今日の聖句  2025年1月    nagarenohotori      

      聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。



1月30日木曜日
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
コリントの信徒への手紙二 4:16

私たちが将来の栄光を見つめるときに、私たちの内なる人、つまり霊魂は新たにされます。そのときに外なる人、つまり肉体は衰えます。外は衰えるのですが、内は新たにされる、こうした一見矛盾した現象が、私たちのうちに起こるのです。キリスト者として生きるときに、外なる人は衰えていくことを体験するのです。キリスト者の特権は、外なる人が衰えているときに、将来への希望を見て、内なる人が新たにされていくことです。ますます天国についてのビジョンがはっきりとしてきます。ますます、キリストの十字架への道と復活の深みを味わうようになります。

(祈り)
天にいます私たちの父なる神さま、私たちに希望を与えてくださり、感謝します。たとえ肉体が弱ったり、衰えたりしても、内なる人がイキイキと新しくされるからです。神さまが、霊を注いで守ってくださっています。どうか、老化や衰えを嘆くことなく、それでも生かされているので、神さまの恵みが豊かに注がれていることを感謝して過ごす日々を与えてください。イエス・キリストの名によってお願いいたします。

1月29日水曜日
「 主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。 今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」   サムエル記上 26:23-24

ダビデは大胆に、自分が主によって守られることを告げています。心が直な人が救われることを、聖書はたくさん約束してくれていますが、ダビデは自分の良心がきよく保たれていることに注意し、それゆえ主が必ず報いてくださることを信じていました。

(祈り)
天の父なる神さま、今日も命を与えられ、生かされていることを感謝します。どうか、この命を以て、あなたの教えを守リ行わせてください。とりわけ、あなたが命を与えておられる命あるものを手に架けることがないように、私の心を働かせてください。あなたに従いながら、御心によって、御もとに召された方々の魂に安らぎを与えてください。主イエスのお名前によって祈ります

1月28日火曜日
「兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、 また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。  しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。 」  テサロニケの信徒への手紙二 3:1-3

パウロはコリントの町にいますが、彼の使徒職に挑みかかる者たち、パウロの教えにはむかう者たちがいました。このような者たちから守られるように祈ってほしいと言っています。
    けれども、パウロはすぐ、自分のことから離れて、テサロニケの人たちを励ますことばに戻しています。テサロニケの人たちにも、さまざまな悪意をもった教師たちがやって来ているからですが、主は真実なかたであるから、彼らを悪い者、悪魔から守られると信じているのです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたの約束がなければ、祈りの土台はなく、その価値も有りません。祈りがなければ、あなたの約束に道を開き、実現をもたらすことはありません。神さま、私たちが祈り合えることを感謝します。どうか、教会の働きが閉じられることがないように、また、私たちが悪の誘惑に惑わされることがないように、互いのことを覚えて、祈る生活を守らせてください。


1月27日月曜日
「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」
ヨハネの手紙一 5:14

ここで「神の御心に適うことを願うなら」という、願いの種類について書かれています。祈りというのは、私たちの願いを神にかなえてもらうものではありません。そうではなく、神が願っておられるもの、神が考えておられること、神の意思を自分のものとして、自分をとおして神がご自分の願っておられることを行なっていただくことです。まず、神のみこころを知り、神の命令の中に自分を置いていることがすべてです。その中で願うものは何事もかなえられるのです。

(祈り)
恵み深い天の神さま、人を騙したり、陥れたりすることの多いなかにあって、あなたは思いやること、愛すること、助けること、励ますことを行うように求めておられます。どうか、これらのことを、私たちが行って、御心に適う者にならせてください。

1月26日日曜日
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 」  マタイによる福音書 18:10 新

天におられる父にとって、ご自分のこどもはとても大切な存在です。ひとりひとりに天の御使いを使わされて、その御使いが父の御顔を見るようにさせているのです。ひとりひとりが大切で特別な存在だから、誰もつまずいて欲しくないのです。本当の尊厳や人権は、神から来ます。私たちは神によってのみ、人がいかに大切な存在であるかを認めることができるのです。

