今日の聖句 2025年2月 nagarenohotori
聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。
2月28日金曜日
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」
コリントの信徒への手紙二 4:8-10
このような一見、矛盾した生き方が、キリスト者の生き方です。土の器が、苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされないところに、神の宝が現れているのです。キリスト者の生活を、あまりにも単純にして、「信じていれば、苦しみはない」として、苦しんでいれば信仰が足りないとします。途方に暮れるように方向が見えないのを、祈りが足りないなどとします。迫害されている人々を、見向きもしません。倒されているのであれば、信仰の失格者であるとみなします。しかし、そういった単純なものではないのです。苦しめられているのに、なぜか窮していない。途方に暮れているのに、な
ぜが行き詰まっていない。迫害されているのに、なぜか見捨てられていない。倒されているのに、滅んでいません。
どうして、そうなっているか、それはイエスの死とよみがえりが、私たちの内に働いているからだ、ということです。
(祈り)
恵み深い天の神さま、試練は様々な形と大きさで訪れます。あなたは、それぞれに応じたしかたで関わってくださるからです。神さま、私に炎のような熱意を与えてください。試練を乗り越え、天におられるあなたの御前に至るために、必要なものを装わせてください。主イエス様のお名前によって祈ります。
2月27日木曜日
「主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。 わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。」
サムエル記上 12:22-23
ここに神の憐れみの選びがあります。彼らが正しいから主は彼らを見捨てないのではなく、「ご自分の偉大な御名のために」捨てられないのです。「あえて」ご自分の民とされているのです。私たちもそうです。私たちがキリスト者であることができるのは、私たちがキリストにしがみついている頑張りに拠るのではなく、キリストにあって神が私たちを選ばれたからです。キリストの御名のゆえに、私たちが見捨てられることはありません
(祈り)
天の父なる神さま、あなたの御言葉によって教えてくださることを感謝します。あなたは私たちの必要とすることを知り、それらをすべてかなえてくださいます。どうか、私たちもなすべき祈りをささげ、あなたのそば近くに私たちを導いてください。
2月26日水曜日
「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 」ヨハネによる福音書 3:11-13
「天に上った者はだれもいない。」神は無限の方です。絶対者です。全知全能の方です。天の天に住まわれる方です。この無限の神のところに、有限の人間がどのように近づくことができるのでしょうか?できないのです。有限が無限に近づくことはできません。
けれどもその逆なら可能なのです。「天から下る」ことです。無限の方が有限の中に下りてくることは可能です。これが「人の子」つまり、神が人となられた、イエス・キリストなのです。新たに生まれる、上から生まれることは人間には当然できないことですが、神がキリストによって私たちのために行なってくださいます。
(祈り)
愛する天の神さま、ひとり子をこの世界に遣わし、真理の御言葉を語らせ、癒しの御業を表し、私たちを信仰の世界に導いてくださり、感謝します。あなたへの信頼が私たちの希望を実現した現実に変えるからです。神さま、どうか、私たちのために人となられた主イエスが、現してくださったみ国の恵みを、ほめたたえ、証することができるように、私たちを用いてください。
2月25日火曜日
「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」 コブの手紙 5:13
これはとても分かりやすい勧めです。苦しんでいるなら祈りを、喜んでいるなら賛美をするのです。苦しんでいるときの私たちの傾向は、嘆いたり、泣いたり、落ち込んだり、恐れたりします。けれども、ヤコブは、「祈ってごらんなさい。」と勧めているのです。こんな単純なことを忘れてしまうのが私たちです。そして、何か良いことがあって喜んでいるときには、単純にそれを可能にしてくださった神を賛美すればよいのです。
(祈り)
天地の造り主なる神さま、あなたの導きとお守りのなか、新しい日の歩みを始めることができることを感謝します。どうか、苦しみに合う時には祈り、うれしいことがあるときには、喜んで賛美することを与えてください。主イエスのお名前によって祈ります。
2月24日月曜日
「 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
エフェソの信徒への手紙 5:18-19
私たちクリスチャンは、神の御霊を求めることができるのです。神の御霊が私たちを満たされるとき、私たちは、自分自身からではない、上からの知恵が与えられます。そこでパウロは、「御霊に満たされなさい」と勧めています。
