今日の聖句  2025年3月    nagarenohotori      

      聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。




3月31日月曜日
「ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。  花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。 この里にも山鳩の声が聞こえる。  いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。 恋人よ、美しいひとよ さあ、立って出ておいで。」  雅歌 2:11-13

桜の季節がやってきました 。冬の寒さを通り 、春になって花咲くこの木を見ながら、私たちは神様の恵みを思うことができます 。人が 顧みることもない 冬枯れの時も、 この中に 命を注ぎ続けてくださる 神様がおられました 。今 暖かくなって、その命の喜びが満ち溢れているのです。私たちにも、人生の冬とも言うべき時があります。 人に忘れられていると思うような時 、神様は人の知らない方法で、その中に 命を注ぎ、 喜びの備えをしてくださっているのです。 そして時が来ると 、呼びかけてくださいます。「恋人よ、美しい人よ さあ、立って出ておいで」と。 神様が悲しみの時を終わらせ 喜びの時を作られるのです。

(祈り)
命の源 なる 天の神様、 人生の冬を乗り越えて、私たちに共に喜ぶ時を備えてくださる恵みを讃えます。あなたはイエス様を私たちのところに遣わし、 十字架の苦しみに合わせておられます。 しかし、 イエス様は死の淵から起き上がって、私たちのところにその姿を現してくださいました。 死者の中から イエス様を呼び起こされた あなたが、私たちをも呼んでくださいます 。どうか、 神様の造られた世界で美しく 花を実らせることができるように、私たちの歩みを今日も豊かに導いてください。主イエス様の名前によって お祈りいたします。

3月30日日曜日
「 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」 ガラテヤの信徒への手紙 6:14

聖書が私たちに語りかける福音とは 、イエス・キリストの十字架と復活が私たちとすべてであって、私たちの行いや決心、 あるいは 熱意が私たちの救いに関わることはないということです 。また私たちの 霊的な成長も、神の言葉として私たちの內に撒かれた種が結実していく過程なのであって、私たちの行いや決心、 他の人からの指導や強制が関与するものではありません。私の救いにとって、 キリストの十字架が全てであるのです。キリストの十字架、ここに私たちの深い 安心 と喜びがあるのです。

(祈り)
めぐみ 深い 天の父なる神さま、主の恵みが朝ごとに新しく備えられいます。 日々新しいキリストの十字架の恵みが私たちの全てとなり、 私 たちの行いも熱心も全てが、私の罪と共に十字架の血によって 洗い流されていきます。このキリストの十字架だけが私の喜びであることを 、この主の日において 改めて受け止めることができるように、どうか、私たちを導いてください。

3月29日土曜日
それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。  また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。  そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。 『わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」
マルコによる福音書 11:15-17

イエスさまは、神の宮が、祈りの家であることを、聖書を用いて教えられました。エルサレムの中心に、神への祈りがなければいけない。イスラエルの中心に、神への祈りがなければいけない。なぜなら、人は、祈りによって神との交わりをすることができるからです。私たちは、どうでしょうか。私たちの生活が、祈りにささえられているでしょうか。生きた神を意識して、神の導きに敏感になり、神の御声を聞いているでしょうか。自分の願いや心配を、神に打ち明けているでしょうか。私たちは、祈りによって、神との交わりをすることができます。イスラエルの民は、エルサレムにある神の宮で祈りました。けれども、今は、キリストを信じる者ひとりひとりのうちで行われます。パウロは言いました。「 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 (1コリント3:16)」自分のからだを、祈りの家にするか、それとも強盗の巣にするかは、私たち次第です。

(祈り)
天の父なる神さま、新しい朝を迎える事ができて感謝いたします。朝ごとにあなたのお守りと恵みを覚えることができています。過ぎし日の思いと行いを振り返ると、何とも多く、あなたを悲しませることがあったことかと懺悔します。神さま、どうか、私たちの信仰を強め、祈ることによって、日々、御心を行うことに心を込めることができますように、主の御名によってお願いいたします。

3月28日金曜日
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 」ヨハネの手紙一 3:16

愛とは一つとなることを求める いのちです。 一人だと、私たちは満たされません。 不完全であるからです 。しかし、一つ となるためには、 自分を捨てなければなりません。 私たちの中にある自分が他者と一つになることを拒むからです 。ですから、私たちは一つとなるために「相手」に自分を捨てさせようとしますが、 それは私たちの愛が間違って理解されているからです。
しかし、イエス様の愛は自分を捨てることによって私たちと一つになる愛だったのです 。ご自分を捨て無になってくださった、 そのようにして 、イエス様は孤独な私たちの存在の中に入ってきてくださったのです。 そして溢れるように満たして、 生かしてくださっています。

