今日の聖句  2025年2月    nagarenohotori      

      聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。



2月12日水曜日
わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものをるる受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。 」  ヘブライ人への手紙 6:11-12

「忍耐」という言葉が出てきました。信仰と希望、また希望と忍耐は密接に結びついています。イエス・キリストのことを知れば知るほど、私たちに信仰が養われます。私たちは、イエスさまが信頼するに値する方であることの確信をますます強め、信仰を増し加えます。そして、イエスさまのことを知ればそれだけ、この方に希望を寄せればよいことを知ります。自分たちや、この世界にあるものではなく、イエスさまだけが自分たちの救いであり、望みであることを知るようになります。
      そして、そして信仰と希望を持っている過程で、私たちに培われるのが「忍耐」です。私たちは救いを得ていますが、神の御国に入るまでは、その約束を待ち、この地上で忍んでいなければいけません。約束のものを待ち望む、忍耐が必要です。

(祈り)
主なる神さま、あなたは 誠実さと熱意の あることを喜ばれています。私たち、クリスチャンの生活は燃える炎のようになるべきだからです。どうか、 私の心が あなたへの思いに満ち、 あなたの聖霊によって 忍耐を持ち続けさせてください。

2月11日火曜日
「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を隔てしてはなりません。」ヤコブの手紙 2:1

  主である神はえこひいきをされない方なので、私たちにも、人をえこひいきしてはならないことを戒めておられます。旧約聖書においては、裁判をするときに、その人が貧しいからといって、さげずんだり、あるいは逆に優遇したりしてはならず、公正にさばくことが命じられています(申命1:17など)。イエスさまは、その模範として、金持ちの青年が近づいてきたときに、その富によって心が何一つ動かされることなく、むしろ、その富が彼を神に近づけさせなくしているという、霊的な内実を明らかにされました。使徒パウロは、主人に対して、奴隷をおどすことをやめなさい、と戒めていますが、それは、奴隷たちと彼らとの主が天におられ、「人を分け隔てなさらないのです。 」(エフェソの信徒への手紙 6:9 )と言っています。私たちが人と接していくときに、その人の見かけや身分によって、影響されないことが必要です。

(祈り)
天の父なる神さま、私たちは
 経済的な地位によって、人を重要人物かそうでないかを判断して、差別している心があります。人の見かけによって、すぐに判断を下すような弱さも、持っています。このように、無意識の中で、知らず知らずに、分け隔てを行なっていることが多いです。どうか、どんな人であっても、公平に取り扱うことを行い、栄光の主イエスを見上げて歩めるように、私たちを整えてください。

2月10日月曜日
「 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」
テモテへの手紙一 2:4-6

  私たちがすべての人たちのために祈り、とくに国の指導者や地位の高い人たちのために祈るときに、自分が何をしなければいけないか、その理解が与えられます。それは、教会として、すべての人が救われてほしいというか神の願いを自分たちのものとしていくことです。自分たちだけという、霊的なエリート主義ではなく、あらゆる人に差別なく提供されている神の救いをまた覚えなければならない盧です。そのために神の独り子が、この世界に遣わされたのです。

(祈り)
天の神さま、あなたの分け隔てなく、人を救い出したいというみ心を、私たちの心のなかにしっかりと刻ませてください。ともすると、気が合う人、好ましい人を選んで、救いを伝えようとする、えこひいきな行動を慎ませてください。御子キリストはすべての人の救い主となられています。どうか、キリストに従う者として、私たちも、すべての人の救いのために、与えられる機会を用いさせてください。主のお名前によって祈ります。

2月9日日曜日
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。  おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」’    ローマの信徒への手紙 15:1-2

 私たちの力 、能力 、賜物は、自分を喜ばせるために与えられたのではありません 。「強くない者の弱さを担う」ために与えられたのです 。私たちに与えられた力は、私たちの隣人を喜ばせ 、霊的に成長させ 、その人の益となるために与えられました 。これはキリスト ご自身にも見られる態度 です。

(祈り)
天の神さま、とても寒い日を迎えています。どうか、私たちの健康を守り、主の日の礼拝を行うことが出きるようにお守りください。私たち力のある者まが、老いた人たち、身体の弱い人たちを支え、助けることを行わせてくださいます。また、私たちの大人が、子どもたちの見本となるような助け合いを行うものに為らせてください。主イエスのお名前によって祈ります。

2月8日土曜日
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。  パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」 コリントの信徒への手紙一 10:16-17

    イスラエル人は、穀物のささげものをしました。祭司たちは、その一部を祭壇の上で焼き、残りを自分たちの分け前として食べます。それは最も聖なるものである、と言われています。なぜなら、主がその一部をお食べになり、また私たちも同じものを食べているから、主と自分とが一つになっていることを示しているからです。このような、霊的な交わり、親密な深い交わりを、食事というものによって行なうことができているのです。

