(ACCA)異文化理解研究推進会 2012年研究会
「異文化を生きた人~
大阪キリスト教学院を再建した、織田金雄師の足跡から」
2012年10月13日13:30
大阪市立阿倍野市民学習センター
発表: 竹谷 敏朗
(ACCAチャプレン)
生い立ち
1901年(明治34年)大阪市にて父織田三郎、母宇多の次男として金雄先生は生まれました。家庭は貧乏で、しかもお母さんは重い病気を患っていて死ぬばかり、親子7人は飲まず食わずの生活でした。
8歳の時、お母さんもう危篤と言うので、金雄少年は地蔵さんに行って一生懸命お祈りをしていました。その時、お父さんが若い時の信仰を思い出して、大阪日本橋教会の小野田茂太郎牧師を連れて来て話しを聞かせると、お母さんは悔い改めるのです。そして金雄少年は小野田牧師の勧めで教会に通うようになり、お母さんのために今度は教会にて祈りを積むのでした。余命3ヶ月と言われていたそのお母さん3ヶ月が経っても死ぬことはなく、6ヶ月目には床を取り上げて座ることができ、まもなく起き上がることができるようになりました。それが織田金雄少年がキリスト教信仰を持って生きる始めとなりました。
しかしお母さんが3年あまりふせっている間に借金はたまり、それを払うために惨めな生活が続いていましたが、金雄少年たちは一日も休まず日曜学校に通いました。中学入学する時、お父さんは駄目だと言いましたが、お母さんは行かせるべきだと言い、そのお母さんの強い願いから今宮中学に入学することになりましたが、貧しさのために服も靴も本もない生活を送ります。けれどもその間、一日も日曜学校を休むことはありませんでした。
献身
金雄少年は医者と牧師が大嫌いのため、高校の受験準備を進めていた、中学5年の時、金雄少年は「献身せよ」との声を聞く。父は高校に行って工場を作ってやってくれなくては困る、母はお前がそんな所に行かなくとも、ほかの人がやってくださる、どうか、それだけはやめてちょいうだいと言う。その時、金雄少年は「私をイサクにしてください。どうかはん祭として私を献げてください。これまでのご恩を思えばお父さんやお母さんに楽をさせてあげたいし、一家のために尽くさねばなりません。しかし神は必ず私に代わる者を備えてくださいます。そしてお父さんを助けてくださると信じます。」
すると父は「私はおまえの献身を心配していた。そこまで決心しているのならよろしい。今日限りわしのことを考える必要はない。今日限り神のものとなったのだ。わしはお前の伝道のために助けよう」と言って許したのでした。
留学
その言葉の通り、金雄氏が神学校を出てアメリカに行く時、父が費用を出してくれています。そしてここから金雄先生が大きな器となって用いられていくようになりました。
織田金雄先生の足跡
○「三つ子の魂は百まで」とのことわざがあるように、子どもの時代をどう過ごすかがその人となりを育むのは真理です。織田金雄先生の幼児期の体験が、先生の生涯の太い土台となっています。それは神を頼って生きることです。神に頼ることによって、お母さんの病は癒され、貧困のなかで中学校に学ぶことによってさらに上級の学校で学ぶことにいたり、神に頼って教会活動を進めることによって大阪キリスト教学院を起こし、中国への伝道に赴き、世界のなかの日本の役割を認識して国内外で全力で神に仕える生涯を送っています。
○神に頼るという信念のなかに、織田金雄先生は最大の努力を怠らずに進んでいます。
今宮中学校では教科書を買えない貧乏のなかで、友人から教科書を借りて学んでいます。
神学校を卒業後、アメリカに留学するのですが、教会に遣わされていた宣教師から英語を学んでいたので、留学に進むことができたのです。神学校卒業後、シアトル太平洋大学に
入学していますが、3年に編入して2年でB・Dの学位を取得しています。これは先生の実力と努力の賜物と言えます。帰国後、神学校の先生になっていますが、担当した教科のなかに音楽とあります。これも教会で宣教師から学んだものと思われます。理論ではなく実技の点でも優れていたことが表されています。