(祈り)
天の父なる神さま、イエスさまの愛を受けて、私たちも自分を忘れ、愛する者と一つになることができますように。一つとなる喜び、感激、感謝、希望を共に経験することができますように。共に苦労することも喜びに変えられるようにしてください。イエスさまのお名前によって祈ります。

3月27日木曜日
「 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」  マルコによる福音書 11:25

人間にとって最も難しいことは人を赦すことであり、 また 赦されること かもしれません 。自分に危害を加えたり、傷つけたり 、損害を与えた人を赦すことは難しいことです。 また 実質的な損害を受けなくても、プライドを傷つけれたり 、自分の思い通り ことが進まない場合にも、同様に赦せなくなってしまいます。
 そんな時 は、人に対する怒りで心だけでなく 、身体中が満たされているのです。 怒りは手放さなければなりません 。怒ってること自体が私たちの罪なのです。 自分の思いを貫きたい、自分の思い通りに人を裁きたい 、そのような思いに満たされ ているとき、私たちは神様に背を向けているのです。 私たちは、怒りを持って人を罰したいという思いによって自分自身が滅んでしまうことを覚えなければなりません。

(祈り)
神さま、私たちをお赦しください。神さま、私たちは人を赦す 資格すらありませんでしたが、御子イエスさまによって赦すことができるように導かれました。 どうか、 イエスさまの歩みを  祝福してください 。私たちも、イエスさまと共に生きることを行わせてください。そして、他の人に対する怒りではなく、赦しの恵みをもたらすことを行わせてください。尊い主の御名前によって祈ります。

3月26日水曜日
また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。 ルカによる福音書 9:61-62

一度、イエスに従ってから、振り返って後戻りしてはいけません、と言うことです。イエスを最優先にするだけでなく、持続させなければいけないことがここに書かれています。 これだけ読むと、キリストの弟子になることがとても大変なこと気づきます。けれども、そのことがここでの注意点ではありません。大切なのは、イエスがそのような差し迫った状況の中にいることなのです。御顔をエルサレムに向けたのは、ご自分が見捨てられ、死に渡されるのを、何があっても逃げないで直面するという決断です。大事なのは、そのキリストが私たちとともにいるということです。私たちが、毎日の生活の中で、疲れて、クリスチャンとしての歩みをやめたい、やめなくても、ちょっと後戻りしてみたいと感じるときがあるかもしれません。けれども、そのとき、イエスはあなたを見捨てておられず、「前を向きなさい。わたしがあなたとともにいる。進みなさい。」と言ってくださるのです。

(祈り)
天の父なる神さま、御子イエスさまの地上での歩みを讃えます。自分を無にして、あなたのご計画に従って、苦難の道を歩まれたそのイエスさまが、私たちとともに歩んでくださることを感謝します。どうか、神の国に向かって歩む私たちが、後ろに下がることなく、信仰の道に耐えて、神の御心を行う者に成らしてください。

3月25日火曜日
「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」
ペトロの手紙一 1:13-15

聖い生き方をペテロが奨励しています。イエス・キリストが現われて、私たちは天に引き上げられるという、大いなる恵みをいただくのですが、それを大いに喜んで、期待して待ち望みます。と同時に、私たちは、「心を引き締め、身を慎み」ます。心を引き締めるとは、自分の意思をしっかりと持っていて、生活のあらゆる領域で、神が願われている聖い生活を選び取っていく用意です。能動的であって、受動的であってはいけない、ということです。自分が、肉の欲望や、世の誘惑について、なんとなくふわっとした気分でいるのではなく、いつも心を見張り、御霊に導かれる意思を持ちます。

(祈り)
父なる神さま、私たちが日々、正しく歩むことができるようにお導きください。偽りを言わず、ごまかさず、欲張らず、素直に正直に歩むことを守らせてください。その上に、心を引き締め、身を慎んで、ひたすら、神さま、あなたの教えに従うことを守らせ、あなたの御業のために聖霊の力によって祈ることを励ませてください。

3月24日月曜日
 神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。  詩編 14:1
 神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。 わたしを試し、悩みを知ってください。 御覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。 どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。    詩編 139:23-24

 心の中に神をいないということは自分を基準とするということです。 自分を基準として物事を判断し 、他を裁く。 自分という世界の中で自分が王様になることです 。どんなに口で、「神はいる」と宣言しても、自分を基準としてる時、 心の中では神はいないと言っているのと同じことなのです。
神はいないの反対は、神はいるではありません 。神はいないの反対は「神様」 と叫ぶことです 。神様と呼びかけることです。「 神様、あなたの 御旨を教えてください。 私はどうしたら良いのでしょう」 と聞くことです。

(祈り)
天の父なる神さま、この世界の中に、あなたから逃れる場所はありません。 あなたから隠れる場所もありません 。どうか、あなたが私の言葉の全てを聞かれ、 私 の行動の全てを見られ 、私の心の底の考え さえも知っておられることを覚え、 あなたにより頼んで歩むことを行わせてください。主 イエス・キリストの御名によって お願いいたします。