(祈り)
  主なる神さま、主にある兄弟姉妹と、共に食事のある交わりを行うことは、私たちの霊的な交わりともなっています。どうか、このような交わりを軽視したり、損なうことがなく、むしろ私たちの霊的成長のために用いることができるように励ましてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。

2月7日金曜日
「神よ、あなたはわたしの神。 わたしはあなたを捜し求め わたしの魂はあなたを渇き求めます。 あなたを待って、わたしのからだは 乾ききった大地のように衰え 水のない地のように渇き果てています。」  詩編 63:2

この詩篇は、ダビデがアブシャロムから逃げるために、エルサレムを離れたときに書かれたものと考えられています。ヨルダン川方面に向かいましたが、そこは荒野です。神を礼拝する聖所から離れていて、肉体の渇きだけでなく、魂の渇きを覚えていたときにいのった祈りです。
    そして、ダビデはよく神のことを、「わたしの神」と呼びました。彼が、個人的な、親密な方として祈りをささげていることがわかります。ちょうど子供が父親に対してちょっと甘えているような祈りとなっています。

(祈り)
全能の神さま、あなたが御言葉を通して示された約束を、今日、自分のためのものとさせてください。どうか、私の渇きを潤してください。肉体の渇きだけでなく、霊的な渇きを潤し、生かされている喜びに満たしを与えてください。朝ごとに、み言葉を求め、乾くことがないように気をつけさせてください。

2月6日木曜日
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」 ヨハネによる福音書 3:17-18

  私たちが永遠のいのちを持つようにしてくださるのは、神が私たちを愛しておられるからです。子を持っておられる親御さんは、誰か他の人のために、自分の子が死ななければならないと聞いたら、どうでしょうか?しかも、とてつもない罪を犯した罪人のために、自分の子が死ななければならないとしたらどうでしょう。そんなむごいことを!と思われるでしょう。でも父なる神はそれを行なわれたのです。なぜか?私たちをそれだけ愛しておられるからです。
   多くの人が、「神、罪、裁き」の話を聞いて、こう感じます。「聖書の話、キリスト教の話を聞くまでは、裁きなんてことを気にしなくても良かったのに。何か裁かれているみたいだ。」と。いや、実際は反対なのです。もう既に裁かれているのです。それをただ気づいていなかったのです。だから、その裁かれている状態から救い出すために、神は御子キリストを私たちに遣わしてくださったのです。

(祈り)
父なる神さま、あなたの大いなる愛が、御子を通して、私たちを救い出す原動力となっていることを心に刻み感謝します。御子が遣わされなければ救いが身近になることはありませんでした。御子が苦しまなければ、まことの愛を知ることが有りませんでした。神さま、御子を信じて、私たちの世界が、そこに住む私したちが、あなたの裁きを逃れて生きる生活が築かせてください。


2月5日水曜日
「 主なる神はわたしの耳を開かれた。 わたしは逆らわず、退かなかった。 打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲り嘲りとは思わない。 わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。」
      イザヤ書 50:5-7

   6節「打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」
     これらのことは、すべてイエス様の身に起こりました。イエス様はユダヤ人の裁判において頬を打たれました。侮辱されました。つばきをかけられました。ひげを抜かれたことについては具体的に書かれていませんが、これも行なわれたのでしょう。髭を抜くことは、ただ痛いだけのことではありません。髭は男の尊厳を表していましたから、非常に侮辱的なことです。そして唾も同じです。唾をかけることは、相手を非常に侮辱している行為です。  (マタイ 26:67-68 )  そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」そして総督ピラトによって、鞭打ちを受けられました。
  最後の言葉が大事です。「顔を隠さず」とあります。主イエスは、神の御心がご自身が捨てられること、死に渡されることであることを知っておられたので、その仕打ちに服従されたのです。

(祈り)
天にいます私たちの父なる神さま、御子イエスさまは、あなたのみ心を行うために、苦難を忍ばれています。地上の苦難を耐えることによって、御国のいのちに預かる喜びがあるからです。あなたが、苦難に耐えるように守ってくれると信じているからです。神さま、私たちに継がしてくださった信仰によっていかなる苦難にも立ち向かい、信仰を守る事ができるようにお導きください。

2月4日火曜日
「夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。 もみ殻と穀物が比べものになろうかと 主は言われる。 このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。」
エレミヤ書 23:28-29

「夢」を見て、それを語ることの問題です。もちろん主は、夢によってご自分のことを啓示される時があります。
    けれども「夢」を見たら、それがそのまま神からの啓示なのでしょうか。いいえ、違います。
   しかし夢そのものが悪いものではありません。夢を見たから罪ではありません。夢を主からの言葉とすることが間違っているのです。だから、夢と主からの言葉を分けなければいけません。
    穀物は栄養のある部分です。もみ殻は脱穀の時に出てくる殻です。実質的な物は何もありません。主からの言葉は穀物であり、夢はもみ殻でしかないということです