(祈り)
愛なる神さま、あなたの霊で私を導いてください。そして、人々に対する憐れみの心を与えてください。また、私の心をもっと従順にしてください。どうか、あなたの導きに従って、幼子を尊んで、守り育てることができるようにしてください。主イエスの御名によって祈ります。

1月25日土曜日
「 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」 ヨハネによる福音書 1:16

  他の福音書では、イエスの生涯についての事実は述べられていますが、その意義についてはあまり深く話されていません。そこでヨハネは、イエスについて過去に語られていないことを補いながら、この方こそ信頼に値するのだと強調しました。
  1章の前半部分には、イスがなぜ信じるに値するのか、その理由が述べられています。第一に、イエスは神ご自身であることです。第二の理由は、この方が光だからです。第三の理由は、イエスが神のひとり子であることです。
    この方から、私たちは恵みを受けとるのです。恵みとは、神が人にお近づきになった恵みです。全宇宙を造られた、全知全能で、計り知れないエネルギーを持った神が、このような小さな人間と人格的な交わりをしてくださる恵みです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたに祈ることができます幸いを感謝します。御子イエスが祈ることを教えてくださったからです。そればかりか、イエスがまことの神であり、神の独り子であることを表してくださって、私たちが神を信じることができるように導いてくださったからです。神さま、どうか、イエスのなかに満ちている恵みを、もっともっと受け取り、神の子を信じる喜びを持たせてください。

1月24日金曜日
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「 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい.」  フィリピの信徒への手紙 2:3-4

  なぜ、教会の中に不協和音が起こるかと、その原因は「自己中心」と「虚栄」であることが、この個所から分かります。自分を求めているために、それぞれが自分自身のプランを持ち、そのために確執が起こります。そのときの自分の心の姿は、「あの人は分かっていない。」とか「レベルが低い」というものです。けれども、そこで、相手を自分よりもすぐれていると思うへりくだりが必要になります。
    私たちが一致について考えるとき、一つの意見統一をしなければならない、とか、同じ聖書解釈を持たなければいけないとか、同じ活動をしなければいけないと考えます。けれども、それは表面上のことです。むしろ、自分の心構えが大切になってきます。どれだけ、自分のことではなく、他の人のことを考えているか、そして祈り、愛し慕っているかに関わってくるのです。自分ではなく、他人のことを考える、これが大切です。

(祈り)
天の父なる神さま、気にくわないことがあると腹をたてたり、他の人が称えられているのを見ると嫉妬したりすることが起きるこの者のおごり高ぶる態度を改めさせてください。利己心をや虚栄心を押さえ、へりくだる心を与えてください。自分の周りにいる人たちを立て、その働きを助ける者にならせてください。そのために、主の言葉に親しみ、聖霊の働きによってそれを守らせてください。


1月23日木曜日
そこで(イエスはパリサイ人に)彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。」   ルカによる福音書 16:15 口語訳

    パリサイ人は金好きです。富に仕えていました。パリサイ人たちは金持ちになるということは神から祝福を受けているしるしだと思っていました。自分たちが律法の正しい行いをしているからお金が貯まっていると考えていました。パリサイ人の義というのはあくまでも人々に対するものでした。宗教的になることによって自分が正しいものと認められるということです。けれども神様は彼らがお金を貪っていた、お金を欲しがっていたということをご存じでした。この心を神様が憎まれて忌み嫌われていました。ここから神様は彼らの心の問題を取り扱われて話を進めていかれます。

(祈り)
天にいます父なる神さま、御子イエスは私たちに、あなたに受け入れられる信仰生活を示しておられます。どうか、自分で造った基準で歩むのではなく、キリストを中心とした信仰生活を送ることができるように、あなたの言葉に従順になれはるのうに助けを与えてください。