3月23日日曜日
「わたしは御力をたたえて歌をささげ 朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。 あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。  わたしの力と頼む神よ あなたにほめ歌をうたいます。 神はわたしの砦の塔。 慈しみ深いわたしの神よ。」   詩編 59:17-18

 夜にダビデは見張られていたので、ダビデは夜に祈っていました。その祈りは答えられ、彼は守られ朝を迎えます。そのたびに彼は喜びの歌をうたいました。私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。
 初めは苦しみ、苦悶、苦闘からの祈りから始まりました。けれども最後は賛美で終わっています。これが苦しむときの祈りです。ヤコブの手紙に、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。(5:13)」との勧めがあります。もう自分は敵に四方を囲まれている、だめだ、と思うとき祈りましょう。いろいろなプレッシャーを受けてどうすればよいか分からなくなったときダビデのように心を広げて祈りましょう。神さまはその祈りに必ず答えてくださいます。

(祈り)
主なる神さま、あなたに守られて、夜の間を過ごし、新しい日を迎えることを感謝します。今日は日曜日、聖なる安息日です。過ぎ去り日に与えられたお守りと恵みを感謝して、あなたの御名を讃えて過ごすときを持たせてください。どうか、御前で、私たちの抱えている重荷を降ろし、新たな力を得て立ち上がることができるように助けてください。試みのなかにある人々に、病のなかにある人々に、あなたのお守りを与えてください。主の御名によって祈ります。

3月22日土曜日
「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。  何事も愛をもって行いなさい。」コリントの信徒への手紙一
 16:13-14

 パウロは対立と混乱の中にあったコリントの教会の人々に励ましを送りました 。罪の中にまどろむことがないように。信仰に基づく生活を送るように 。「雄々しく強く 生きなさい」と。しかし 雄々しくあること、 強くあることとは一体何でしょうか 。それは神様の 御思い以外に自分の意思を持たないこと 。神様と人に仕える 僕に徹すること 。まさに僕の謙遜にこそ、雄々しさと強さの秘密があるのです 。それは 主イエスの生き方 そのものでした。 自分の思いを実現しようとせず 、ただ 父なる神様の御思だけを求め、 富を権力も求めず、 名も命も惜しまず、 苦しむ者たちにお仕えになりました 。主イエスこそ、勇敢なる君 、王の王、主の主です 。

(祈り)
天の神さま、今日も生きて働くように命が与えられいます。感謝します。しかし、私たちの信仰を惑わせることが多く、意思も弱々しくすることが起きています。神さま、どうか、主イエスさまの歩まれた十字架の道を思い浮かべ、十字架上のイエスさまを見上げることによって、私たちの信仰を固くし、雄々しく強く生きる者に変えてください。

)3月21日金曜日
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 」ルカによる福音書 22:24-26

  ここでイエスは、「自分を偉いと思ってはいけない」と言う代わりに、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになりなさい」と言われました。これはたとえば、食事に招かれたら、すぐに下座につき、他の人がたくさん食べるのを待ってから、食事につくような姿勢です。また、「上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」とは、リーダーは人に命令を下す前に、人が嫌がるような仕事を進んでやりながら、人に模範を示す必要があるという意味です。 これはヨハネ13章に記されたように、イエスが最後の晩餐にさきがけて弟子たちの足を洗われたような姿勢を指しており、その姿勢に習うようにとの勧めです。

(祈り)
天の神さま、私たちは知らず知らずのうちに「競争社会」の原理になじまされ、偉くなりたい、1番にならなければと言う思いが身についてしまい、それに捉えられています。イエスさまのそばにいた弟子たちですら、その思いを抱いていました。しかし、彼らはイエスさまに諌められ、教えられ、仕える者に変えられています。神さま、どうか、このイエスさまの御言葉を聞く私たちを仕える者に変えて、御国の幸いを得る者にならせてください。

3月20日木曜日春分の日
「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 」ルカによる福音書 11:8-10

イエスは、私たちが父に求めるとき、どのような姿勢で臨むべきか教えられています。大事なことばは、「しつように頼めば(8節)」というところです。友だちのような関係でさえ、しつように頼めば、その願いを聞いてくれます。ましてや、父が、私たちのしつこい求めに、答えないはずがない、というのが、イエスのおっしゃりたいことです。

(祈り)
天の父なる神さま、私たちを祈れる者にしてください。今私たちに何が本当に欠けているかを教えて、これを熱心に求めるものとしてください。「しつように頼む」ことは、あなたに必要なのではなく、私たち自身に必要だからです。あなたは求めるものに「聖霊」をも与えてくださることを約束していてくださることを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

3月19日水曜日
「 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」 コリントの信徒への手紙一 13:12

