今日の聖句 2025年4月 nagarenohotori
聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。
4月30日水曜日
「 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
」テサロニケの信徒への手紙一 5:16, 17,18 新共同訳
人の行為の中には、自分の意志でコントロールできるものと、できないものがあります 。走るや
作るなどは、自分の意志で行うことはできますが、生まれるやつまずくは、自分の意思で行うことはできません。 喜ぶ ・祈る ・感謝するはどうでしょうか
? 自分の意志で コントロールできるでしょうか。 喜ぶためには喜びの原因 、つまり、私たちを喜ばせるものの存在が必要です 。自分の心を見失ってる時 、私たちは
祈ることができません。 心の中に まことの喜びがなければ、感謝することはできません 。
神様は私たちが自分の意思で喜んだり、
祈ったり、感謝したりすることができないことをご存じです。 神様が私たちはそのようにお造りになってからです 。 キリストの喜びが私たちの中にある時
、私たちはどんな状況の中にあっても喜ぶものとされる。私の名によって 祈れと言われた
キリストの祈りが、私たちと祈りとなる。男だけで5000人の人を前に2匹の魚と5つのパンを
感謝なさったリストの感謝が私たちの感謝となり、御心が行われるのです。
(祈り)
天の神様、 あなたの願いを 私たちの願いとさせてください。 互いを喜び、 互いのために祈り、 互いを感謝する キリストの心を私たちのなかにに満たしてください
。御心が天で行われるように、地でも行ってください 。そのために私たちのこの心と体を用いてください。 イエス・キリストの御名によって 祈ります
。
4月29日火曜日
「それゆえ、主は恵みを与えようとして あなたたちを待ち それゆえ、主は憐れみを与えようとして 立ち上がられる。 まことに、主は正義の神。 なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」イザヤ書
30:18 新共同訳
私たちはこれが最善だ、神様の御心に違いないと思うことがあっても、すぐに実現しない時があります。 私たちはその実現のために 、待たなければならないことがあるのです。
なぜ神様は私たちを持たせるのでしょうか。
聖書は、実は、神様が私たちを待っておられると言っています 。私たちが 待たされているようで、実は神様の方が私たちを待ってくださってるのだと
。最善が自分の方法ではなく、神様の方法で行うのを喜ぶ 謙遜な心が与えられる 、こんな私を待ってくださっている神様がおられます 。
(祈り)
天の神さま、私たちはあなたに寄らなければ何一つ良いことができません。 どうか、あなた教えに従い 、御心にかなうように生き、常に正しいことを思い
、また 行うことはできますように 。また、私たちの願いが叶えられるために、あなたに喜ばれることを求めていくことができるように、主イエス・キリストによって
お願いいたします。
4月28日月曜日
「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。」 創世記 3:23 新共同訳
罪を犯した人は楽園を追放され 農夫となりました 。土から作られた人が土を耕すものとなったのです 。自分の罪とその帰結を知るだけでなく 、その中で自分自身を耕し
、種をまき実りを得て行かなければならないのでした 。しかし 罪の中で苦しむからこそ、人は創造の業に参加するようになったのです 。そして人はそこに
神様の御手の業を見るようになっていきます 。土地を耕し、種をまいても、それを成長させてくださるのは神様である、豊かな実りを与えてくださるのは神様であることを人は知るのです
。イエス様は言われました 「わたしはまことのぶどうの木 、わたしの父は 農夫である 。」(ヨハネ15章1節 人は一人ではない 。自分を耕さなければならない
。私と共に、 この頑なな心を耕してくださるお方がいる。自分が一人では 掘り起こすことができない 心の中の大きな石 、これを一緒に取り除いてくださるお方がいる。今日もこの方の御手が私たち一人ひとりの中に伸ばされているのです
。
(祈り)
主イエスキリスト死人の内から よみがえらせられた平和の神さま、私たちを み旨に叶うものとし、み前に喜ばれる 全ての良い業を行わせてくださいますように。
また、日々 の生活のために働くことに励み、 私たちと共に その働きを担ってくださるキリストにより頼むことを喜ぶものにならせてください。
4月27日日曜日
「 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、
また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 」ペトロの手紙一 1:3-4 新共同訳
ここに、「新たに生まれ」るとありますが、私たちの肉体がこの世に誕生したときに、この世に対して生まれました。この地上で生活するために生まれましたが、では、新たに神によって生まれるときに、私たちは何に対して生まれるのでしょうか?それは、「生ける望み」に対してです。希望が与えられます。永遠のいのちの希望、神の国の到来の希望が与えられています。そしてそれは、単なる気休めのための希望ではなく、「生ける希望」です。生き生きとした希望です。かなえられるかどうか分からないというものではなく、確かなものです。心の中で想像したりした創作物ではなく、現実のものです。私たちが新たに生まれたのは、生き生きとした希望の中に満ち溢れるためです。どうして「生ける希望」なのかと言いますと、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられた」からです。
(祈り)
天の父なる神さま、キリストの復活によって私たちが新たにされ、生き生きとした望みが与えられることを心から感謝いたします。どうか、 私たちの 内なる