○織田金雄先生は献身することによって、神から託された賜物を神によって用いられています。語学力、説教術、表現力などには特に卓越しています。母校のシアトル太平洋大学で卒業式のメッセージをするぐらいの英語力、会議や大会で出席して代表としての意見を述べることのできる能力、「私はアメリカに学び、カナダに遊び、中華民国に宣教師となり、韓国の友を持ち、インドの教授と親交を温め、スエーデン、ノールウエー、オランダの人々の家に泊まり、ドイツ人と仕事を共にした」と述べているほど、先生の語学力は抜きんでいます。中国では賀川豊彦先生の通訳をしていたと中国語にもたけていました。
○先生の説教、講演は今もなお力強く残っています。ベースになっているのは宗教の比較、殊に仏教に対する深い理解が聖書のメッセージを際立てています。サンフランシスコ神学校に提出する博士論文は「キリスト教と浄土諸宗派ーキリストの人格と働きに基づいたキリスト教と浄土諸宗派の比較研究ー」となっていました。これは中島 守先生がACCAの目的として掲げていた「民族」と「宗教」というテーマにふさわしものです。先生は日本における教会の進展のために、仏教を知り、聖書を学んでいたのでしょう。
○先生は落語をよく聞いていたと言います。それが先生のメッセージのための学びでありました。説教は論理的に組み立てられ、そこに聞かせる話術を組み込んでいましたから、多くの人に感動を与えていました。
○神学生時代に先生は「荷籠をかついで」を出版しています。今もなお読む人に感動を
与えています。先生は「日曜学校教案研究」という教団の雑誌に「母の読本」と連載し
ていますが、心理学をベースに、先生の体験をアレンジに、読んで聞かせるシリーズとなりました。表現力の豊かさも先生の大きな賜物の一つです。
○先生の語学力、表現力は単に言葉を話すだけではなく、コミュニケーションを有効にするために用いらてています。北米自由メソジスト教会との関係構築・維持のために先生のコミュニケーション力が大きな成果を表しています。戦後まもなく荒廃した丸山の学校の再建、教会の修復・再建に北米自由メソジストの支援が先生を通して実現しています。
○米国教会の考え方の一つは、代表者を尊重し、代表者を支援するという点があります。ですから監督制という在り方がうまく機能しています。大統領制もその一つです。私の卒業した「カルフォルニア神学大学院」はアメリカの学校のブランチとなっていました。日本のブランチの行うこと、学生の受け入れ、単位の認定、学位の認定などの学校の機能は日本のブランチの学長の権限のなかにありました。日本の学長が学位を認定することで、本校の学長の名前で学位が授与され、学位機構に登録されるという仕組みです。これと同じく、北米自由メソジスト教会は織田金雄総理、院長を通して多額の支援を行い、織田先生の働きを助けています。外ならず、先生の人格、学力、信仰力が、日本の教会のリーダーとして米国にオイテ認められていたと言えます。
○「異文化に生きた人々」というテーマで織田金雄先生の足跡を見つめ直して来ました。その(今日の)結論として、①現状を理解することが大切なこと、今の私たちの社会を動かしている考え方を見極めることの重要さを知ること、②日本のキリスト教会は世界のなかにある教会の一つであることを知り、他の国の教会ともっと交流すること、③そのために語学力、表現力を身につけ表すことの必要を訴えて終わりといたします。
参考文献
〇「足跡ー織田金雄思い出集」 1969年4月 日本ミッション印刷部刊
〇「織田金雄説教集」 1979年5月 聖書燈社刊
織田金雄略歴
1904年ー1965年
大阪府立今宮中学、自由メソジスト神学校、
米国シアトル太平洋大学卒業(B.A)、
サンフランシスコ神学校神学博士課程修了(MA,BD)
自由メソジスト神学校教授、中国宣教師、大阪日本橋教会牧師、
大阪基督教学院院長、理事長、日本自由メソジスト教団総理を歴任
著書「荷籠をかついで」
1975年改訂新版 聖燈社刊
1925年初版発行