私たちは霊に満たされて、そして、賛美を心から歌うのです。賛美だけではなく感謝します。感謝な思いになるだけでなく、神に感謝をささげる行為が大事です。
(祈り)
天におられる父なる神さま、私たちを御子の御霊で満たし続け、私たちを通して、心からの主への賛美と、感謝を表し、互いに従うことを行って、御霊の実を結び、あなたの栄光を現すことができるようにしてください。
2月23日日曜日
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満し、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」
ローマの信徒への手紙 15:13
パウロは律法、詩篇、 預言書を引用しながら 神が希望の神であることを、私たちの心に向けます 。希望とは 、神 ご自身のご 性質です。 神がおられるところには希望があります。
しかも 聖霊の力によって希望が満ち溢れます 。その一方で 私たちが神を見失うなら、私たちは希望をも見失います。 私たちは、この希望の神に信頼を置くとき、神は喜びと平和で満たしてくださいます。
(祈り)
我らの父なる神さま、あなたの大いなる御名を讃えます。あなたは、私たちに信仰を与え、信仰によって歩む喜びに気づかせ、苦難にも耐える道を備えてくださっています。どうか、あなたの希望で私を満たし、この週も、心穏やかに過ごせるように、聖霊で満たしてください。
主イエスキリストのお名前によって祈ります。
2月22日土曜日
「裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。 ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。
」 申命記 16:19
正義をもって裁かなければいけない、という教えです。偏ることもいけないし、賄賂もいけません。賄賂はさすがにしないかもしれないですが、けれども心の中では正義を考えるのではなく、心の中で計算していますね。「あの人にこれを言ったら、損失を被るから言わないようにしておこう。」「あの人は影響力があるから、とりあえず口添えしておこう」とかいうものです。正義だけで生きなければいけないのに、そこから逸脱することがあります。
(祈り)
主なる神さま、私を福音の真理のために生きる者としてください。私をみことばによって励まし正すことを、また恥ずべき利益を求めることのないように導いてください。神さま、あなたの栄光のために、良い行いを与え、忠実に行わせてください。
2月21日金曜日
「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」 エフェソの信徒へへの手紙 4:11-13
キリストが教会に、賜物のある者たちをお立てになったのですが、それは、すべてにご自分を満たすためであります。教会の指導者がいて、そして、信徒たちがいて、それぞれ距離を離し、区別をするというような考えは全く聖書的では、ありません。キリストが下られたように、人々のところにまで下っていくのが彼らの姿です。ともに苦しみ、ともに喜び、ともに祈って、ともに学ぶのが、これら賜物を持つ者たちのあるべき姿です。
(祈り)
天の父なる神さま、キリストの教会として私たちを建てあげてくださることを感謝します。そのために私たち一人ひとりに賜物を与え、その賜物を働かせるように導いてくださっています。どうか、与えられた賜物を用いることができますように。賜物に優劣を付けることなく、他の賜物に嫉妬することがないように働かせてください。尊い主の御名によって祈ります。
2月20日木曜日
「神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。
」 ダニエル書 9:18
ダニエルは主に願い求めましたが、その言葉がかなり積極的です。17節から始まっていますが、「 僕の祈りと嘆願に耳を傾け」、「御顔の光を輝かしてください」。
「耳を傾けて聞いてください」、「目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください」です。積極的、能動的、真実な願いが必要です。イエス様の命令を思い出しましょう。マタイによる福音書
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」 です。
(祈り)
天の神さま、祈ることを教えてくださり感謝します。どうか、疑わない信仰を持って祈れますように。願っていることを固く信じて、熱心に祈れますように。私たちの祈りに、あなたの栄光のために、あなたの深い憐れみをそそいでください。主イエスの御名によって祈ります。
2月19日水曜日
【都に上る歌。ソロモンの詩。】 主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。 主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。 詩編
127:1