はっきり知られているのと同じように、はっきり知るということばが大事です。私たちは完全に神について知ることはできていませんが、神には完全に知られています。完全に知られていることを知ることはとても大切です。私たちが神を完全には知ることは出来ないですし、目で見ることはできません。けれども、神は私たちを完全に知っておられるのです。神は確かに目で見えませんが、私たちをすべて見ておられます。神は、私たちの言うことをお聞きになることができます。また神は私たちに語ることができます。完全に知ることよりも、完全に知られているところに私たちは安心を見出すのです。神が私たちを見張り、見守り、声をかけられ、また私たちの話を聞いてくださる、それが天地創造の神なのです。

(祈り)
愛なる神さま、あなたは私たちを愛して、独り子イエスさまをお遣わしくださいました。彼の十字架により、罪が贖われ、とこしえの命に預かり、あなたの恵みと御守りのなかを歩むように導かれています。神さま、どうか、この贖いの御業を信じ、御教えを守って、与えられた日々を過ごすことをかなえてください。例え、あなたの御顔を見ることができなくても、あなたに見守られていることを喜んで受け入れることができますように、主の御名によって祈ります。

3月18日火曜日
「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」 テモテへの手紙二 1:11-12

ここには、パウロが神とともに歩んで来たところから出てくる自信が表現されています。「わたしは自分が信頼している方を知っており」と言っていますが、神のことを知識ではなく、その体験の中で人生の中で知っていきました。自分を救い出してくださったことが、何度となくあったことでしょうか。神は真実な方であることを彼は体験をもって知っていました。そして、「わたしにゆだねられているものを」とパウロは言っていますが、これは自分のいのちのことです。かの日、つまり主が再臨される時に、自分が永遠のいのちに導きいれられることを確信しているのです。

(祈り)
恵み深い天の神さま、私たちになすべき務めを与えて、日々の歩みを導いてくださることを感謝します。時々、その務めのために苦しむことや、誤解されることがあります。また、失敗して悩むこともあります。どうか、あなたの恵みによって、災いから私たちが救い出され、命が守られ、生きる力を得て、務めに励むことができるようにしてください。


)3月17日月曜日
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」
ローマの信徒への手紙 5:8-9

キリストが罪人のために死んでくださったということは、神が罪人を愛しておられるということです。 神が罪人を愛しておられるということは、罪人を義と認めるということです。 従って 私たちが罪人であるということは、私たちは神の愛の対象だということです。 これが 福音です。 福音のうちに 神の義と愛と恵みがあります。

(祈り)
天の神さま、父親が子どものためにおいしいものを食べさせたり、楽しい思い出を経験させるために、旅行に連れて行くことを通して愛を表すように、神さま、あなたはキリストの苦難と十字架によって、私たちに愛を示してくださいました、これほど大きな愛はありません。どうか、神さまが私たちのために現してくださっている愛をしっかりと受けとめ、その愛を味わい、その喜びを思い巡らしなから、過ごさせてください。

3月16日日曜日
「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 」ヨハネによる福音書 16:22-23

復活の主に出会うことが約束されています。イエスは弟子たちに、今は悲しんでいるが、再び会うこと、復活のキリストに出会い、生ける喜びを得ることになると教えています。その喜びはだれも奪い去ることはできません。なぜなら、その喜びは、状況にはなくて主にあるからです。自分の状況に対して喜べば、その喜びは過ぎ去ってしまいます。なぜなら、状況は変わるからです。けれども、主を喜び、主にあって喜べば、決して過ぎ去ることはできません。主はいつまでも変わらないからです。 ですから、私たちが悲しむとき、主にあって悲しめばそれは必ず喜びに変わります。悲しんだその分、主は報いてくださいます。

(祈り)
恵み深い天の神さま、あなたの御子が、地上に降りて来られ、御心をあらわしましたが、受け入れられず、苦難のなかを歩まれています。その御子に従う者たちにも苦難が及びました。しかし、御子は、その苦しみの先に、復活の主に会えることを教えています。御子を救い主と信じる私たち、この受難節の先に復活の喜びが与えられることを受け止め、御子の受難を心にとめることができるように、主のお名前によって祈ります。

3月15日土曜日
「 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
コリントの信徒への手紙二 5:17

私たちは御霊によって新たに生まれた者たちですが、ここでは、「新しい」ということに重きが置かれています。新しいいのち、新しい歩み、新しい世界です。私たちは、イエスさまを信じても、過去の生活と何ら変わらないではないか、と感じます。昔からの性格・性向、弱さは何ら変わらないではないか、と思われるでしょう。確かにそのとおりです。しかし、もし、これから過去の自分が変わっていくとしたら、それは、信じたときに起こった、全く新しい創造に基づいて変わっていくのです。自分がどんなに主張しようが、「いや、絶対にそうではない!」と否定しようが、私たちの古い人はすでに死んでしまいました。もう、私たちに何の効力も発揮できま
せん。そして、まったく新しいキリストにあるいのちを、信じたときに与えられたのです。そう思えなくても、事実はそうなのです。自分がこれから変えられていきたいと思うなら、初めのところに戻ってくることだけが唯一の解決方法です。キリストにあって、あなたは新しくされました。すべて古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくされました。このことを信仰によって受けとめて生きていくときに、信仰だけではなく、実際に新たな思いが生まれ出て来て、新たな歩みをしていくことができます。