1月22日水曜日
「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。」      テモテへの手紙一 1:12

パウロは、自分がこの務めを果たしているのは、「私を強くしてくださる」イエス・キリストであると言っています。これは、謙遜になっているのではなく、パウロの心からの実感でしょう。自分が行なっていること一つ一つに、主キリスト・イエスの支える力を感じています。
    そしてパウロは、キリストが自分を「忠実な者と認めてくださった」、と言っています。自分が忠実な者になったのではなく、忠実な者と認められている、みなされている、ということです。これはちょうど、信仰によって義とみなされるとか、認められるというのと同じことです。自分は忠実な者と呼ばれるのとは、かけ離れた者なのに、それでも主が忠実な者と認めてくださっているのです。なんという恵みでしょうか。テモテへの手紙第二2章13節には、「わたしたちが誠実でなくても、 キリストは常に真実であられる。 」と書いてあります。主の奉仕者に要求されることは、そのダイナミックなミニストリーではなく、ゆだねられたものを果たすその忠実さですが、その忠実ささえもが、主によって与えられているのです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたの真理によって今日もまた私たちをお導きください。私たちに忠実な心をお与えください。また、この忠実な心を育み、あなたの御業に用いられることを成長させ、あなたの霊によって、私に力を与えてください。尊い主の御名によって祈ります。

1月21日火曜日
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」   ヨハネによる福音書 5:24

イエスがご自分のうちにいのちを持っておられるので、イエスを信じる者には、その時に永遠のいのちが与えられます。永遠のいのちとはまさにイエスご自身が心の中に住んでおられることを言うのです。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。」(ヨハネの手紙一 5:12)とヨハネは言いました。
イエスは、そのいのちを持つのは、まさに今であることを伝えておられます。今がその時です、とおしゃられています。死んだ後のことは、今から考えなければいけません。今、ひとりひとりがイエスの声を聞き入れるか、それとも耳をふさぐかで、永遠の運命が決まるのです。


(祈り)
天におられる私たちの神さま、私の魂はあなたに飢え渇きを覚えます。私の心の内に清い心を造ってください。私の内なる霊を新にしてくださいます。私の望むことをすべてを満たしてください。私の心をあなたからの喜びで称えさせてください。主イエスの御名によって祈ります。

1月20日月曜日
「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。 」
ヨハネによる福音書 12:45-47

これは、大声で言われました。すべての人に聞かせるためです。実は、イエスのこの言葉を持って、公のメッセージは閉じられます。13章からは、イエスを信じた者たちへのメッセージになります。ですから、もし信じていない人がこの後を読んでも、理解できないし、読んでも意味がないのです。そこで、イエスは最後の招きをされます。これは、この福音書を12章まで読んできた読者ひとりひとりに対する、最後の招きです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたは御子をこの世に遣わし、その働きを通してまことの神を明らかにしてくださいました。イエスの教えが神の言葉であり、イエスの癒しが、神のちからであり、イエスの導きが神の愛を示しています。どうか、イエスの生きざまの中に、神を見いだし、神の御手のなかで、命を育むことができるように助けてください。主イエスの御名によって祈ります。

1月19日日曜日
(幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。 主に先立って行き、その道を整え、  主の民に罪の赦しによる救いを 知らせるからである。)   これは我らの神の憐れみの心による。 この憐れみによって、 高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、  暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、 我らの歩みを平和の道に導く。」  ルカによる福音書 1:76-79

これは、キリストご自身についての預言です。「日の出」がそれです。暗黒と死の陰とは、希望もなく、むなしく生きている人々のことです。「何のために生きているのかわからない、死んだらどうなるのかわからない。」と、私たち人間は意味もなく生きています。そうした暗黒に、キリストが光として来られるのです。そして、「平和の道に導」かれます。罪を犯している者は、神に敵対しています。しかし、神は、ひとり子キリストをこの世に遇わし、キリストに私たちの罪の罰を負わせました。そして、私たちがご自分と和解することができるようにしてくださったのです。このキリストにおいて、私たちはもうさばかれません。死んでもよみがえります。永
遠のいのちを持ちます。神の怒りを受けるどころか、神に愛された子どもとなることができるのです。