思い出せる時代は、エズラ記とネヘミヤ記です。エズラ記おいて神殿を再建し、ネヘミヤ記においてネヘミヤが総督として指揮を取って、城壁を再建させました。帰還民は人数が少なく、エルサレムの城壁の中に住む者たちはとても少なく、家屋もまばらでした(ネヘミヤ7:4)。周囲の敵に囲まれていたので、それぞれの家から見張りを出して、またそれぞれの見張り所にも誰かを置かなければいけませんでした(3節)。
そこで次のことを覚えているのが必要でした。「どんなに人が努力しても、主の祝福に付け加えることができないのだ。」ということです。ですから、主が私のためにしてくださることを、熱心に待ち望むのです。主がしてくださるからこそ、そこに命があります。そこに神の恵みと憐れみが満ちています。
(祈り)
恵み深い天の神さま、朝ごとにあなたを仰ぐことの幸いを感謝します。暗い夜の間、私たちを見守り、安らかな憩いを備えてくださるからです。どうか、この新しい一日を、あなたの恵みを数える喜びで満たしてください。愛する主の御名によって祈ります。
2月18日火曜日
「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。
言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」 ルカ福音書12章10-13
聖霊によってもたらされる、イエス・キリストの証しを拒むと、決して赦されず、神から罰を受けることになります。聖霊は、罪が赦される道はただ一つ、十字架につけられたイエスを仰ぎ見ることであることを教えられます。それを拒むなら、その人には罪が赦される術が残されていません。
聖霊は、救いの道を教えられるだけでなく、救い主キリストについて弁明するときにも働いてくださいます。キリストについて何を言うべきかを教えてくださいます。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたの一人子イエスは、天に挙げられる前に、「すべての人に福音を伝えよ」と教えています。どうか、私たちにこの教えを守り、行わせてください。人々に福音を伝えるとき、聖霊が働いて語るべき言葉を与えてくださることを信じて行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
2月17日月曜日
「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。
あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしません。 そのことについては、神が証ししてくださいます。」
テサロニケの信徒への手紙一 2:4-5 新共同訳
ここには、福音を語るときに必要不可欠な二つの要素が書かれています。「神に認められて福音をゆだねられている」という要素と、「神が、わたしたちの心を吟味される」という要素です。私たちは、自分の信仰と確信の中で、自分はこの人に福音を語るように、神からゆだねられているという確信がなければいけません。そして、その任務をしっかりと果たしているか、その忠実さを主からいつも調べられている、という意識が必要です。一つは、自分が任務が与えられているという確信と、もう一つは、その任務を忠実に遂行するという自覚です。そして、この二つの要素があるときに、私たちは人を喜ばせるのではなく、神を喜ばせるように話すことができます。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたは良いもので私たちを満たしてくださるので感謝します。私はあなたに目を注ぎますから、私の心を従順にして、福音を伝えるにふさわしい者に整えてください。どうか、人に喜んでもらうためでなく、あなたに認められるために労することを行わせてください。主のお名前によって祈ります。
2月16日日曜日
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
コリントの信徒への手紙二 12:9 新共同訳
「力は弱さの中でこそ分に発揮されるのだ」と主は言われました。完全に現われるのです!私たちは、自分が弱いと思っているところで、初めて力を尽くして主に拠り頼みます。それゆえ、主が私たちをとおして働くことができるようになるのです。しかし、自分がまだできると思っているところには、主はまず、私たちができなくなるのを待っておられなければいけません。バトンを私たちが主にお渡しするのを、主は待っておられるのです。私たちが降参して、この自分が強いと思っていた分野も、主にお任せしなければならないのだと思ったときに、初めて主が生きて働いてくださり、この「弱さのうちに完全に働く」という真理がそのとおりになります。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(祈り)
主なる神さま、自分の力ではどうにもならないことが起き、困ってしまうことがあります。例えば、携帯電話がウイルスに感染し、どうにも動かなくなってしまうとき、専門家に見てもらうと、問題が取り除かれてなおることがあります。神さま、どうか、私の力では解決できない問題を抱えるとき、強がって何もできなくなってしまうよりも、御子イエスさまに寄りすがって、障害を乗り越えさせていただくことができるようにお導きください。
2月15日土曜日
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