(祈り)
天の父なる神さま、子どもたち卒業が終業・卒業シーズンを迎えています。いったんリセットして、新しい用紙を使い始めることに似ています。失敗したことにはやり直すチャンスとなり、新たな気持ちで始められることになっています。神さま、私たちを新たにしてくださり感謝します。どうか、古い知識、古い体験、古い関係を捨て去り、新たに注がれる信仰、真理、力、愛、命などにによって育てられる御恵みのもとに歩むことができるようにしてください。

3月14日金曜日
 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。  ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
ローマの信徒への手紙 10:11-13

 神の御前では、どのような人も同じレベルに立っているのであり、信仰によって神に近づかない限り、主の御名を呼び求めないかぎり、救われることはできないのです。私たちが初めに福音を信じるときのように、信仰をもって近づかなければ、神との交わりを行なうことはできないのです。信仰によってのみしか神に近づけないのに、クリスチャンという人種とそうではない人との間に区別をつけてはなりません。パウロは、「同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して、恵み深くあられるからです。」と言いました。すべての人の主です。そして、私たちも主を呼び求めなければいけません。

(祈り)
天の神さま、あなたに祈ることができる恵みを感謝します。私たちの祈りの多くは、あなたの助けや導きを求めるものとなっています。それに応えてくださるあなたの御名を讃えます。神さま、どうか、私たちの祈りがあなたの深い恵みを呼び寄せるものとなり、あなたを信じる喜びを増し加えるものにしてください。

3月13日木曜日
 「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 」ペトロの手紙一 2:9

ものすごい特権です。「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなっ民」これらはみな、旧約聖書においてイスラエルの民に対して向けられていた言葉でした。例えば、イスラエルの民がシナイ山の前にいたときに、主は、「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト19:6)」と言われました。この特権が、キリスト・イエスの血により、異邦人である私たちにも与えられています。ですから、私たちが苦しみの中にいても、自分たちが主にあって、特別な存在な存在であることを思うことができます。
 クリスチャンたちが、選ばれた種族になっているは、私たちが特権意識を持ったり、優越意識を持ったりするためでは決してありません。そうではなく、ここに書かれているとおり、主が行なってくださった、すばらしいみわざを他の人々に宣べ伝えるためです。「暗闇」というのは、罪の中で死に、肉の思いによって生きていた状態のことです。「驚くべき光の中」とは、罪が赦され、義と認められ、神の子どもとなる特権が与えられ、神の家族となったことです。このようなすばらしいことをしてくださった方のみわざを、私たちは他の人々に分かち合います。

(祈り)
聖なる神さま、私たちを 空疎な生活から 贖い出し、 ご自分に和解させ、神の民として信仰と望みとに生きるものにしてくださったことを感謝いたします。どうか、あなたの選びによって信仰を与えられ、 十字架の道によって贖われ、 御霊のきよめに預かり、 キリストに従う者となった私たち、 それぞれ 遣わされたところにおいて、 ただ神の栄光のために、 日々の業を捧げる者にしてください。尊い主のお名前によって祈ります。


3月12日水曜日
「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 」ペトロの手紙一 2:24

キリストの苦しみは私たちのためでしたが、私たちの罪のために十字架で死なれました。そして私たちが罪を赦され、罪から離れて義のために生きるようにするためです。多くの人が、「私は、罪赦された罪人。」と言って、十字架を盾に、自分がしていることを正当化しますが、それは十字架の意義の本末転倒です。罪から離れるために、主は苦しみを受けられました。そしてまた、私たちがいやされるためでもありました。キリストが受けられた打ち傷は、私たちの霊魂だけでなく、肉体をもいやします。

(祈り)
主なる神さま、あなたは憐れみに富み、 大きな愛を持って罪によって死んでいた私たちを キリストと共に生かし 、神の民としてくださいました 。そのみ恵みを覚えて感謝いたします 。こうして教会の交わりに招き入れられた私たち 、光の子として生き、神さまの大きな 御業を語り伝えることができますように 。また、この世にある間 、魂に戦いを挑む 肉の欲を避け、迫害や苦難の中にも立派な行いをなして、神の僕としてふさわしく行動する者とならせてください。


3月11日火曜日
「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。  こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。」ペトロの手紙二 1:10-11