(祈り)
全能の父なる神さま、御子イエスを私たちのそば近くに居らせて、私たちを見守ってくださりありがとうございます。どうか、良く見られるようにと、無理をしたり、逆にびくびくしながら生きるのではなく、主イエスの憐れみを受けとめ、喜んでそれに応えていくことを行わせてください。私たちの前に平和な道を備えてください。


1月18日土曜日
「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。  どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」  フィリピの信徒への手紙 4:5-7 新共同訳

   ここでは、主が戻って来られることが近いことを知ることによって、何がもっとも大切で、何が二義的なことであるかを知ることができる、としています。パウロは、コリント人への手紙第一7章で、「この世の有様は過ぎ去るからです。  思い煩わないでほしい。」(31、32節)と言っています。つまり、この世のもの、肉に属することは過ぎ去るのであり、永遠に残るのは御霊に属することであることを知ることができます。そこで、肉に属する事柄に関わることが、端的に言えば、「時間の浪費」であることを見分けることができるのです。これは、たとえば、クリスチャンの間の議論でも言えるでしょう。議論をすることで、これまで見えなかった部分が発見できたりして、互いに徳が高められるという相乗効果をもたらしますが、その反面、互いにエネルギーを使い果たし、傷つけあうような類の議論もあります。これらを見分けるには、ここにパウロが言っているように、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」という勧めに従えばよいのです。本質的なことがさらに深められ、二義的なことは二義的なこととして位置付けることができるのです。

(祈り)
  天の父なる神さま、私たちに祈ることを教え、生活を導いてくださり感謝します。世の人々の目から見れば、祈りはそれほど重要なものではないからです。しかし、祈りは大切なものです、神の御業が現されるからです。神さま、どうか、祈りと信仰の生活を通して、あなたの御業を現すことを励まさせてください。

1月17日金曜日
「 あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、  今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる。」    申命記 4:39-40

この章のなかにはすばらしい神のあわれみが現されています。イスラエルが偶像を拝んでも、神は彼らが立ち返るようにしてくださいます。偶像ではなく、御声を聞くことができるようにしてくださいます。イスラエルは、土地を離れ離散の民となりましたが、今や、約束の地に戻ってきています。後は、彼らの石の心が肉の心に変えられて、主の御声を聞くことだけです。このように、神は、イスラエルを、ご自分の立てた契約のゆえに、決してお見捨てにならないのです。

(祈り)
造り主なる全能の神さま、あなたは選ばれた民イスラエルを愛し、出エジプトと言われるとてつもない大きなみ業を現しています。それによって、あなたがまことの神であることを信じるためです。神は今も私たちを約束のみ国に導くために、み業を現してくださっています。どうか、私たちも、あなただけが主なる神であることを信じて、、たとえ、大きな災害に会おうとも、助け、励ましてくださる恵みを覚え、感謝して過ごすことが出きるようお守りください。主イエス·キリストの御名によってお祈りいたします。


1月16日金曜日
「 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。  それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 」コリントの信徒への手紙一 1:27-29

神は、見下されている人や取るに足りない人たちをお救いになることによって、この世の知者がいかにむなしく、この世の権力者がいかに無力であるかをお示しになっています。だれも、自分の知恵や権力を誇ることができないようにされたのです。コリント人が分裂していた問題は、プライドです。キリスト以外に誇りとしていたものがあったので、一つになれていなかったのです。神は、そのようなプライドを打ち砕くために、愚かな者、弱い者、さげすまれている者、見下されている者を選ばれたのです。