」 ヘブライ人への手紙 5:7
これはイエスさまが、ゲッセマネの園において、もだえ苦しみながら祈られたときのことです。「 激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、」とありますが、十字架につけられる前に、イエスさまは必死に祈られました。ここに、「
御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、 」とあり、また、祈りが聞き入れられた、とありますが、これは死を免れたということでありません。イエスさまは、確かに十字架につけられました。この祈りは結果的に、死者からの復活によって聞かれました。イエスさまは、十字架上の苦しみを味わい、かつ、死からの救いを受けられたのです。
(祈り)
恵み深い天の神さま、御子イエスさまが、苦しみを通られることによって、父なる神にご自分の身をゆだね、神に従順な者となられたように、イエスさまに従う私たちも、苦しみの中であなたに身をゆだね、あなたに従う者と為らせてください。尊い主イエスの名前によって祈ります。
2月14日金曜日
「 来て、神の御業を仰げ 人の子らになされた恐るべき御業を。 神は海を変えて乾いた地とされた。 人は大河であったところを歩いて渡った。 それゆえ、我らは神を喜び祝った。」詩編
66:5-6
ここに、出エジプトの出来事とヨルダン川の渡河の出来事が挙げられています。6 節に海を変えたと言っていますが、これは紅海が分かれたことです。そして川の中を歩いて渡るのが、ヨシュア率いるイスラエルがヨルダン川を渡ったところです。これは二つとも、国々対して大きな証しでありました。当時の超大国エジプトの軍隊が沈んだのです。そして、ヨルダン川では、そこを渡り、当時の先進的なカナンの国々を制圧しました。そこに天地を創造された神がおられることを、神を信じない国民がまざまざと見たのです。そこで、民が喜びの賛美を神にささげたように、私たちにも神の御業を思い起こして讚美するように呼びかけています。
(祈り)
天にいます父なる神さま、あなたの為された御業を思い起こして讚美いたします。弟子たちがイエスさまと舟に乗って湖にいたとき、突然の嵐がやって来て舟が沈みかけたことがありました。その時、イエスさまが嵐よ、静まれと叫ぶと、たちどころにおさまったのでした。神さま、あなたがイエスさまを通して御業を行ってくださったのです。どうか、私たちにも御業を体験させて、信仰の喜びを讃えさせてください。主イエスキリストのお名前によって祈ります。
2月13日木曜日
「 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」
ローマの信徒への手紙 12:9-10
私たちは、教会で何ができるか、教会のために何をしようかといろいろ考えますが、それは非常に単純なことで、兄弟たちを愛していくことであります。私たちは来ている人たちのために、祈ることができます。気にかけることができます。その人に電話をかけたり、手紙を出したり、食事にさそうことができます。その人を祝福したいと思うその愛が、教会にとって、もっとも大きな奉仕です。パウロはまず、愛に偽りがあってはならない、と言います。偽善者になってはいけない。愛していると言いながら、それと相反することを行なってはいけないと勧めています。
(祈り)
天にいます父なる神さま、新しい朝を感謝します。この日の歩みを愛を持って始めさせてください。善に親しみ、悪を憎むことを行わせてください。神さま、どうか、偽りのない真心からの愛を持って、人と接する者に為らせてください。主のお名前によって祈ります。
2月12日水曜日
わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものをるる受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。
」 ヘブライ人への手紙 6:11-12
「忍耐」という言葉が出てきました。信仰と希望、また希望と忍耐は密接に結びついています。イエス・キリストのことを知れば知るほど、私たちに信仰が養われます。私たちは、イエスさまが信頼するに値する方であることの確信をますます強め、信仰を増し加えます。そして、イエスさまのことを知ればそれだけ、この方に希望を寄せればよいことを知ります。自分たちや、この世界にあるものではなく、イエスさまだけが自分たちの救いであり、望みであることを知るようになります。
そして、そして信仰と希望を持っている過程で、私たちに培われるのが「忍耐」です。私たちは救いを得ていますが、神の御国に入るまでは、その約束を待ち、この地上で忍んでいなければいけません。約束のものを待ち望む、忍耐が必要です。
(祈り)
主なる神さま、あなたは 誠実さと熱意の あることを喜ばれています。私たち、クリスチャンの生活は燃える炎のようになるべきだからです。どうか、 私の心が
あなたへの思いに満ち、 あなたの聖霊によって 忍耐を持ち続けさせてください。
2月11日火曜日
「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を隔てしてはなりません。」ヤコブの手紙 2:1