霊を強め、私たちの望みを確かなものにすることができるように導いてください。主 イエス・キリストの御名によって 祈ります。
4月26日土曜日
もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。
食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 テモテへの手紙一 6:6-8 新共同訳
テモテへの手紙には、「信心」という言葉がたくさん出てきています。「信心」というのは、他の訳では「敬虔」とも訳されており、神を畏れるうやうやしい態度とも言えますし、人間的に言えば「品行方性」でありましょう。けれども、単に品行方性なのではなく、主によって変えられた新しい歩みが、人々にも良い評判をもたらすところのふるまいです。
ですから、「信心」は、この世においては、まったく損する道であります。ビジネスの世界で不正をしても成功をするのが当たり前のところで、実直に働くことは愚かで、損をするように見えます。しかし、パウロはこれこそが、大きな利益を受ける道であると教えています。この言葉を心に焼き付ける必要があるでしょう。信心こそが、私たちが熱心に求めるべきことであり、信心こそが、私たちに大きな利益をもたらしてくれる、ということです。
(祈り)
天の父なる神さま、私たちを あなたの教えと勧めを喜ぶ者としてください。どうか、主にあって、満ちたりる 心と信心とを与え、 金銭から来る 誘惑と罠から私たちを守ってください。
そして 聖霊の力によって、私たちに信仰の戦いを立派に戦わせてください。主の名よって お願いいたします。
4月25日金曜日
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
ヨハネによる福音書 21:15 新共同訳
ペトロはどこまでもイエスさまについて行き 、イエスさまと一緒に死のうと思っていた人です 。しかし、 イエスさまが捕らえられると、ペトロは恐ろしさのあまり、三度もイエス様を否定してしまいます。
そして ニワトリが鳴きました。 しかし、 ニワトリの鳴き声はこの時で終わったわけではありません 。 ニワトリの声を聞くたびに 、ペトロは自分がイエスさまを否定したという事実に押しつぶされていきました。
復活したイエスさまがティベリア湖の岸辺に立たれた時も、 ニワトリの声が鳴り響く中で イエス様は ペトロにお尋ねになりました 。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
この後 、ニワトリの声を聞くために ペトロは「わたしを愛してるか、わたしの羊を牧せよ」「 わたしに従え」と言われた、イエスさまの言葉を思い起こすようになるのです。
自分の全てを否定する声が鳴り響く中で 、私たちに語りかけてくださる イエスさまがいます。 このイエスさまがどんな声にも勝って、わたしたちを立ち上がらせ、生かしていくのです。
(祈り)
恵み深い天の神さま、私たちを生かすために、キリストはよみがえってくださいました。何度も何度も、弱さや誘惑に引きずられて、キリストを否定する私ちを立ち直らせてくださる為に、声をかけて、私に迫ってくださるまことの愛を崇めます。どうか、この愛に応え、キリストを愛する者にならせてください。主イエスさまのお名前によって祈ります。
4月24日木曜日
そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」マルコによる福音書
7:37 新共同訳
イエスさまの行われた御業(癒し)対する、人々の評価は「この方のなさったことはすべて、すばらしい」というものでした。彼らは異邦人ですから、イエスがキリストであるとか、メシヤであるとかの認識はなかったでしょう。でも、そうした知識を持たない人が、客観的にイエスを見て、この方のなさることはみなすばらしい、と言ったのです。そして、耳の聞こえない人と、口の利けない人を分けて言っています。一つの障害が直るだけでもすごいのに、この方は二重の障害を一度に直された、と言って、非常に驚いているのです。イエスのなされる奇跡が、このようにスケールが大きくなっています。弟子たちの心はまだ堅く閉じていましたが、この一連の奇跡を見て、ようやく、イエスが神の子キリストであり、天と地を創造された神ご自身であることをはっきりと認めるようになります。
(祈り)
天の父なる神さま、素晴らしいお天気、美しい植物、美味しい食物、楽しいリズムを感謝します。しかしながら、それらを否定的に思う人々もたくさんのおります。どうか、私たちの信仰を研ぎ澄ませ、御子イエスさまが為された不思議な業を、見て驚き、触って喜びに、声を出して讃えることができるように導いてください。主イエスさまのお名前によって祈ります
4月23日水曜日
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
ヨハネによる福音書 20:27 新共同訳
トマスは、釘の跡を実際に見て、見るだけでなく自分の指をその穴に差し入れて、さらに、わきに自分の手を差し入れてみなければ信じない、と言っています。しかし、8日間、トマスは悲しみの中にいました。他の弟子たちは喜んでいたのに、彼は悲しんでいたのです。
トマスにとって、イエスさまはいない存在でしたが、イエスさま、その8日間、他の弟子たちとともにずっとおられたのです。ただ見えなかっただけです。これから、イエスさまはそのようなかたちで弟子たちの真ん中におられます。私たちにも同じです。私たちは、目には見えていないが、イエスさまがここにおられて、私たちの会話、行動、思いをみな知っておられることを知らなければいけません。この生きておられるイエスさまを知るときに、私たちは聖い生活へと導かれ、平安の道を手にすることができます。
(祈り)
天地の造り主なる神さま、 あなたの御子、イエスさまの復活の命は、意味を見出せない 仕事に、また先の見えない 平凡な日課を照らす、夜明けの太陽です。
今日の私の仕事がどのようであっても、あなたがそこにおられ、また、あなたの指示通りにするのだという気持ちで働くことができるように。そしてまだ見てない