私たちは、キリストにあって選ばれ、召されました。けれども、その選びは、自分のうちから実が結ばれていることによって初めて確かめられるものです。ですから、ペテロは、選ばれていることを確かなものとするために、ますます熱心になりなさいと勧めています。あなたがたは選ばれているのですから、救われいるかいないのかわからないようにするのではなく、はっきりと分かるようにしなさい、と命じています。

(祈り)
天の父なる神さま、私たちに信仰を持って歩ませてくださり感謝です。どうか、この信仰生活を通して、豊かなは実りをもたらすことができますようにお導きください。そのために、あなたに選ばれて信仰を持っていることを自覚し、「信仰から徳へ」「徳から知識へ」「知識から自制へ」自制から忍耐へ」「忍耐から信心へ」「信心から兄弟愛へ」「兄弟愛から愛へ」という信仰の実り(5-7節)が得られるように励ましてください。主イエスのお名前によって祈ります。

3月10日月曜日
「 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
ヨハネによる福音書 14:27

イエスは、「心を騒がせるな」と繰り返されました。そして、イエスは、この世が与えることのできない平安を与えてくださいます。ある絵画コンテストで、平安というテーマで競われたことがあったそうです。そして、そこで最優賞になった絵は、のどかな田園風景ではありませんでした。嵐の中に、岩の断崖の横に穴をがあって、わしの子どもが住んでいる情景でした。嵐の中で、確固たる平安を持つことは、世によって与えられません。ただキリストのみが与えることのできる平安です。湖の舟のなかで、弟子たちはそれを学んでいました。

(祈り)
天のお父さま、あなたはすべての恵みを持っておられます。その恵みはイエスキリストを通して、私たちにもたらされています。あなたは慈しみ深く、力に満ち、あなたの平和に導いてくださいます。どうか、あなたの与える平和を受け止めることができますように、人生の嵐の中にあっても、心を騒がせることなく過ごせるように導いてください。

3月10日月曜日
「 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
ヨハネによる福音書 14:27

イエスは、「心を騒がせるな」と繰り返されました。そして、イエスは、この世が与えることのできない平安を与えてくださいます。ある絵画コンテストで、平安というテーマで競われたことがあったそうです。そして、そこで最優賞になった絵は、のどかな田園風景ではありませんでした。嵐の中に、岩の断崖の横に穴をがあって、わしの子どもが住んでいる情景でした。嵐の中で、確固たる平安を持つことは、世によって与えられません。ただキリストのみが与えることのできる平安です。湖の舟のなかで、弟子たちはそれを学んでいました。

(祈り)
天のお父さま、あなたはすべての恵みを持っておられます。その恵みはイエスキリストを通して、私たちにもたらされています。あなたは慈しみ深く、力に満ち、あなたの平和に導いてくださいます。どうか、あなたの与える平和を受け止めることができますように、人生の嵐の中にあっても、心を騒がせることなく過ごせるように導いてください。

3月9日日曜日
「 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」
ヨハネの手紙一 3:8

罪のうちを歩む、罪の中に生きるのは、生まれながらの姿で生きているからです。その、生まれながらの姿で生きるとき、人は悪魔の支配の中で生きています。エペソ人への手紙2章2節にはこう書いてあります。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に歩んでいました。」
 イエスさまは、ユダヤ人の宗教指導者と話されているときに、非常に過激なことを語られました。「 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」(ヨハネ8:44)
  ユダヤ人だけでなく、だれでも罪を犯しているなら、その人は悪魔から出た者であると言えるのです。

(祈り)
天の父なる神さま、今年も受難節を迎え、イエスさまの苦難を思い浮かべ、その歩みの中にある御心を心にとめるときと成りました。どうか、イエス様が、悪魔の働きを滅ぼすために来られ、苦難を受けられたことにより、私たちが悪魔の虜から解放されて行くことを覚えることができますように、またイエス様が来られたこと、苦難を受けられたことをことを感謝して、このときを過ごせるように導いてください。主イエスさまのお名前によって祈ります。

)3月8日土曜日
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 ヨハネによる福音書 6:68-69

ここに残された弟子たちの信仰告白があります。まず、「私たちがだれのところに行きましょう。」です。彼らは他の人々、他のラビ、他の預言者と呼ばれる人々、また国の権力者、学者、または世の楽しみ、他のどんなところに行っても、今、受けている永遠の満たしを見つけることはできない、と言っています。この世にあるものに失望しているのです、いや絶望しているのです。
 そして次に、「永遠の命の言葉を持っています」と言っています。イエスが語られる言葉は、私たちはこれらを信仰によって読むだけで、命を持っていることを知ります。まるで自分の奥深く、霊に語りかけておられることを知ります。主が語られていることが、この地上のことではなく、永遠の領域、もっと高い次元から語られている言葉であることを知っています。