主である神はえこひいきをされない方なので、私たちにも、人をえこひいきしてはならないことを戒めておられます。旧約聖書においては、裁判をするときに、その人が貧しいからといって、さげずんだり、あるいは逆に優遇したりしてはならず、公正にさばくことが命じられています(申命1:17など)。イエスさまは、その模範として、金持ちの青年が近づいてきたときに、その富によって心が何一つ動かされることなく、むしろ、その富が彼を神に近づけさせなくしているという、霊的な内実を明らかにされました。使徒パウロは、主人に対して、奴隷をおどすことをやめなさい、と戒めていますが、それは、奴隷たちと彼らとの主が天におられ、「人を分け隔てなさらないのです。
」(エフェソの信徒への手紙 6:9 )と言っています。私たちが人と接していくときに、その人の見かけや身分によって、影響されないことが必要です。
(祈り)
天の父なる神さま、私たちは
経済的な地位によって、人を重要人物かそうでないかを判断して、差別している心があります。人の見かけによって、すぐに判断を下すような弱さも、持っています。このように、無意識の中で、知らず知らずに、分け隔てを行なっていることが多いです。どうか、どんな人であっても、公平に取り扱うことを行い、栄光の主イエスを見上げて歩めるように、私たちを整えてください。
2月10日月曜日
「 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」
テモテへの手紙一 2:4-6
私たちがすべての人たちのために祈り、とくに国の指導者や地位の高い人たちのために祈るときに、自分が何をしなければいけないか、その理解が与えられます。それは、教会として、すべての人が救われてほしいというか神の願いを自分たちのものとしていくことです。自分たちだけという、霊的なエリート主義ではなく、あらゆる人に差別なく提供されている神の救いをまた覚えなければならない盧です。そのために神の独り子が、この世界に遣わされたのです。
(祈り)
天の神さま、あなたの分け隔てなく、人を救い出したいというみ心を、私たちの心のなかにしっかりと刻ませてください。ともすると、気が合う人、好ましい人を選んで、救いを伝えようとする、えこひいきな行動を慎ませてください。御子キリストはすべての人の救い主となられています。どうか、キリストに従う者として、私たちも、すべての人の救いのために、与えられる機会を用いさせてください。主のお名前によって祈ります。
2月9日日曜日
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」’
ローマの信徒への手紙 15:1-2
私たちの力 、能力 、賜物は、自分を喜ばせるために与えられたのではありません 。「強くない者の弱さを担う」ために与えられたのです
。私たちに与えられた力は、私たちの隣人を喜ばせ 、霊的に成長させ 、その人の益となるために与えられました 。これはキリスト ご自身にも見られる態度
です。
(祈り)
天の神さま、とても寒い日を迎えています。どうか、私たちの健康を守り、主の日の礼拝を行うことが出きるようにお守りください。私たち力のある者まが、老いた人たち、身体の弱い人たちを支え、助けることを行わせてくださいます。また、私たちの大人が、子どもたちの見本となるような助け合いを行うものに為らせてください。主イエスのお名前によって祈ります。
2月8日土曜日
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」 コリントの信徒への手紙一 10:16-17
イスラエル人は、穀物のささげものをしました。祭司たちは、その一部を祭壇の上で焼き、残りを自分たちの分け前として食べます。それは最も聖なるものである、と言われています。なぜなら、主がその一部をお食べになり、また私たちも同じものを食べているから、主と自分とが一つになっていることを示しているからです。このような、霊的な交わり、親密な深い交わりを、食事というものによって行なうことができているのです。
(祈り)
主なる神さま、主にある兄弟姉妹と、共に食事のある交わりを行うことは、私たちの霊的な交わりともなっています。どうか、このような交わりを軽視したり、損なうことがなく、むしろ私たちの霊的成長のために用いることができるように励ましてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。
2月7日金曜日
「神よ、あなたはわたしの神。 わたしはあなたを捜し求め わたしの魂はあなたを渇き求めます。 あなたを待って、わたしのからだは 乾ききった大地のように衰え
水のない地のように渇き果てています。」 詩編 63:2
この詩篇は、ダビデがアブシャロムから逃げるために、エルサレムを離れたときに書かれたものと考えられています。ヨルダン川方面に向かいましたが、そこは荒野です。神を礼拝する聖所から離れていて、肉体の渇きだけでなく、魂の渇きを覚えていたときにいのった祈りです。
そして、ダビデはよく神のことを、「わたしの神」と呼びました。彼が、個人的な、親密な方として祈りをささげていることがわかります。ちょうど子供が父親に対してちょっと甘えているような祈りとなっています。
(祈り)