(祈り)
恵み深い天の神さま、あなたの言葉は、私たちの心のかくされた部分を明るみにし、その汚れを精錬して、火のように清めてくださるので、感謝します。また、あなたの言葉は岩を砕く槌のように、私たちの固くな魂を砕いて、み言葉の恵みを受け入れるところにしてくださいます。神さま、どうか、あなたの言葉を守り、広めることができるように働かせてください。

2月3日月曜日
「アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。 」  モテへの手紙二 3:11 新共同訳

パウロは、ほんとうにひどい迫害にあってきました。ルステラにいたときは、石打ちにあい、弟子たちは死んでしまったのかと思ったほどでした。テモテもその光景を見ていたかもしれません。しかし、主がパウロを救い出してくださいました。

(祈り)
天の父なる神さま、イエスが祈られたように、私たちを試みに逢わせず悪よりお救いください。あなたを信じて歩むとき、信仰が試されることが有ります。そんなとき、イエスが私たちを守ってくださることを信頼し、それが確かになるまで忍耐して待つことを行わせてください。尊い主イエスのお名前によって祈ります。

2月2日日曜日
「 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」   ローマの信徒への手紙 11:32-33

神はすべての人を憐れもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込めました。言い換えると、神の憐れみを受ける前に、すべての人は、自分が神の憐れみを受けるのにふさわしくない者だ、と言うことを知らなければならないのです。

(祈り)
天の神さま、私を愛して心にかけてくださることを感謝して、御名をたたえます。今日、私は私の抱いている不安をあなたに委ねます。どうか、私の必要とするものを満たし、あなたの憐れみにあずかる者とならせてください。

2月1日土曜日
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。 ある者は永遠の生命に入り ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。 目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。  ダニエル書 12:2-3

  この聖句は体の復活の約束です。「眠りから」とありますが、これは実際に眠っていることではなく、復活の希望を持っているので死んでいても、それは一時的であることを意味しています。イエス様が「わたしは彼(ラザロ)を眠りからさましに行くのです。」と言われて、弟子たちが「眠っているのなら、助かるでしょう。」と言ったら、はっきりと「ラザロは死んだのです。」と言われました(ヨハネ11:11‐14)。信仰者にとって死は恐ろしいものではありません。なぜなら、また生き返るからです。
 けれども信仰者のみがよみがえるのではありません。信仰者がよみがえる時は「永遠のいのち」すなわち神の国の至福にあずかりますが、不信者もよみがえります。「そしりと永遠の忌み」によみがえるとあります。

(祈り)
天にいます父なる神さま、寒いときを過ごしています。このとき、健康を害することがないように、また、日常の営みが損なわれることがないようにお守りください。あなたは私たちに復活の希望を与えておられます。それは、身体の死が終わりで無いことを知らしめるためです。私たちが復活するとき、どうか、永遠のいのちに預かることをかなえてください。主の御名によって祈ります。



1月31日金曜日
「主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。」  詩編 51:17 新共同訳

 以下は同じ箇所のドイツ語ルター訳聖書からの翻訳文

「主よ、私の口があなたの栄光を告げ知らせることができるように、私の唇を開いてください。」


    罪が清められたら、奉仕をして、伝道するだけでなく、大きな声で主を賛美したい、賛美の歌をうたいたいとダビデは願っています。奉仕、伝道、賛美というクリスチャンの活動のすべては、自分が罪から救われた、罪が清められたという喜びから出ています。

(祈り)
天の神さま、私はあなたを信頼することにより、あなたが望む心を与えてくださると言うことを信じます。どうか、私たちがキリストを通して、あなたの栄光を讚美する心を与えてください。同時に、あなたの栄光のために、愛の掟に従って歩むことをかなえさせてください。

1月30日木曜日
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
コリントの信徒への手紙二 4:16

私たちが将来の栄光を見つめるときに、私たちの内なる人、つまり霊魂は新たにされます。そのときに外なる人、つまり肉体は衰えます。外は衰えるのですが、内は新たにされる、こうした一見矛盾した現象が、私たちのうちに起こるのです。キリスト者として生きるときに、外なる人は衰えていくことを体験するのです。キリスト者の特権は、外なる人が衰えているときに、将来への希望を見て、内なる人が新たにされていくことです。ますます天国についてのビジョンがはっきりとしてきます。ますます、キリストの十字架への道と復活の深みを味わうようになります。

(祈り)
天にいます私たちの父なる神さま、私たちに希望を与えてくださり、感謝します。たとえ肉体が弱ったり、衰えたりしても、内なる人がイキイキと新しくされるからです。神さまが、霊を注いで守ってくださっています。どうか、老化や衰えを嘆くことなく、それでも生かされているので、神さまの恵みが豊かに注がれていることを感謝して過ごす日々を与えてください。イエス・キリストの名によってお願いいたします。





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