前から 信ずる アブラハムのような信仰へと 、どうか、私を導いてください。
4月22日火曜日
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」ヨハネによる福音書
20:15 新共同訳
マグダラのマリアは、イエス様の遺体が墓の中にないのを見て取り乱します。 そして 、よみがえったイエス様を見ても、 それがイエス様だとわからず、墓の
管理人(園丁)だと思っています。「 私が、その方を 人 引き取ります」と。 引き取っても、 どうすることもできないのです。 自分でイエス様の遺体を動かすこともできないし、
安置できる場所もないのです。 しかし、「私がその方を 引き取ります」 と言った彼女の言葉は真実でした。 イエス様は、そのようなマグダラのマリアを大切にされ、復活した
ご自身を最初に表されたのです。 マグダラのマリアは以前、 七つの悪霊を イエス様に追い出していただいた人です。 イエス様なしには、自分の存在はない。
それほど 、イエス様にその存在が結びついていたのが マグダラのマリアでした。 そこから出る真実の愛の思い 、それは、 計画性 や 論理性を超えていました。
しかし、それがイエス様との関係の表れでもあったのです。イエス様に対する 溢れる想い、 それを イエス様はしっかり受け止めてくださっています。
(祈り)
天の父なる神さま、マリアは誰よりも早く、イエス様のお墓に行きました。誰よりも、イエス様を慕っていたからです。それでも、イエス様が復活されたと思ってはいませんでした。マリアは墓の中にいなくなったイエス様を、悲しみながら探します。そんなマリアに、イエス様は名前を呼んで声をかけてくださいました。イエス様への思いがイエス様を動かしています。神さま、どうか、私たちを愛し、教え、強めてくださるイエス様への想いを深めることができますように、また、私たちに復活されたことを現してくださるイエス様を見つめることができますように導いてください。
4月21日月曜日
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
ヨハネによる福音書 21:1-2 新共同訳
福音書の記者は復活したキリストが「ティベリアの湖畔」に立ったと述べています。 ティベリアとは当時のローマ皇帝ティベリウスにちなんでつけられた名です。
キリストを十字架刑にしたのはこのローマ皇帝ティベリウスの臣下であったピラト です。 まさにティベりウス湖畔とは、キリストを殺し、 彼に従った者たちを徹底的に叩き潰した
ローマ皇帝の支配を表わす名だったのです。 しかし 、復活したキリストは、 この ティベリアの湖畔に立ち 、ご自分を現されれます。 キリストは復活によって、ローマ皇帝の力
、悪魔の力を打ち破った 王の王、主の主、死の力を持って打ち破った全人類の王であることを明らかになさったのです。
(祈り)
憐れみ深い天の神さま、復活したキリストは、悪魔の支配のただ中に現れ、 悪魔の支配を 打ち砕き、絶望した者たちに信仰を与えて、ご自身と の愛の関係の中に招き入れてくださっています。私たちを
取り巻く状況は厳しく、 悪魔に支配されていると感じるような苦しさの中にあるかもしれません。 しかし 、復活したキリストが私たちの前にその姿を現し、私たちを励まし、強めてくださいます。どうか、復活のキリストのいのちに触れて、悪魔の働きに勝利する生活を気づかせてください。
4月20日イースター
中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 ルカによる福音書
24:3-6 新共同訳
イエスの弟子たちが非常に力強く 証しし、 いつも教えていたことはイエスの復活でした。イエスは死者の中から復活したと証しする時、 生きているイエスの御霊が彼らの中に働いたと聖書は言います。
イエスの復活は観念的なものではありません。 死を打ち破って蘇られた方は今もなお 私たちと出会い、 私たちを導き 、ご自身の業を行われるというのです。
神はイエスを死者の中から復活させたように、私たちを も復活させてくださるのです。イエスは言われました、「 私が生き、 あなたがたも生きる。」
(ヨハネ14-19)
(祈り)
天の父なる神さま、主イエスさまの復活された朝、イースターを迎えています。その朝、弟子たちもマリアたちも、イエスさまがよみがえられたと思うことも無く、墓に向かって歩いていました。しかし、今、私たちは、イエスさまがよみがえられたことを信じて、この朝を迎えてました。どうか、イエスさまの復活によって、私たちも復活のいのちに預かることを喜んで、主の復活、イースターを声高らかに宣べ伝えることを行う日にならせてください。尊い主の御名によって祈ります。
4月19日土曜日
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
マルコによる福音書 15:39 新共同訳
イエス・キリストの死刑を執行したのはローマ人の役人の 隊長でした。 彼はローマ総督の命令によって 、イエスを鞭打ちの拷問にかけ 、十字架に磔にしました。
刑を 執行され、地獄の苦しみを与えられるイエスを、最初からその死まで全てを見たのが 、この百人隊長だったのです。 彼は告白しました 。「この方は
誠に 神の子であった」と 。当時 ローマ帝国において神の子とは 、ローマ皇帝の別称でした 。ローマ皇帝を神の子と呼び、それを礼拝していたのが百人隊長だったのです。ですから
、百人隊長がイエスを神の子と認めるとは、このお方はローマ皇帝に勝るものであった。真の王、全世界の王であったと告白するということに他なりませんでした。
十字架のイエスを見上げ、 その死を見た時 、この方が 永遠の王であることがわかった 。イエス の 王 としての本質はまさにその死において現れた。光り輝いたというのです。
十字架はイエスを卑しめることはできなかった。死はイエスを屈服させることはできなかったと。
(祈り)
