流れのほとり   
                                 発行: 流  れ  の  ほ  と  り 社     
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        2017年5月6日号 No.320            主筆・牧師     竹谷 敏朗                                       


 異文化理解
             ハジメニカシコイモノゴザル   コノカシコイモノゴクラクトモニゴザル
             コノカシコイモノワゴクラク   (ギュツラフ訳)

       初めに言があった。言は神とともにあった。
       言は神であった。  
           (ヨハネによる福音書 1章1節  新共同訳聖書)

 キリスト教布教の歴史は異文化との闘いである。
異文化とは習慣、慣習の違いのことであろう。日本の国では、子どもが与えられると、神社に出かけて祈ってもらうことが根付いている。そこには、皆さんが行っているから、私たちも行わなければならないと言う感覚がある。

 日本の製造業の多くは、大なり小なり、社内にお社を設けている。 そして、新製品の発売の度に、そのお社に神官を呼んで奉告祭を行っている。これが、日本のなかでは当たり前の儀式になっている。せっかく造りだされたものが当たる(売れる)ようにするために、それを守り続けている。普段は、宗教に無関心な人でも、あるいは立派な科学者であると言われている人でも、その習わしを避けてはいない。高層の大きな建物を建てる時にも、必ずと言っていいほど、地鎮祭という神事が行われている。コンピューターを駆使して作った設計図どおりに建物が建築できるように、建築中の事故が起きないように祈念して、その建築が始められ、完成すると、竣工式という神事を行ってその完成を祝っている。

 これらは私たちの住むこの社会の特有の、欠かせない出来事となっている。ですから、キリスト教会においても、同様な趣旨のことを儀式化して行うようにして、この地の風習に配慮するようになっている。それは他の国ではないものである。
 社会の、その土地の風習を理解するのには、その背景を知らなければならない。それは簡単なことではない。私たちが外国に出かけて行くと、そこにはまた、私たちのところとは異なる慣習・出来事があるもので、それを正しく理解するには時間をかける必要がある。

 かって、私はアメリカで2年余り生活をする機会がありましたが、その2年の生活の間に、最初は理解できなかったことが、生活をするにつれて分かるようになっている。異文化を理解するのは、生活的感覚が土台となるものである。

 日本語による最初の聖書は、ギュツラフの「ヨハネによる福音書」と言われている。今から170年以上の前のこと。 ギュツラフはメソジストの宣教師で、彼の日本語の聖書を作ろうという志に協力したのが3人の日本人でした。 この人たちは、愛知県の知多半島の小野浦から江戸に向って米を運ぶ船の乗り組み員でした。 しかし嵐のため、船は1年2ヶ月という長い間漂流して、北アメリカ西海岸に流れついたのですが、その時、14人いた乗組員のうち生存していたのは、音吉、久吉、岩吉の3人だけでした。この3人はそこから、いろいろの経過を経て、ギュツラフ宣教師と出会い、彼の聖書を日本語に翻訳するという夢の実現に協力したのです。 そこには、3人が体験したこと、漂流から助け出され、一文無しの彼らを親切に取扱い、しかも祖国までの費用を負担して届けてくれようとする、キリスト教徒との生活がありました。知識では得られないものを、共に生活するなかで、彼らはキリストの愛を、彼らの崇拝する神を知り、それによって、彼らもまたその真理を祖国の人に知らしめるために、ギュツラフに協力したのでした。

 聖書の言葉、教えは知的に理解するだけでは十分ではなく、その真意を理解して受け入れることができれば、それは人生の大きな糧になる。聖書によって、人生を変えられた人は実に多い。あなたにもその機会は与えられることと信じている。

 ※音吉、久吉、岩吉の三人の頌徳記念碑が出身地の美浜町に1961年建てられ、以来、同町と日本聖書協会は毎年、聖書和訳頌徳記念式典を行っている。
 ※私の母は、元気な頃にこの式典によく参加していた。
 ※音吉を題材として書籍が幾つか表されている。その一つに三浦綾子著「海嶺」(1981年)がある。
  この作品は1983年映画化されている。
 


その後の音吉

 チャールズ・ギュツラフ宣教師に協力して最初の日本語訳聖書を完成させた音吉は、アメリカの商船に乗ってマカオから日本に向った。それは漂流していた日本人を故国に戻し、彼らの国と交易を始めようとするためであった。1837年7月、同船が三浦半島の城ヶ島の南方に達した時、予期せぬ砲撃にさらされる。これがモリソン号事件である。当時、日本にはイギリスを始めとする外国船が頻繁に来航しており、これらの中には無許可での上陸や暴行事件を引き起こすものもあり、江戸幕府は異国船打払令を発令し、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃して追い返すという強硬姿勢をとっていた。モリソン号もイギリスの軍艦と誤認されて砲撃されたのである。

結局モリソン号は、通商はもとより漂流民たちの返還もできず、マカオに戻った。彼らは再びチャールズ・ギュツラフの元に預けられ、1838年(天保9年)アメリカ合衆国へ行く。

その後、音吉は上海へ渡り、阿片戦争に英国兵として従軍する。その後、デント商会(清名:宝順洋行、英名:Dent & Beale Company)に勤めた。同じ頃、同じデント商会に勤める英国人女性(名は不明)と最初の結婚をしている。この最初の妻との間には娘メアリーが生まれたが、娘は4歳9ヶ月で他界、妻もその後、他界している。このメアリーの墓は、晩年、音吉が住まいとしたシンガポールに残っている。

 1849年(嘉永2年)にイギリスの軍艦マリナー号で浦賀へ行く。この時は中国人「林阿多」と名乗った。1854年9月にイギリス極東艦隊司令長官スターリングが長崎で日英交渉を開始したとき、再度来日し通訳を務めた。また、この時に福沢諭吉などと出会っている。この時、音吉には長崎奉行から帰国の誘いがあったが、既に上海で地盤を固めていた音吉は断っている

その後、マレー人と再婚する。彼女もまたデント商会の社員であった。この2度目の妻との間には、一男二女をもうける。1862年(文久2年)はじめ、音吉は上海を離れてシンガポールへ移住し、その地で幕府の文久遣欧使節通訳の森山栄之助らに会っている。この使節団には福沢諭吉も参加しており、再会を果たす。音吉は清国の状況などを福沢たちに説明しており、これらの記録は福澤の著した「西航記」に残っている。1864年、日本人として初めてイギリスに帰化してジョン・マシュー・オトソンと名乗る。

1867年(慶応3年)、息子に自分の代わりに日本へ帰って欲しいとの遺言を残し、シンガポールにて病死した。49歳。日本の元号が「明治」になる1年前であった。息子のジョン・W・オトソンは(明治12年)に日本に帰り、横浜で日本人女性と入籍許可を得て結婚、「山本音吉」を名乗った。しかし、念願の帰化は出来なかったようである。山本音吉はその後、妻子と共に台湾へ渡り、1926年8月に台北で死去している


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6月1日(木)
「 このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 ルカ福音書15章7節

天の神さま、今日も私を恵み、この一日の機会を十分に用いようとする願いを起こしてください。どうか、この願いを忘れることのないよう、勤勉な心をお与えください。


レスポンス

○いつもみことばに力づけられています。感謝いたします!!
○今朝もありがとうございます
○いつも「流れのほとり」をお送りくださり、ありがとうございます。
○流れのほとりを読ませていただいています。イースターの尊さを教えていただいて感謝します。
○4月1日の23時20分に無事に男子が産まれました。
    母子共に健康です。これからもよろしくお願いします。(中岡高博)


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