(祈り)
天におられる真の神さま、あなたは、キリストの十字架のみわざによって、悪魔の支配を徹底的に打ち滅ぼしてしまわれました。また、キリストの十字架のみわざによって、神が人と交わりと持たれるという不可能なことを可能にしました。キリストが愚かなどころか、キリストこそ神の知恵であり、神の力であることを明らかにしています。神さま、どうか、このキリストを通してもたらされた、神の知恵、神の力を称え、受け入れて喜び、救いを必要とする人々に伝えることができるように、働かせてください。

1月15日水曜日
「その日には、人間の高ぶる目は低くされ 傲慢な者は卑しめられ 主はただひとり、高く上げられる。」  イザヤ書 2:11

イザヤ書には、神が人間を責めておられる三つの悪が出ています。一つは、神の御言葉と預言に頼らないことです。   もう一つは、富や軍事的な力により頼むことです。そして三つ目は、神でもないものを神としてあがめることです。主は偶像礼拝の愚かさを示しておられます。
このように神を無視して、神を侮る者に対して、神はご自分だけが神であることを示されるために、大患難を地上にお下しになります。今日の聖句は患難時代における神の怒りを表しています。

(祈り)
恵み深い天の神さま、あなたはいかなる偶像をも拝んではならないと教えています。にも関わらず、人類は、繰り返し、創造主を忘れ、自分たちで作り出したものを仰いだり、或いは、自らの力を神のように過信したりしてきました。そして神の怒りを招いています。神さま、どうか、造り主を主と仰ぎ、その教えの言葉を守って、あなたの怒りから逃れることができるようしてください。

1月14日火曜日
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」  青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
マタイによる福音書 19:21-22

イエスは、神の戒めを正しく教えられました。先ほど、「隣人を愛しなさい。」という戒めを引用されました。青年は、「そんなことは守っております。」と言いましたが、もし本当に隣人を愛しているのなら、貧しい人に自分の財産を与えることはできたはずです。他の福音書によりますと、持ち物をみな売り払いなさい、とイエスは言われています。つまり、貧しい人のために、自分の財産をみな売って、自分が飢え死にするほどの激しい愛が、「隣人を愛しなさい。」という意味だったのです。私たちにはそんなこと到底できません。しかし、イエスにはその愛がありました。事実、ご自分のいのちを私たちのためにおささげになったのです。このように、神の戒めの本質は愛なのです。イエスは、群衆をいやされたときも、子どもに手を置かれたときも、この愛の立場を貫かれましたが、キリストは、愛によって律法を成就されました。

(祈り)
天の父なる神さま、御子イエスの教えが空論でなく、価値ある歩みへのガイドであることを証明し、称えられた人々は歴史上にたくさんいます。讃美歌「慈しみ深き」の作詞者もその一人です。彼は持ち物を売り払って貧しい人々に施していました。御子イエスの愛が、彼の心の中を占めているからでした。神さま、どうか、私たちにそそがれている主の愛に動かされて、主の言葉に従っていくものにならせてください。


1月13日月曜日
「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」   ルカによる福音書 11:34-35

イエスは、ご自分のことを光にたとえられます。イエスは、神の啓示の光です。私たちは、目から入る光に反応して、行動しています。だから、自分が物事をどのように見ているかで、すべてが決まってしまいます。つまり、私たちがどのようにイエスのみことばを聞いているかによって、クリスチャン生活も決まってくるし、死後のさばきも決まってくるのです。ただ物理的にみことばを聞いていればいい、ということではなく、正しく聞いていることが何よりも大切になります。

(祈り)
天の父なる神さま、私たちの正常な目は物事を正しく見るものになっています。しかし、視力が落ちていたり、歪んでいると、また、暗闇のなかでは正しく見ることが出来ません。神さま、どうか、私たちの見る目が、クリアで明晰であるように御子イエスの言葉によって整えてください。主の御名によって祈ります。