恵み深い天の神さま、御子イエスさまが十字架のうえで、磔の刑に処せられ、いのちを引き取られています。こうして、彼は預言の通り、私たちの王として、救い主として、働きをはじめています。それは、単なる精神的な、人の気持ちの中での王ではなく、イエスさまは、現実的に私たち人類を導く王となられるためでした。神さま、イエス・キリストの十字架が、私たちのためであり、人類のまことの王となられるためであったことを心にとめて、この日を過ごさせてください。あなたの大きな愛を感謝することができるように歩ませてください。主のお名前によって祈ります。
4月18日聖金曜日
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
ルカによる福音書 23:33-34 新共同訳
十字架に向かわれる イエス様のお姿は穀然とした勇敢な王のお姿でありました 。決して反論せず、自己弁護をなさいませんでした。 イエス様は十字架に釘付けにされる時
、祈っておられるました 。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と 。イエス様にとって、人を赦すとは、 命を捨てて愛することだったです
。自分を殺す者を愛し、彼らのために自分の命を捨てることだったのです 。この方が血を流し、 私たちはその命を与えられたのです。赦されたのです。
神の子とされたのです。 この方の命が愛が私たちを根本的に変え、人に対する態度も、思いも、人を赦さない 私たちが、赦す者へと変えられていくのです。
(祈り)
慈しみ深い 天の神さま、あなたは造られたすべての人を愛し、 罪人が死ぬことを望まれず、 主に立ち返って生きることを喜ばれます。 どうかあなたを信じない人々
、十字架にかけられたキリストへの信仰を拒む人々を御心に止め 、その気づかないでいることを悟らせ、 御言葉を軽んじる心と頑なな心とを除き、主イエス・キリストに従わせてください。私たちを救うために、甘んじて裏切られ、
罪人の手に渡され、十字架の死を遂げられた主イエス・キリストをによって お願いいたします 。アーメン。
4月17日洗足木曜日
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
ヨハネによる福音書 13:3-5 新共同訳
イエス様を信じるとは、イエス様との個人的な関係を与えられることです 。そしてその個人的な関係とは、自分の最も汚いところ、 日々 汚れてるところを洗っていただくことなのです。心の中の悪い思い、
自分を汚し、人を汚すものが人の中に、私の中にあります。 イエス様はそれを私が洗うとおっしゃっているのです 。さあ、その足を、その心を出しなさいと。ためらう思いがあります。
私の主、私の王が膝をついて、 私の足を洗ってくださる。とんでもないことです。 しかしイエスも言われました 「もし、私があなたを洗わなければ 、あなたは私と何の関係もなくなる」と
。イエス様は弟子たちの足をきれいに洗い 、手ぬぐいで 丁寧に 拭いてから、 十字架にかかって行かれました。
(祈り)
天の父なる神さま、御子イエスさまは弟子たちの足を洗って、汚れを除いてくださいました。それによって、弟子の一人ペトロは、あなたが、いかに自分を愛してくださっているのかを知って受け入れています。また、自分の足が汚れていることを認めています。神さま、どうか、イエスさまを通して、私たちにもあなたの愛が注がれていることを知ることができますように、また、私たちが罪によって、今、また、汚れているならば、イエスさまによってきれいに洗われることを求めて清くなることを行わせてください。
4月16日水曜日
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 」コリントの信徒への手紙一 15:52-53
新共同訳
終わりのラッパとは、イエスさまが天から空中に来られるときに吹き鳴らされるラッパです。私たちは一瞬のうちに、瞬きをしているうちに引き上げられます。私たちが神の国を相続するとき、私たちは神とともに永遠にいることになります。そのときに、神にふさわしいからだが必要になるのです。
スーツやドレスを着なければ入ることができない会場があります。これと同じです。神のみもとに行くときに、それにふわさしいからだを持っていなければいけないのです。朽ちないからだ、死なないからだを身につけなければいけません。
(祈り)
天の神さま、私たちに朽ちないいのちがあることを教え、それに至る道に導いてくださる恵みを感謝します。そのために、御子イエスさまを私たちと同じ人として遣わしてくださいました。人の目から見れば、イエスさまは、十字架の上で死なれ、朽ちています。しかし、3日目によみがえり、朽ちない、栄光のいのちを現してくださいました。どうか、イエスさまを信じ、仰ぐ私たちにも、栄光のいのちを身につけて、かの日には天に挙げられる者にならせてください。主イエスさまのお名前によってお願いいたします。
4月15日火曜日
「 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」
コリントの信徒への手紙一 1:20-21 新共同訳
パウロは、宣教のことばが愚かに聞こえることを認めています。しかし、そのような愚かであるはずの福音のことばによって、大ぜいの人々が救いにあずかっています。つまり、この世の知恵は、その愚かであるはずの宣教のことばよりももっと愚かで、むなしいことになるのです。神は、この世の知恵がいかにむなしいかを知らせようとして、あえて、キリストの十字架による救いをお定めになったのです。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたの恵みは私たちに対して少しも 欠けることがないことを覚えて感謝します。ともすれば、自分が受けている恵みよりも、もっと多くのものを手に入れたいと思って悩むことがあります。
どうか、あなたの御言葉によって足りなさにこだわる思いを捨て去り、弱く愚かで欠けの多いものに注がれているあなたの恵みを、数えて過ごすことができるように助けてください。また、見ることができない
あなたか、私たちの為に行ってくださることを、 信仰の目を持って 確かめて歩むものとならせてください。