(祈り)
憐れみ深い天の神さま、厳しい寒さのなか、健康と生活が守られて過ごすことができる恵みを感謝します。日毎にあなたの言葉によって教えられ、導かれ、慰められ、励まされ、助けられていることを覚えます。神さま、どうか、政治不信、社会不安、気候不安と天災の脅威の中にある私たちが、命の言葉を持つまことの神さまを信じて歩む特権を持ち続けることができるようにしてください


3月7日金曜日
[34] しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 
[37] あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」 マタイによる福音書 5:34, 37

法廷において私たちが証人に立つとき、誓いを立てますが、それが偽りのないものでなければならない、という意味においてこの律法は適用されます。しかし、この律法を乱用して、「神の名によって、誓います。」というセリフを正当化するようになっていました。私たちも、「本当に○○をやるの?」と聞かれた時、「うん。絶対にする!」と言いがちですが、もし本当にするのなら、「はい、します。」とだけで十分なのです。つまり誓いを立てるのは、自分の言ったことを実行しないからです。イエスは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい、と言われました。つまり、本当の意味で、自分の言ったことを守る人になりなさい、という事です。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたのお守りのなかを過ごすことができることを感謝します。山火事のために避難生活を余儀なくされている方々のことを思うと心が痛みますが、それでも、最低限の命の歩みが守られていることを感じています。神さま、どうか、私たちのが、口先だけの慰めではなく、心からの励ましの業を行って励まし合う者にならせてください。尊い主のみ名によって祈ります。

3月6日木曜日
すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。 」マタイによる福音書 8:8-10

百人隊長は、命令系統のことを話しています。誰でも人の上に立つ人は、自分自身が権威の下にいなければいけません。さもなければ、その人は暴君になってしまいます。まず彼は、「わたしも権威の下にあるものですが」と言いましたが、イエスが天の父の権威の下におられることを理解していました。さらに、「『行け。』と言えば行きますし。」と、権威がその言葉にあることを認識していました。神が、「光よあれ。」と仰せられたら光があったように、イエスのみことばはすべてのものを従わせる権威があったのです。したがって、彼は、イエスがどのような方であるかを正確に認識し、その認識にもとづいて信じました。神が望まれているのは、この信仰です。私たちの信心深さが問われるのではなく、信仰の対象である方を正確に認識していることが大事なのです。

(祈り)
天の神さま、私たちに信じる思いを与えていただき、感謝します。みことばは、信じる者は救われると言い、信じて願うことはかなえられると教えています。けれども、大切なのは何を信じているかです。神さま、どうか、あなたが天地の造り主であり、癒し主であり、まことの愛の主であり、恵みの御業を現す神であると信じて、その方に近づく者にならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

3月5日水曜日
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」ローマの信徒への手紙 6:22-23

ここで二つのことが対比されています。報酬と賜物です。私たちは罪を犯すことにより、その当然の報いとして死に至ります。けれども、永遠のいのちを持つときには、私たちが行なったことではなく賜物として受け入れるのです。神は、イエス・キリストにあって行なわれたものを、私たちに与えてくださいます。それを受け取るのが私たちの仕事であり、私たちがしなければいけないことは、唯一、信じることなのです。

(祈り)
恵み深い天の神さま、私たちの前には(罪の報酬)、(神の賜物)が置かれています。罪を自分の主人として、罪に仕える者は、罪に値する報酬を得ます。それは死です。しかし、神を自分のとする者は、、恵みの賜物として、(キリストにある永遠のいのち)をいただきます。神さま、私に永遠のいのちの中を歩ませてください。

3月4日火曜日
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。  そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。 マタイによる福音書 21:10-11

イエスさまは、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マタイ16:24)」 と言われました。キリストを王、主とすると、自分を否定せざるを得ません。しかし、私たちは、自分の精神的な必要を満たしてくれる人、自分を感動させてくれるような人を王として立てようとします。
 イエスさまの奇跡によってパンと魚が与えられた5千人以上の群衆は、イエスさまをそんな王にしようとしました。そのような王を立てるのに、自分を否定する必要はありません。自分が変わる必要がありません。キリストはその反面へりくだった方なので、私たちは自分のあり方を捨てなければ、この方に従うことはできません。それに、この方に従えば、人間的には損をします。けれども、本当の意味で生きることができるのです。

(祈り)
天の神さま、あなたの御子イエスさまは街々を巡って力強い教えと癒しと奇跡を通して、御心を伝えています。そして、私たちを神さまのところに導いておられます。神さま、どうか、人間的な思いではなく、御心を信じて、イエスさまをキリストとして受け入れ、キリストに従って、この旅路を歩むことを行わせてください。愛する主のお名前によって祈ります。

3月3日月曜日
「 神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。 わたしを試し、悩みを知ってください。 御覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。 どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。」詩編 139:23-24 新共同訳