1月12日日曜日
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」   ヨハネの手紙一 4:10-11

神の愛は無条件の愛です。私たちが神を愛したから神に愛されているのではなく、神が私たちを愛してくださいました。私たちは、人に気に入られるために、人に愛されるために一生懸命になることがありますが、神に対しても同じことをしてしまいます。神に気に入られるために、神に愛されるために、神を喜ばせたいと思ってしまいます。しかし、神は、愛されるべき理由がない、むしろ憎まれるべき理由をたくさん持っている自分に対して、神は愛してくださいました。罪をつぐなういけにえとは、契約の箱の上にある贖いのふた、神の怒りを満足させるものであります。そのいけにえとなるために、ご自分のひとり子を犠牲とされました。それほど神は、私たちを愛してくださっています。これは私たちが神を愛するから愛されるという次元の問題ではなく、無条件の愛です。

(祈り)
天の神さま、親の気持ちも知らすに、家を飛び出して放蕩の限りを尽くし、身を持ち崩した、その子が帰って来るのを待ち望み、温かく迎え入れた親のように、私たちが放蕩していたのにも関わらず、立ち返るのを受け止めてくださったあなたの無条件の愛を感謝します。どうか、私たちもその愛に応えて、アガペー(無条件の愛)の愛を表す者にならせてください。

1月11日土曜日
「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」
     ヨハネの黙示録 1:4-5

恵みと平安の源であられる神が、三位一体の神として紹介されています。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」は、父なる神です。「七つの霊」は、聖霊です。そして、イエス・キリストです。
「今おられ、かつておられ、やがて来られ方」というのは、神が永遠に生きておられることを意味しています。そして「七つの霊」というのは、七つの教会に対して七つの霊がおられるということで、霊がどの教会にもあまねく働いておられることを意味するのでしょう。
   イエスさまについては、初めに、「証人、誠実な方」と紹介されています。イエスさまは、何に対して誠実であられ、何の証人となられたのでしょうか?父なる神です。イエスさまを見れば父を見る、というぐらい、イエスさまは、父なる神を正確にあかしされていたのです。

(祈り)
誠実な主イエスさま、あなたの働きによって、天におられる真の神さまを見ることができて感謝します。それはまた、聖霊の働きによって、確信できるものになりました。そして、父と子と聖霊の三位一体のお方、私たちの神を信じるに至っています。イエスさま、どうか、あなたの現される恵みと平和を、私たちに与えて、豊かな生活を送らせてください。 

 1月10日金曜日
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」   ヨハネによる福音書 13:34-35

 弟子たちは、イエスがどのように自分たちを愛してくださったのかを知っていました。イエスは愛を語ったのではなく、愛をお見せになりました。ご自分が模範となられて、それを実践されていました。したがって、弟子たちは、イエスが去って行っても、このイエスにならって前に進んで行くことができるわけです。どのようにして生きれば良いか分からないのではなく、模範にしたがって生きていくことができます。それは、イエスにならって人を愛して生きることです

(祈り)
天の父なる神さま、御子イエスは弟子たちと食事する前に、仕える者となって、弟子たちの足を洗っています。そして弟子たちに互いに洗い合いなさいと教えています。同様に、イエスの愛を受けた私たち(それは十字架上で現された犠牲の愛によって現されていますが)も、信仰の友と仲違いしないで、互いに愛し合うことを求めておられます。神さま、どうか、イエスによって救いを得た私たちが一つとなるために、仕える者となり、互いに愛し合うことを励まさせてください。尊い主イエス·キリストのお名前によって祈ります。

1月9日木曜日
 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。    マルコによる福音書 1:12-13

イエスは、悪の支配者サタンとの対決に入られました。なぜなら、イエスがこれからなされることは、悪魔と悪の軍勢の働きをつぶすために他ならなかったのです。40日間の霊の戦いのすえ、イエスが勝利を得ました。この勝利にもとづいて、イエスは、悪霊が追い出されて、病がいやされ、最後にご自分のいのちを捨てられます。福音は、悪が滅ぼされる形で現われていきます。