4月14日月曜日
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、
一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
マタイによる福音書 26:6-7 新共同訳
(その二)
イエス・キリストが捕らえられる前夜 、ベタニア という 村のシモンという人の家で一人の女性が非常に高価なナルドのこういうの入った石膏のツボを割って、香油を全て
主イエスの頭に注ぎかけました。 ベタニアはエルサレム 郊外にあった最も貧しい村 しかもそこは当時 重い 皮膚病の人たちの居住地 だったと言われています。
しかしその村で溢れるようにナルドの香油が主イエスの頭に注がれました。 油注ぎ とは、王と大祭司を任職する 古代イスラエルの儀式です。
神が、 この女性を用いて 主イエスをイスラエルの全人類の王として、また永遠の大祭司として任職 なさったのです。 主イエスの戴冠式はこの貧しい村
、差別された人々 、世に捨てられた人々の住む村で行われているのです。
(祈り)
天の神さま、あなたの御旨を讃えて喜びます。あなたの御旨は、ふさわしいときに、ふさわしい人を用いて行われています。十字架の死を前にして、あなたは、御子イエスさまに油を注いで王として任職し、同時に墓に葬られる備えを行っています。どうか、私たちの王となられたこのイエスさまを称え、その教えに従うことを守られてください。
4月13日日曜日
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、
一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
マタイによる福音書 26:6-7 新共同訳
(その一)
イエス様は十字架にかかるために エルサレムに上られました。 その数日間 、昼間は エルサレムで活動 なされましたが、 夜は近くのベタニア という小さな村にある重い皮膚病の患者であった
シモンの客となり、そこにお泊まりでした 。重い皮膚病といえば 、当時のイスラエルでも 隔離と差別の対象となっていました。イエス様はその重い皮膚病にかかっていたシモンを癒され、その客となられました。
十字架を前にした苦しい 、困難を極めた時、 シモンの客となることが、イエス様の慰めだったのです 。シモンは病気になって人から差別され 否定されました。
しかし イエス様はそんな彼を求め、 彼の家の中で、安らぎを得られたのでした。
(祈り)
天の父なる神さま、今朝もイエスさまの御名を崇めます。イエスさまは、シモンの客となることによって、重い病を癒されています。どうか、人から否定され、孤独に泣く時、あるいは、自分の弱さと汚れに泣く時、
シモンの客となられた イエスさまを思い出すことができますように 。イエスさまが、私たちを求めてやって来られ、私たちを癒やして、共に過ごしてくださることを喜ぶことができますように。
十字架を負う為に、この世に来られたイエスさまの御名を讃え、感謝いたします。
4月12日土曜日
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。 『わたしは羊飼いを打つ。 すると、羊は散ってしまう』 と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
マルコによる福音書 14:27-28 新共同訳
イエス様は十字架にかけられる前夜、 弟子たちに「 あなたがたは つまずく」とおっしゃいました。それは(あなたがは自分の意思で私を見捨てるのではない。
わからなくなるのだ)と言っているのです 。ついていきたい、 信じたいと思っていても、わからなくなる時がある。 わからなくなってしまったら、自分の意思で信仰を回復させることができなくなります。
そんな 弟子たちに、イエス様は前もって言われました。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と。ガリラヤ とは 彼らが イエス様に出会った場所、
イエス様を知らずに生きていたところです。弟子たちは、つまずき倒れ、 神のいない生活に戻ろうとすると指摘されるのです。 しかし 復活されるイエス様は弟子たちより先にそこに行き
、彼らを待ってくださっています。 彼らのつまづきを赦すためにです 。弟子たちをまことの愛で満たすためにです。
(祈り)
主なる神さま、私たちには自分の意思で行うことができるものと、自分の意志では行うことができないものがあります 。つまずきは、自分の意思では 制御できない
もので、どんなに気をつけていても、 時には つまずくことがあります、つま ずいて、もう教会に行くのは止めよう、と思ってしまうこともあります。神さま、どうか、そのような、試みを受けることがあることを悟り、つまずいた先に、イエス様が、愛を注ぐために、私たちに近づいてくださることを覚えて過ごすことができますように導いてください。
4月11日金曜日
「 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。 何事も愛をもって行いなさい。」
コリントの信徒への手紙一 16:13-14 新共同訳
パウロは対立と混乱の中にあった コリント 教会の人々に励ましの言葉を送りました 。罪の中にまどろむことがないように、信仰に基づく生活を送るように
、雄々しく強くあれと。しかし 、雄々しくあること 、強くあることとは一体何でしょうか。 自分の思いを貫くことでしょうか 。他をねじ伏せることでしょうか
。コリントの教会が対立と混乱に陥ったのは ここが自分の正しさを主張したからです そこに悪魔が 付け込みました 。神様の御心以外に自分の意思を持たないこと。
神様と人に仕える 僕に徹すること。 まさに僕の謙遜にこそ雄々しさと強さの秘密があるのです。 それは 主イエスの生き方 そのものでした。 自分の思いを実現しようとせず、