この祈りは、自分が憎しんでいるという敵が自分の心の中にも入ったら、その敵と同じようになってしまいます。それで、自分の心を神が清めてくださるように祈っているのです。ダビデは1節で、「 主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。」と言ったのに、今ここで、「わたしを究め わたしの心を知ってください。 わたしを試し、悩みを知ってください。」とお願しています。主が心を探って、調べられるなら、この祈りは不要のように思われます。いいえ、ここは、「私が自分で自分の心は知っている。自分の思い煩いも知っている、と思い込むことがないように。」という祈りであります。

(祈り)
天にいます父なる神さま、あなたは普遍の神であり、世界地図上のどんなところにもおられる御方であられます。この世界で、あなたから逃れるところはありません。神さま、あなたが私の言葉のすべてを聴かれ、私の行動のすべてを見られ、私の心の底の考えさえも知っておられることを覚え、神さま、あなたと共に歩むことを守らせてください。


3月2日日曜日
どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、 すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。
コロサイの信徒への手紙 1:9-11

祈りは神のみ旨に従うことであり、 御言葉の約束と聖霊の助けに基づきます。 御言葉が 祈りの土台であること以上に確かなことはありません。 私たちは 御言葉を信じるのと同じように、祈ります。 祈りは特にキリスト イエスのうちに示された神の約束に基づきます。 これ以外に祈りの土台はありません 。私たちの感情や功績や業ではなく、神の約束 こそが 信仰の土台であり、 祈りの健康な 基盤 なのです。

(祈り)
愛する天の神さま、私はあなたがキリスのうちに示された約束のうちに、祈りの基盤を置きます 。あなたの御言葉 こそが私の土台です。どうか、あなたの御旨に従って 、あなたに喜ばれるよう、善い業に励んで実を結びことができるように、私たちを導いてください。

3月1日土曜日
「思い起こせ、初めからのことを。 わたしは神、ほかにはいない。 わたしは神であり、わたしのような者はいない。 わたしは初めから既に、先のことを告げ まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。 わたしの計画は必ず成り わたしは望むことをすべて実行する。」イザヤ書 46:9-10

イスラエルが出エジプトからどのように救い出されたのか、など、この世界にイスラエルの神以外に救いはないことを証しする出来事を思い出しなさい、ということです。
 イスラエルはそれを初めの愛として経験しました。ところが時が経て、力を失い、疲れて、周りにある偶像に手を出すようになったのです。けれども、イエス様がエペソにある教会に対して言われたように「あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。  だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。(黙示2:4‐5)」なのです。
 主が私たちのためにしてくださったこと、神の愛を、私たちはご聖霊によってつねに、心に注がれていなければいけません。それでこそ私たちは困難に耐えて、望みを持つことができるのです。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)」

(祈り)
天にいます父なる神さま、私たちに愛を注いで、あなたのもとに立ち返らせて、あなたを主として仰ぐ歩みを与えてくださり感謝します。どうか、あなたの愛を豊かに降り注いでくださり、苦難にも耐える歩みを続けさせてください。



2月28日金曜日
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」 コリントの信徒への手紙二 4:8-10

このような一見、矛盾した生き方が、キリスト者の生き方です。土の器が、苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされないところに、神の宝が現れているのです。キリスト者の生活を、あまりにも単純にして、「信じていれば、苦しみはない」として、苦しんでいれば信仰が足りないとします。途方に暮れるように方向が見えないのを、祈りが足りないなどとします。迫害されている人々を、見向きもしません。倒されているのであれば、信仰の失格者であるとみなします。しかし、そういった単純なものではないのです。苦しめられているのに、なぜか窮していない。途方に暮れているのに、な
ぜが行き詰まっていない。迫害されているのに、なぜか見捨てられていない。倒されているのに、滅んでいません。 どうして、そうなっているか、それはイエスの死とよみがえりが、私たちの内に働いているからだ、ということです。

(祈り)
恵み深い天の神さま、試練は様々な形と大きさで訪れます。あなたは、それぞれに応じたしかたで関わってくださるからです。神さま、私に炎のような熱意を与えてください。試練を乗り越え、天におられるあなたの御前に至るために、必要なものを装わせてください。主イエス様のお名前によって祈ります。

2月27日木曜日
「主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。  わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。」
サムエル記上 12:22-23

 ここに神の憐れみの選びがあります。彼らが正しいから主は彼らを見捨てないのではなく、「ご自分の偉大な御名のために」捨てられないのです。「あえて」ご自分の民とされているのです。私たちもそうです。私たちがキリスト者であることができるのは、私たちがキリストにしがみついている頑張りに拠るのではなく、キリストにあって神が私たちを選ばれたからです。キリストの御名のゆえに、私たちが見捨てられることはありません

(祈り)
天の父なる神さま、あなたの御言葉によって教えてくださることを感謝します。あなたは私たちの必要とすることを知り、それらをすべてかなえてくださいます。どうか、私たちもなすべき祈りをささげ、あなたのそば近くに私たちを導いてください。



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