(祈り)
主なる神さま、御子イエスは40日も、荒野で悪魔の誘惑に遇われましたが、神の使いである天使たちによって守られ、誘惑に打ち勝っています。あなたが、従う者を、どんな誘惑からも守って下さるお方であるからです。悪魔(サタン)は巧妙に私たちを悪に誘惑してきます。どうか、誘惑にあっても、あなたの導きを信じて耐え忍ぶことができるように私たちをお守りください。

1月8日水曜日
ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。       使徒言行録 3:6-8

時は午後三時の祈りの時間です。これは、ユダヤ人が守っていた祈りであり、ペテロとヨハネは、他のユダヤ人と同じように祈りの習慣を守っていました。そして、生まれつき足のきかない男がいつものように運び込まれてきました。彼は働くことができないので、人々の施しによって生きていました。この光景は、とくに何の変哲もない、ごくあれふれた光景がこの出来事の背景になっています。ごくありふれた日常生活の中で、なぜ、このような不思議が起こったのでしょうか。それは、ペテロが、ヨハネとともに、この男を「見つめた」から始まります。じっと見たのです。弱っている人、病気を持っている人、問題がある人を見過ごすことなく、じっと見つめることができたので、この奇蹟が起こりました。

(祈り)
天の父なる神さま、御子イエスは力強い癒しの働きを行って、人々を助けていました。弟子たちにも同じように不思議なことを行っています。彼らの力ではなく、イエスが弟子たちを通して働かれたからです。そして、イエスは、私たちをとおして、ご自分のわざを行なおうと願われています。主よ、私たちをあなたの御業のために用いてください。あなたの御名が崇められるように、私たちを働かせてください。

1月7日火曜日
一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。  人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 マルコによる福音書 1:21-22

イエスは、他のラビのように、他のラビの言葉を引用しながら律法を説明しませんでした。そうではなく、「わたしは、あなたがたに言います。」と権威をもって教えられたのです。福音のことばには権威があります。これを、学校の授業のようにして、知識のために聞くのであれば意味がありません。むしろ、親が子供にこれをしなさい、と言うのを聞いていくように、自分の行動を決めてしまうような言葉として受け入れていく必要があるのです。

(祈り)
恵み深い天の神さま、み言葉を教えられ、親しむことができますことを感謝します。どうか、み言葉を説き明かすことも行わせてください。み言葉の持つ魅力をそのまま伝えることができますように。み言葉に何も付け加えることがないように。み言葉そのものの持つ力が伝えられるように、み言葉に仕えさせてください。主の御名によって祈ります。

1月6日月曜日
 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。ペトロの手紙一 2:25

神のみことばを慕い求めて、主のもとに来ることによって、私たちは苦しみを受けても、神の前では高価で、尊い存在であることがわかります。そして選ばれた者たちであるからこそ、福音を伝えて、りっぱな行ないを異邦人の前で行ないます。苦しみを受けても、喜んで苦しみを受け、甘んじます。地上は、しばらくの間のことであり、私たちはここでは寄留者なのです。

(祈り)
主なる神さま、私たちはさ迷い安い愚かな者です。あなたの導きが必要です。どうか、どんなところにおいても、あなたを見いだすことができるようにしてください。私の願うことや、苦しむことにも目を留めて、助けを備え、あなたのもとで真の憩いを得させてください。

1月5日日曜日
「実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。 だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。」 ヘブライ人への手紙 10:34-35

大事なのは、初めのころの確信です。私たちはヘブル書において、これが信仰の戦いにおいて、死守すべきものであることを学びます。この確信は、無防備でいたり、受動的であったりすると、沖に流されていくボートのように、押し流されてしまいます。この確信を抱いていること、単純なのですが、このことだけが私たちが天からの報いを受ける手段となります。