ただ 父なる神様の御心を求め 、富と権力を求めず、 名も命も惜しまず、苦しむ者たちにお仕えになりました。 主イエスこそ雄々しい君、王の王、 主の主です。(雄々しくを他の訳で勇敢であると表現しています。)
(祈り)
天の父なる神さま、 主イエスさまは自ら 十字架にかかって、私たちの罪をその身に追われ 、悪魔の力を打ち砕かれています 。どうか、私たちもこの主イエス
を見上げて 生きることができるように、そして 深い罪の中から私たちが救い出され、勇気を持って力強く 生きる力が与えられるように導いてください
。イエスさまは言われました 、「私はすでに世に勝っている。」私たちもこの主の足跡に続く歩みがこできるようにしてください。主の御名によって祈ります。
4月10日木曜日
「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。 あなたの記録に それが載っているではありませんか。 あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」
詩編 56:9
イスラエルの王となったダビデは、まだ 羊飼い だった少年の時 、イスラエルを攻めてきた ペリシテ人の巨人 ゴリアテ に天地を造られた神の名よって立ち向かい、小石の一撃で打ち倒した
英雄です。 しかし、 嫉妬に狂う サウル王から 殺害予告を受け、 命からがら逃げ出し 恥辱とさすらいの日々を過ごさなければならなくなります 。彼は祈りました。主の革袋がいっぱいになるほどの涙を流したのがダビデ
でした。神の 前に出る時はありのままの心でいられる、神が共にいてくだされば 勇者として戦うこともできる、 苦しい時は苦しいということもできる、神の前で泣くこともできる。神が喜びを満たしてくださる時は歓喜に包まれます。神の臨在に触れる時 、硬く固まった
心がほぐれていく、 せき止められていた 涙が溢れ出る。その涙を全て受け止めてくださっている神がいる。 その一粒一粒の意味を知ってくださってるし、
覚えてくださってる神がおられるのです。
(祈り)
天の父なる神さま、私の涙を覚えてください。どの一粒も忘れないでください。私と共にいてください。私の心のすべてを知ってください。そして、あなたの喜びと力を、私に注いでください。尊い主のお名前によって祈ります。
4月9日水曜日
「 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
ヨハネによる福音書 16:22
神さまが私たちに与えようとしておられるのは満ち溢れる喜びです 。聖書の中には喜びという言葉が300回以上出てきます。 全てのものが神に向かって
喜びの声を上げる 、それが 聖書が私たちに教えている事です 。もちろん私たちのには、痛みも悲しみがあります。 その中で無理に喜べと言ってるのではありません。
私たちの痛み悲しみ苦しみのすべてを知り、 味わった上で なお 私の喜びを あなた方に与えると 、イエスさまはおっしゃっています。
(祈り)
天にいます 父なる神さま、私たちは人生において苦しまない、 楽な道を歩みたいと願うものであります。 しかし、 あなたはイエス様を通して、苦痛にはそれぞれ
目的があり、 その結果は永遠の喜びに至ると教えておられます。 神さま、どうか、 どんな困難にあってもそれを受け止めることができる力を与えてください。そして、
あなたとの喜びに溢れた命へと導いてください。私たちの歩みを真実な方向に向けて進んでいくことができるように助けてください。
4月8日火曜日
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ルカによる福音書 22:31-32
ユダに働きかけたサタンは、ペテロにも働きます。イエスは、愛をこめて、親しみをこめて、「シモン、シモン」と呼ばれました。そして、このシモンとういう名前は、生れたときに与えられたものです。これからペテロが陥るわなは、生まれながらもっていたシモンの性質によって引き起こされたものでした。つまり、ペテロは、勇気があり、冒険好きで、主の言われることに大胆に従った性格の持ち主でした。けれども、この大胆さによって、どんでもない失敗をしでかすのです。イエスが祈られています。ペテロが知らないところで、霊の戦いが繰り広げられていました。サタンの願いが聞き届けられていました。けれども、イエスがペテロに代わって祈っていてくださいました。ただ、イエスはペテロが失敗しないように、とは祈られていません。信仰がなくならないように、と祈られています。
(祈り)
天におられる父なる神さま、サタンの働きが私たちの信仰生活を脅かしています。いろんな罠を持って近寄り、甘い言葉を使って惑わしています。そんな私たちのために、主イエス様が、サタンの誘いに引き込まれないように、信仰の道を守って歩めるように祈ってくださっています。主よ、どうか、イエスさまの祈りが、私たちを守ってくださることを感謝し、私たちも、愛する者の信仰のために、執り成しの祈りを積む者にしてください。
4月7日月曜日
「 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」ヤコブの手紙 4:17
ヤコブは、自分のことばかり考えずに、他人の必要のことも覚えなさいという意味で、この言葉を書き記しました。
ヨハネの手紙第一にも同じような言葉があります。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」
(第一ヨハネ3:17) 私たちは生活のいろんな場面で見て見ぬふりをします。見てしまうと、何もしない自分のことを心が咎めるので、見ようとしないのです。このようにすべきことを知りながら何もしないのは罪だとヤコブはずばりと指摘します。
(祈り)
天の神さま、私たちの歩みの一歩 一歩 見守ってくださるお方がおられること、私たちが眠る時、十分な休みを得られるようにその時を見守ってくださることを感謝します。
主イエス様は私たちが歩む道を知っておられ、そして私たちと共に その道を歩んでくださいます。 私たちが歩けなくなる 時には背負ってくださいます。
