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「レィイッビー」とは 、ここでは、「そのままにしておきなさい」 とか、「 神様にお任せしなさい 」という意味と思われます 。
讃美歌339番の原詩にはレットイットビーの後に神聖な「consecrated」 という 言葉がついていますので、 ビートルズとは違った文脈になっています。 第1節 全体を訳すと次のようになります 。
「 私の命を取って 主よ、あなたに捧げさせてください。
私の手を取って、動かしてください。
あなたの愛の衝動のままに、 あなたの愛の衝撃のように。
この讃美歌の作者はローマ人への手紙12章を連想していたと言われています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(12章1-2節)
この歌の讃美歌の作詞者フランシス リドレイ ハバカルはイングランド西部のウスターシア州 アストレーという町に生まれました。 父 ウィリアム ハバガルは当時の教会を代表する牧師で、自ら讃美歌の作詞作曲を行い 、讃美歌 研究の上でも 業績のあった人です。 彼の讃美歌が私たちの讃美歌集にも入っています 。31番 わがみかみよ 60番 いずこにみたみの 132番めぐみにかがやき 及び み恵みあふれる540番の4曲です 。
フランシスは生まれつき 虚弱な体質でした。11歳のとき 母の病気が末期的な症状であると知らされた時 、それを信じようとはしませんでした。母は娘に言いました 。「フランシス 神様が備えていてくださることに従うようになりなさい 」 と。 フランシスはこの言葉を(まもなく行く) 母のために神が天国に場所を準備しておられるというように理解しました。 しかし 後になって フランシスはこの母の願いの意味がわかって、その後は生涯 すべてに、神の働き(みこころ)が分かるように 祈りました。彼女は子供の頃 自分が神にに選ばれていないのではないかと気にしていましたが 、青年期に達しては決定的な回心を経験します 。「私はその場で神に魂を委ねました。その時から 天地が輝いて見えるようになりました』 彼女はその時のことをこのように表現しています。
彼女はまた美しい声の持ち主で 、この地方で「賛美歌を最も美しく 歌う人」と言われていました またヘンデル メンデルスゾーン ベートーベンの曲など ピアノの演奏家としても知られていました 。これらの素質の他に 5カ国語に精通する という語学の才能にも恵まれていましたから、この世的に名を成すこともできたのですが 、彼女はその一切を献げて イエス・キリストに対する忠誠と人々への奉仕に生きたのです。 彼女は熱心に祈り ピアノを弾き、また作詞をしました。 彼女が書いた 讃美歌には 「献身」、「 清潔」を主題にしたものが多いと言われます。 私たちの讃美歌集にも この他に「清潔」のところに「主はいのちを」332番が、また「青年」のところに「みめぐみを身にうくれば」448番の2つが入っています。 讃美歌339番の一節の原詩が2種類あります。 なぜなのかは分かってはいません。 現行の 英米の讃美歌集に多く 見られる もう一つのものを訳すと次のようになります。
私の命をとって、主よ、あなたに献げさせてください。
私の瞬間と生涯をとって、絶え 賛美するものにしてください。 絶えず 賛美するものにしてください。
42歳の時 入院していて 病状が思わしくもなく もう長くは生きられないかも知らないと医師から言われた時 フランシスは「死ぬというのが本当なら とても良い知らせです」と言ったそうです。 彼女はベッドの下に好きな聖句を書いた紙を挟んでいて、見たい時にはいつでも見れるようにしていました 。その1枚には「神の子イエス・キリストの血、 全ての罪より我を潔める」 第一ヨハネ1章7節 文語訳 )と書かれていました。 彼女の墓碑にもこの聖句は刻まれています。
中島愛子さんは織田金雄・貞夫妻の長女としてこの世に生をあたえられました。お父さんが牧師であったので、聖書のなかにある言葉、神は愛なり ヨハネの手紙第一4章8節から 愛子と名付けられたようであります。名は態を表すという言葉があるように、愛子さんは愛らしい、誰からも好まれる、やさしい人でありました。日本に宣教師として来られていたご夫妻に長女がお生まれになられたとき、当時の織田愛子さんに親しみをもっておられ、そのお子さんに愛子と名付けられています。その方はいまでも好んで愛子と名乗っておられ、毎年、愛子さんにクリスマスカードを送ってこられていました。
中島愛子さんは、1934年11月5日に生まれています。父が中国への宣教師として遣わされたので、小学生時代を中国・北京で過ごしています。結婚後、夫の留学先の北米に渡り、5年間過ごす。その時に、お花を贈られる喜びを体験し、フラワーデザインに関心を抱きます。帰国後、教会で結婚式が行われる時に、フラワーデザインの必要を覚え、マミフラワーデザインスクールに入学。 講師資格取得し、教室を開設すし、1974年マミフラワーデザインスクールの指定教室に認定されています。。
喜びの表現、悲しみの表現、お祝いの表現、励ましの表現としてのフラワーデザインの魅力を知ることをモットーに、デザイナー、講師として活動を続けた。いくつかの教会でも、フラワーデザインクラスを持たれていました。。北米生活時代に二人の子どもに恵まれているが、二人とも国籍はアメリカにある。彼らの子ども、すなわちお孫さんは七名あられ、彼らを愛されておられた。
2003年5月 夫の守先生の召天後、 彼の創設した「異文化理解研究推進会」の活動を、一端は閉じることを考えておられたのだが、会のメンバーが、続けてほしい、続けていきたいと願うので、その会を代表として引継ぎ、異文化の研究会やクリスマスキャンドルサービスなどを20年間続けてこられました。愛子氏は三人姉妹の長女で、三人とも教会に仕えることを喜びとしていました。(次女の純子氏は先に天に召されている。)
教会は大阪東南教会と、北米シアトルバラード教会、大阪キリスト教学院教会では牧師夫人として活躍、学院教会では特に教会学校の子どもたちにのために「ヤンクル(ヤングクルセーダズ)」としての活動を続けられた。
夫の死後は、学院教会教会学校の生徒であった飯田克弥氏が創設した教会(J-House)で、信仰生活を守り、ここでも子どもたち(幼児)のお世話を喜んで行われています。ここ数年は体調不良のため、一人では教会に通うことができないこともあって、教会に行けないときには、オンラインで礼拝を守ることが多くなっていました。
2025年10月20日夜、自宅で倒れる。回復の向けて頑張っていた矢先の22日早朝、天の神さまの御心により地上での生涯を閉じられた。お名前の通り、愛らしく、だれからも慕われ、頼られる存在であられた。享年90歳。ご遺族のうえに、彼女の死を悲しむ方々のうえに、天父の慰めをお祈りいたします。
なおご葬儀は家族葬として10月25日に行われました。
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