(祈り)
全能の神さま、あなたは偉大な大祭司、恵み深い慰め主、力強い執りなし手を与えてくださり感謝します。どうか、この方のお守りによって、与えられた信仰の確信を持ち続け、信仰の戦いを戦いぬくことを叶えてください。

1月4日土曜日
偉大な大祭司キリスト
「 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。  だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
ヘブライ人への手紙 4:15-16 新共同訳

ここで、私たちは、なにが私たちの弱さを克服してくれるか、その源泉になっている力を読むことができます。それは、「あわれみ」であり「恵み」です。私たちは、とくに自分が弱くなっているときに、神から離れてしまっていると思ってしまいます。悪魔は兄弟たちの告発者ですから、悪魔は私たちに、「ほら、お前は神さまに良く思われていない、だめなクリスチャンなのだ。」と言います。しかし、これは悪魔の罠です。私たちは、弱いからこそ、強いといえる存在です。私たちの弱さに、キリストの力が完全に働くからです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたのお守りを感謝します。今日も、あなたの教えを行うために忙し過ぎないように、私を助けてください。あなたが、私に求めていることを尋ねる時間が持てるようにしてください。どんな状況になろうとも、良い働きを行うことができるように助けてください。主の御名によって祈ります。

1月3日金曜日
イエス・キリストの言葉
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」  マタイによる福音書 7:24-25

これは逆境に直面した私たちの姿を描いています。土台を何にしているかによって結果が変わります。イエスはまず、「わたしのこれらのことばを聞いて」と言われました。みことばに根ざした信仰が大切です。私たちの生活は、いつも順調だとは限りません。もし、自分の感情や気持ちを信仰の土台にしていれば、何か逆境的なことが起こったとき倒れてしまいます。キリストのみことばに根ざす信仰生活を送ることが、逆境の中に耐えることのできる方法です。

(祈り)
全能の神さま、固い土台を持った祈りは、私たちを守って、あなたへの愛と従順を表しています。 どうか、あなたの御言葉を思い巡らし、 心に留め、あなたの御心を知ることができますように、そして、 御心を行うことができますように、御手をもって導いてください。

1月2日木曜日
「 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。  小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
     ルカによる福音書 12:31-32

イエスは、神の国を求めなさいと言われました。なぜなら、神の国を相続することになるからです。神を恐れる、神の前に富む者となる、神の国を求める、つまり、神や神のことを大事にして生きていきなさいということです。神を相手にして生きるときに、私たちは大きな報いを受けます。これも、申し開きの一つです。私たちのしたことが数えられて、報いを受け取ります。

(祈り)
愛する主なる神さま、日々 、あなたを 信頼して歩むことができるように 私を助けてください 。私の信仰が強められ、より力強く あなたに祈ることができますように。 祈りを通して、 神さま、あなたに近づくことができるように 。この年も 、あなたを信頼して 、あなたにより頼んで 、あなたに 励まされて 歩むことはできるように 、尊い主の御名によって お願いいたします。

2025年元旦
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 」    ヨハネの黙示録 21:1

「新しい天と新しい地」
今の地と天が滅び去って、神がまったく新しい創造を行なわれる時がやって来ます。イザヤは、この日について次のように預言しました。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。(65:17)」イザヤが使っている「創造する」という言葉は、は、聖書の最初の言葉と同じです。「初めに、神は天と地を創造された。」というところと同じです。これは、単に存在するものを集めて造り出すのではなく、存在せしめるという意味があります。無から有を創造することです。

(祈り)
全てのものを新たにする 天の 父なる神さま、 新しい年を迎えることができ、感謝します。どうか、あなたが新しい天と地を創造されることを待ち望みながら、この年の歩みを始めることができるようにお導きください。自分の思いではなく、御意の「天」になるごとく、「地」にもなさせてください。主の聖なるお名前によって祈ります。アーメン






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