください。
12月9日月曜日
「 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い とこしえに喜び歌います。 御名を愛する者はあなたに守られ あなたによって喜び誇ります。
主よ、あなたは従う人を祝福し 御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」 詩編 5:12-13
詩編の作者は、ここであらゆる不義の中で、主を信頼する者たちが神の愛の中で守られ、喜び歌いますようにと祈っています。新約聖書の中にも似たような祈りがあります。例えばピリピ1章。そこには、イエス様が現われてくださるときまで、彼らが霊的識別力をもって、純真で非難されることがなく、義の実にみたされるように、という願いが表されています。
(祈り)
父なる神さま、私たちが信仰によって、生かされていることを、喜び祝います。私たちはまた、信仰によって、あなたに愛されているので、喜び歌います。私たちはあなたに従うことを選んでいますので、主が、私たちを悪いものから守ってくださると信じる者にならせてください。
12月8日ドベント第二主日
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」
ローマの信徒への手紙 3:27-28
パウロは、信仰にについて、三つ特徴のことを語っています。
一つ目は、信仰によって、誇りが取り除かれたことです。神が一方的に行なってくださったことをただ受け入れるのであれば、私たちには誇るべきことは何一つありません。
二つ目の特徴は、異邦人が、この祝福にあずかることができることです。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。
信仰の原則についての三つ目の特徴は、律法を確立することです。律法があかししていたこと、また律法が要求していることが、イエス・キリストにあって、すべて成就したのです。イエス・キリストを信じる者は、このキリストをその人のうちにおられるので、その人のうちで律法が全うされたのです。
(祈り)
天にいます神さま、あなたは私たちを愛し、一方的な恵みによって救いを与えてくださいましたました。私たちの不義に対する怒りをキリストに下し、私たちをキリストにあって責められるところのない者にしてくださいました。どうか、この神の愛をしっかりと受け止め、へりくだって歩むことができるように助け導いてください。尊い主の御名によって祈ります。
12月7日土曜日
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」
テモテへの手紙一 1:15
このパウロの、「わたしは、その罪人のかしらです」と言える人こそ、奉仕者にふさわしい人なのです。言い換えれば、悔い改めることを知っている人です。律法主義に陥り、誤った教えをしている者たちは、この悔い改めについて知りません。自分が罪人であるという認識が薄いのです。献身者とは、正しい人ではなく悔い改める人です。
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
(祈り)
主なる神さま、あなたの前で私をへりくだる者にならせてください。自分の考えや力で何でもできるとうぬぼれることがないように、自分の罪深さに
気付かせ、キリストの救いを待ち望ませてください。
12月6日金曜日
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
」 ヨハネによる福音書 3:16-17 新共同訳
多くの人が、「神、罪、裁き」の話を聞いて、こう感じます。「聖書の話、キリスト教の話を聞くまでは、裁きなんてことを気にしなくても良かったのに。何か裁かれているみたいだ。」と。いや、実際は反対なのです。もう既に裁かれているのです。それをただ気づいていなかったのです。だから、その裁かれている状態から救い出すために、神は御子キリストを私たちに遣わしてくださったのです。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたは、私たちをあなたの恵みのなかに戻すために、御子を遣わしてくださいました。御子は私たちのために苦しみを負って神の愛を表しています。アドベントのこのとき、どうか、世を救われる神の愛がすべての人に届けられることを祈らせてください。
12月5日木曜日
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
フィリピの信徒への手紙 4:6-7
ここでパウロが言いたいのは、「主が戻ってこられる日が近いのだから、細部の違いをことさらに強調するのではなく、寛容でありなさい。」ということです。ユウオデキヤとスントケが、細かい違いに目が移っていっているところで、パウロがその目を主ご自身に向けさせました。ピリピ人への手紙には、主が戻って来られるという真理が、至るところに書かれています。それだけ、クリスチャンの歩みにとって、必要不可欠であるからです。
主が戻って来られることが近いことを知ることによって、何がもっとも大切で、何が二義的なことであるかを知ることができる、としています
(祈り)