全能の神さま、あなたが御言葉を通して示された約束を、今日、自分のためのものとさせてください。どうか、私の渇きを潤してください。肉体の渇きだけでなく、霊的な渇きを潤し、生かされている喜びに満たしを与えてください。朝ごとに、み言葉を求め、乾くことがないように気をつけさせてください。
2月6日木曜日
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
ヨハネによる福音書 3:17-18
私たちが永遠のいのちを持つようにしてくださるのは、神が私たちを愛しておられるからです。子を持っておられる親御さんは、誰か他の人のために、自分の子が死ななければならないと聞いたら、どうでしょうか?しかも、とてつもない罪を犯した罪人のために、自分の子が死ななければならないとしたらどうでしょう。そんなむごいことを!と思われるでしょう。でも父なる神はそれを行なわれたのです。なぜか?私たちをそれだけ愛しておられるからです。
多くの人が、「神、罪、裁き」の話を聞いて、こう感じます。「聖書の話、キリスト教の話を聞くまでは、裁きなんてことを気にしなくても良かったのに。何か裁かれているみたいだ。」と。いや、実際は反対なのです。もう既に裁かれているのです。それをただ気づいていなかったのです。だから、その裁かれている状態から救い出すために、神は御子キリストを私たちに遣わしてくださったのです。
(祈り)
父なる神さま、あなたの大いなる愛が、御子を通して、私たちを救い出す原動力となっていることを心に刻み感謝します。御子が遣わされなければ救いが身近になることはありませんでした。御子が苦しまなければ、まことの愛を知ることが有りませんでした。神さま、御子を信じて、私たちの世界が、そこに住む私したちが、あなたの裁きを逃れて生きる生活が築かせてください。
2月5日水曜日
「 主なる神はわたしの耳を開かれた。 わたしは逆らわず、退かなかった。 打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲り嘲りとは思わない。 わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。」
イザヤ書 50:5-7
6節「打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」
これらのことは、すべてイエス様の身に起こりました。イエス様はユダヤ人の裁判において頬を打たれました。侮辱されました。つばきをかけられました。ひげを抜かれたことについては具体的に書かれていませんが、これも行なわれたのでしょう。髭を抜くことは、ただ痛いだけのことではありません。髭は男の尊厳を表していましたから、非常に侮辱的なことです。そして唾も同じです。唾をかけることは、相手を非常に侮辱している行為です。
(マタイ 26:67-68 ) そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」そして総督ピラトによって、鞭打ちを受けられました。
最後の言葉が大事です。「顔を隠さず」とあります。主イエスは、神の御心がご自身が捨てられること、死に渡されることであることを知っておられたので、その仕打ちに服従されたのです。
(祈り)
天にいます私たちの父なる神さま、御子イエスさまは、あなたのみ心を行うために、苦難を忍ばれています。地上の苦難を耐えることによって、御国のいのちに預かる喜びがあるからです。あなたが、苦難に耐えるように守ってくれると信じているからです。神さま、私たちに継がしてくださった信仰によっていかなる苦難にも立ち向かい、信仰を守る事ができるようにお導きください。
2月4日火曜日
「夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。 もみ殻と穀物が比べものになろうかと
主は言われる。 このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。」
エレミヤ書 23:28-29
「夢」を見て、それを語ることの問題です。もちろん主は、夢によってご自分のことを啓示される時があります。
けれども「夢」を見たら、それがそのまま神からの啓示なのでしょうか。いいえ、違います。
しかし夢そのものが悪いものではありません。夢を見たから罪ではありません。夢を主からの言葉とすることが間違っているのです。だから、夢と主からの言葉を分けなければいけません。
穀物は栄養のある部分です。もみ殻は脱穀の時に出てくる殻です。実質的な物は何もありません。主からの言葉は穀物であり、夢はもみ殻でしかないということです
(祈り)
恵み深い天の神さま、あなたの言葉は、私たちの心のかくされた部分を明るみにし、その汚れを精錬して、火のように清めてくださるので、感謝します。また、あなたの言葉は岩を砕く槌のように、私たちの固くな魂を砕いて、み言葉の恵みを受け入れるところにしてくださいます。神さま、どうか、あなたの言葉を守り、広めることができるように働かせてください。
2月3日月曜日
「アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。
」 モテへの手紙二 3:11 新共同訳