どうか、このイエス様と共に歩む 恵みを今日も確かに悟ることができるように導いてください。 そして、私たちのなすべきことを私たちが行うことができるように
、罪を犯すことがない生き方へ導いてください。主イエス・キリストのお名前によって 祈ります。
4月6日日曜日
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 そして言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
マタイによる福音書 21:12-14
イエス様は十字架にかかるために 、エルサレムに入場 されましたが、 それは真の礼拝を回復する王としての入場でありました 。私たちを 真の礼拝から遠ざけているものがあります。
罪があります。 形骸化した 信仰があります。 勝手な取り決めや 思い込みがあります。 人の悪意があります。 しかし 、イエス様はそれら全てを取り払うために、人を根底から
癒し、 神の子としての真の礼拝を捧げることができるものにするために、 エルサレムに入り 、自ら 十字架におかかりになるのです。 イエス様は柔和な謙遜な王でした
。しかし、 愛する者たちが神様の祝福から疎外され、 差別され 、罪に縛られているのを見て、激しく行動 なさる方でした。 このイ
エス様の暖かくも激しい愛がイエス様を十字架に駆り立て、私たちを 癒し 私たちを救うのです。
(祈り)
愛する天の神さま、イエスさまを私たちの王として、遣わしてくださった、あなたのみこころを讃えます。彼が、私たちの礼拝を、あるべき姿に戻してくださっています。神さま、どうか、イエスさまが回復してくださった真の礼拝を守って捧げることができますように、そのために私たちに向けてくださった愛を、礼拝を守ることが妨げられている人々に注ぐことができますように導いてください。
4月5日土曜日
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
ローマの信徒への手紙 12:3
神は、私たちがキリストを信じたときに、それぞれに信仰を与えられました。私たちは自分でキリストを信じているのですが、同時に、神がその信仰を分け与えてくださった、と言えるのです。
私たちは、あの人には、すばらしい賛美の賜物がある。あの人は、いやしの賜物を持っている。あの人は、すばらしいメッセージをするなど、クリスチャンが神に仕えているというよりも、その賜物を持ち上げてしまことがあります。そこでパウロは、「自分を過大に評価してはなりません。」と言っています。あなたは、何も特別なことをしていないでしょう。神に与えられた信仰に応じて、神にお仕えしているにしか過ぎないでしょう。単純に、その賜物を用いなさい。それを特別に扱ってはいけません、とパウロはここで戒めているのです。
(祈り)
天の父なる神さま、 美しい桜が私たちを和ましてくれています 。この桜を見ていると 、咲き始める時も、盛りの時も、そして散りゆく時も 、どの時にも神さまが桜を守ってくださっていることに気づきます。多くの人は花が咲く時だけ
桜を見に行きます。 しかし、神さまはいつも見守り、 命を与え続け 支えて、その時その時に 桜に対する神さまの愛を見ることができます 。天の神さま、私たちも人から
賞賛される時があり 、忘れられる時もあり、 枯れたようになる時もあるかもしれません。 しかし 、あなたが私たちを忘れず その時その時、私たちに注がれる
愛と命があることを覚えます。 どうか 、全ての時を その御手の中に委ねて 、神さまが 祝福して
くださる人生を歩むことができるように、私たちを導いてください。
4月4日金曜日
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義 からわたしたちを清めてくださいます。 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。 ヨハネの手紙一
1:9-10
神との交わりを阻むものは「罪」ですが、罪について、私たちが陥りやすい過ちについてヨハネは説明しています。それは「罪はない」と思うことです。イエスを信じて、罪は取り除かれたのだから、私には罪、はないと思うことです。これは、間違っています。私たちは、立場的にはキリストにあって正しい者とみなされましたが、罪の性質は持ったままです。
罪がないと言えばそれは偽りですが、罪を言い表せば、それは真実なことです。「言い表す」あるいは「告白」するという言葉は、しばしば誤って用いられています。この意味は、ただ口に出すということではなく、神が自分を見ておられるとおりに、自分を見るという意味です。神が、嘘を憎んでおられるのなら、自分も嘘を憎みます。「罪を言い表したら、それで赦されるんだろう。」という安易なものではありません。「これは罪です。だからこれからも、これをあなたが見ておられるように、自分も憎みます。」という立場の表明をします。
そして福音は、その罪が赦されるだけでなく、すべての悪からきよめられる、ということです。私たちがどんなにがんばっても、完璧になることはできません。自分が罪を言い表しても、他に気づいていない罪があるかもしれません。しかし、それによって神から疎外されることはないのです。神は、私たちが気づいていない、知らない罪や汚れをもすべてきよめて、そうして交わりを回復してくださるのです。
(祈り)
憐れみ深い天の神さま、あなたから離れて、自分の思いのままに生きていた私たちに愛と憐れみを注いで、あなたのもとに引き戻してくださいました。感謝します。あなたの恵みのなかを歩むことができるからです。にもかかわらず、私たちはあなたの教えに聞き従わず、罪を犯すしてしまいます。また、知らず知らずのうちに罪に親しんでおることもあります。神さま、弱い私たちを顧みてください。罪に気づいたときには、告白する勇気を与えて、あなたの交わりに戻さてください。主の御名によって祈ります。
4月3日木曜日
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 マルコによる福音書 4:39