愛する主よ。あなたに感謝します。あなたは地上の重要なことに手を差し伸べるだけでなく、人生経験のささやかな事柄の内にもおられるからです。神さま、私はあなたを人生のあらゆる領域で見いだしたいと望みます。あなたが私たちの地上での欲求や苦痛にも目を留めてくださるからです。どうか、私たちの生活を、あなたの平和で常に満たしてください。
12月4日水曜日
「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」 ヤコブの手紙 3:18
「義の実」つまり、正しさの実は、自分が正しいと思っていることをなんとしてでも通すことによってもたらされるのではなく、平和のうちにまかれて、平和をつくる人によってもたらされます。私たちが、「平和」で支配されているか、柔和さで支配されているか?また、ことばは、人を切り裂くようなものではなく、塩味のきいた恵み深いものになっているか。そうでなければ、主によってもっともっと、砕かれなければいけないのです。
(祈り)
天の父なる神さま、私たちは穏やかに暮らしたい、平和に,生きたいと願っています。しかし、思いとは裏腹に、腹をたてたり、怒りを表したりして落ち込んでしまうことがあります。神さま、どうか、私たちを平和を実現する者と成らせてください。義の実を追い求め、聖霊の力によって、それを働かせてください。主の御名によってお祈りします。
12月3日火曜日
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」
ローマの信徒への手紙 8:15-16
パウロは、まったく新しい異なる原理が私たちに与えられたことを紹介しています。いのちの御霊の原理です。神の御霊が私たちのうちで生きておられることによって、からだの行ないを殺すことができます。罪に対して死に、いのちにある新しい歩みをすることができるのは、いのちの御霊が私たちのうちに生きておられるからです。
(祈り)
愛なる神さま、私たちを神の子として、新たな関係に招き入れてくださることを感謝します。それは、あなたの愛によって、私たちのうちに宿ってくださる御霊が働いておられるからです。どうか、御霊が自由に働いて、私たちが神の子としての歩み輝かせることができるようにしてください。
12月2日月曜日
「 あなたは全き平安をもって こころざしの堅固なものを守られる。 彼はあなたに信頼しているからである。 とこしえに主に信頼せよ、
主なる神はとこしえの岩だからである。」 イザヤ書 26:3-4 口語訳
これはすばらしい御言葉です。単なる平安の約束ではなく、全き平安、完全な平安の約束です
神の平安は、すべてのことを主にお任せすることによって、思いと理解を超えたところから来る平安です。たとえ状況は変わっていなくても、心は平安に満ちています。主を信頼するところから来る平安です。
(祈り)
天の父なる神さま、日々の営みのなかのすべてのことにおいて、あなたの導きと守りを与えてください。どうか、まことの平安が、私たちを守ってくださることを体感できるよう歩ませてください。
12月1日アドベント第一主日
「娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。 見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。」 ゼカリヤ書 9:9 新共同訳
アレキサンダー大王をエルサレムの住民が喜び迎え入れたように、彼らはメシヤを自分たちの町に迎え入れます。もちろんこの「あなたの王」はアレキサンダー大王ではありません。この方は馬ではなく「ろば」に乗ってこられます。当時、平和な時に王はろばに乗りました。この方は、「正しい」方であります。そして「救い」を賜っておられます。さらに、「柔和」あるいは「へりくだって」おられます。そうです、この方が私たちの主イエス・キリストです。
(祈り)
天地の造り主なる神さま、あなたは私たちのために王を遣わしてくださいました。彼は私たちに救いをもたらすために来られています。力強い王としてではなく、へりくだった柔和な君として現されています。その王の誕生を待ち望むこのとき、「来たりたまえ、私たちの救い主」と祈り求めることができますように導いてください。イエス·キリストの御名によって祈ります。
11月30日土曜日
「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」 ローマの信徒への手紙 13:10
もし、隣人を愛しているなら、その人の妻と姦淫の関係に入りません。もちろん殺しません。その人のことを愛しているなら、盗むこともしません。むさぼりもしないのですが、その人を愛していれば、たくさんある律法をすべて守っているのです。だから、愛によって律法を全うしているとパウロは言っているのです。
(祈り)
主なる神さま、御子イエスさまは、律法の中でもっとも大切な戒めは、「主なる神を愛する」ことと、「自分自身のように隣人を愛する」ことであると言われました。主よ、私たちに神さまと私たちの周りにいる人々を覚えて愛することを行わせてください。この世界は神さまの忌み嫌う悪が満ち、私たちを悪に陥れようとしていますが、それでもなお、愛することを戒めとして保たせてください。主のみ名によって祈ります。
今日の聖句2024年10月度
流れのほとり トップページへ