パウロは、ほんとうにひどい迫害にあってきました。ルステラにいたときは、石打ちにあい、弟子たちは死んでしまったのかと思ったほどでした。テモテもその光景を見ていたかもしれません。しかし、主がパウロを救い出してくださいました。
(祈り)
天の父なる神さま、イエスが祈られたように、私たちを試みに逢わせず悪よりお救いください。あなたを信じて歩むとき、信仰が試されることが有ります。そんなとき、イエスが私たちを守ってくださることを信頼し、それが確かになるまで忍耐して待つことを行わせてください。尊い主イエスのお名前によって祈ります。
2月2日日曜日
「 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」
ローマの信徒への手紙 11:32-33
神はすべての人を憐れもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込めました。言い換えると、神の憐れみを受ける前に、すべての人は、自分が神の憐れみを受けるのにふさわしくない者だ、と言うことを知らなければならないのです。
(祈り)
天の神さま、私を愛して心にかけてくださることを感謝して、御名をたたえます。今日、私は私の抱いている不安をあなたに委ねます。どうか、私の必要とするものを満たし、あなたの憐れみにあずかる者とならせてください。
2月1日土曜日
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。 ある者は永遠の生命に入り ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。 目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。 ダニエル書 12:2-3
この聖句は体の復活の約束です。「眠りから」とありますが、これは実際に眠っていることではなく、復活の希望を持っているので死んでいても、それは一時的であることを意味しています。イエス様が「わたしは彼(ラザロ)を眠りからさましに行くのです。」と言われて、弟子たちが「眠っているのなら、助かるでしょう。」と言ったら、はっきりと「ラザロは死んだのです。」と言われました(ヨハネ11:11‐14)。信仰者にとって死は恐ろしいものではありません。なぜなら、また生き返るからです。
けれども信仰者のみがよみがえるのではありません。信仰者がよみがえる時は「永遠のいのち」すなわち神の国の至福にあずかりますが、不信者もよみがえります。「そしりと永遠の忌み」によみがえるとあります。
(祈り)
天にいます父なる神さま、寒いときを過ごしています。このとき、健康を害することがないように、また、日常の営みが損なわれることがないようにお守りください。あなたは私たちに復活の希望を与えておられます。それは、身体の死が終わりで無いことを知らしめるためです。私たちが復活するとき、どうか、永遠のいのちに預かることをかなえてください。主の御名によって祈ります。
1月31日金曜日
「主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。」 詩編 51:17 新共同訳
以下は同じ箇所のドイツ語ルター訳聖書からの翻訳文
「主よ、私の口があなたの栄光を告げ知らせることができるように、私の唇を開いてください。」
罪が清められたら、奉仕をして、伝道するだけでなく、大きな声で主を賛美したい、賛美の歌をうたいたいとダビデは願っています。奉仕、伝道、賛美というクリスチャンの活動のすべては、自分が罪から救われた、罪が清められたという喜びから出ています。
(祈り)
天の神さま、私はあなたを信頼することにより、あなたが望む心を与えてくださると言うことを信じます。どうか、私たちがキリストを通して、あなたの栄光を讚美する心を与えてください。同時に、あなたの栄光のために、愛の掟に従って歩むことをかなえさせてください。
1月30日木曜日
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
コリントの信徒への手紙二 4:16
私たちが将来の栄光を見つめるときに、私たちの内なる人、つまり霊魂は新たにされます。そのときに外なる人、つまり肉体は衰えます。外は衰えるのですが、内は新たにされる、こうした一見矛盾した現象が、私たちのうちに起こるのです。キリスト者として生きるときに、外なる人は衰えていくことを体験するのです。キリスト者の特権は、外なる人が衰えているときに、将来への希望を見て、内なる人が新たにされていくことです。ますます天国についてのビジョンがはっきりとしてきます。ますます、キリストの十字架への道と復活の深みを味わうようになります。
(祈り)
天にいます私たちの父なる神さま、私たちに希望を与えてくださり、感謝します。たとえ肉体が弱ったり、衰えたりしても、内なる人がイキイキと新しくされるからです。神さまが、霊を注いで守ってくださっています。どうか、老化や衰えを嘆くことなく、それでも生かされているので、神さまの恵みが豊かに注がれていることを感謝して過ごす日々を与えてください。イエス・キリストの名によってお願いいたします。
今日の聖句2025年1月度
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