新しい朝がやってきました。 人生は船で航海をするようなものです 。順調に動いている時もありますが、 嵐になることもあります。私たちは必死に船を漕ぎ続け、船が沈む
ことを防ごうとします。 そんな時、 私たちの船にイエス様が乗っておられることを思い出しましょう。 彼は、恐れる 私たちを叱り、 勇気を与えてくださいます。
忘れないでください。神様があなたに与えられた 働きを、あなたが成し遂げるまで あなたの船は決して沈むことがないことを。 イエス様が乗っている私たちの船は決して沈むことがないのです。
(祈り)
天の神さま、今日まで守られて、新しい船出のときを、喜びながら、迎えています。どうか、共に船出してくださる御子イエスさまの存在を覚えて過ごすことができますように。どんなことが起きても、うろたえることなく、恐れることなく、あなたがイエスさまとともにいる私たちを守ってくださると信じて、成すべき務めを果たさせてください。
4月2日水曜日
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
」ヨハネによる福音書 12:24-25
ベツサイダは、異邦人が多くいる地域です。異邦人がイエスのところに来ることは、とても勇気のいることでした。そこで、異邦人のことをよく理解してくれるかもしれないフィリポに、お願いしたのです。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポとは行って、イエスに話しをしたのです。
すると、イエスは彼らに答えました。それが24節です。 イエスは、ご自分への関心が、ユダヤ人だけではなくギリシヤ人にも及んだことを知って、神の栄光の時が来たことを知ったのです。 けれども、本当の栄光は、キリストが死なれてからでないと現れません。イエスが死ななければ、救いが異邦人に及ばないからです。そこで、イエスは、死んでしまう一粒の種の話をされているのです。イエスが死ななければ、イエスご自身は生きるが、他の人々はみな滅んでしまう。けれども、イエスが死ねば、多くの人が救いを受けるということです。ですから、ギリシヤ人がイエスのところに来たとき、この十字架によって、あなたがたは救いにあずかることができるのだよ、と言っているのです。
(祈り)
天にいます私たちの神さま、あなたの独り子イエスさまの存在をほめたたえます。彼は多くの人の救いのために自らを犠牲にしました。この一人の死によって、すべての国の人が滅びないでいのちを得る道が開かれています。神さま、どうか、救われる者が一人でも多く現れますように、特に私たちの家族が救いの恵みに預かることができますように、また、大きな地震によって被害を受けた方々に、あなたの慰めと励ましが与えられますように、尊い主イエスのお名前によって祈ります。
4月1日火曜日
「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
」 コリントの信徒への手紙二 9:10
ここでパウロは、与えることに伴う霊的側面について話しています。与えることによって物質的に与えられるだけなく、霊的祝福をもたらすと。
イエスさまは、「天に宝をたくわえなさい。」と言われましたが、分け与えることによって、人は義の実をまし加えることになるのです。
そして、分け与えることは神への感謝を生み出します。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、満ちあふれるようになるからです。 コリントの人たちがささげることによって、パウロを初めとする教会の使者たちに、神への感謝が心に芽生えます。この感謝が、物質的な金銭にもまして、尊い霊的財産となったのです。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたは、日々の糧を備え、私たちに生きる力を与えておられます。なんと感謝なことでしょう。どうか、この気持ちを持って、私たちを分け与える者にならせてください。御子イエスさまは「受けるより与える方が幸いであると」と教えておられます。主よ、与えることを通して、あなたの祝福に預かることをかなえてください。主のお名前によって祈ります。
3月31日月曜日
「ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。 花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。 この里にも山鳩の声が聞こえる。 いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
恋人よ、美しいひとよ さあ、立って出ておいで。」 雅歌 2:11-13
桜の季節がやってきました 。冬の寒さを通り 、春になって花咲くこの木を見ながら、私たちは神様の恵みを思うことができます 。人が 顧みることもない
冬枯れの時も、 この中に 命を注ぎ続けてくださる 神様がおられました 。今 暖かくなって、その命の喜びが満ち溢れているのです。私たちにも、人生の冬とも言うべき時があります。
人に忘れられていると思うような時 、神様は人の知らない方法で、その中に 命を注ぎ、 喜びの備えをしてくださっているのです。 そして時が来ると
、呼びかけてくださいます。「恋人よ、美しい人よ さあ、立って出ておいで」と。 神様が悲しみの時を終わらせ 喜びの時を作られるのです。
(祈り)
命の源 なる 天の神様、 人生の冬を乗り越えて、私たちに共に喜ぶ時を備えてくださる恵みを讃えます。あなたはイエス様を私たちのところに遣わし、
十字架の苦しみに合わせておられます。 しかし、 イエス様は死の淵から起き上がって、私たちのところにその姿を現してくださいました。 死者の中から
イエス様を呼び起こされた あなたが、私たちをも呼んでくださいます 。どうか、 神様の造られた世界で美しく 花を実らせることができるように、私たちの歩みを今日も豊かに導いてください。主イエス様の名前によって
お祈りいたします。
今日の聖句2025年2月度
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