今日の聖句  2025年5月    nagarenohotori      

      聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。


6月1日日曜日
  彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。ヤ書 53:5

 この預言はキリスト生まれる七百年も前に告げられたものですから、十字架を見て預言したわけではありません。しかし、さながら十字架のもとにたたずんで、十字架を見た人が語ったような描写です。これはイエスさまが十字架で刺し通され、砕かれたということを見事に表しているからです。
 その苦しみはいったい何のためだったのでしょうか。キリストはなぜ十字架で死ななければならなかったのでしょうか?それは「私たちのため」です。それは私たちの罪のため、私たちの咎のためだったのです。「私たちのために」ということは「私たちの代わりに」ということでもあります。彼が刺し通され、砕かれたのは、彼がそれほどの苦しみを受けられたのは、私たちの身代わりのためだったのです。彼への懲らしめによって、私たちはいやされ、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです。

(祈り)
主なる神さま、キリストの受けた傷によって癒やされた私たちが健やかに過ごせますように。
キリストが受けた苦しみによって、私たちに与えられた平和を保ち続けることができますように、主の御名によって祈ります。

5月31日土曜日
 この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。  善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。  真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。テモテへの手紙一 6:17-19

 すでに金持ちになっている人たちに対して、パウロはテモテに教えています。一つは「高慢にないように」です。お金を持っていると、人を高ぶらせます。次に、「不確かな富に望みを置かないように」です。富が与えるものは、安心感です。自分の生活に安定感を与えてくれますが、しかしそれは偽の安定感です。主が与え、主が取り去ります。まことの安心感は、主ご自身から来るものであり、主が備えてくださるという信仰から来るものだからです。

(祈り)
父なる神さま、この世の富に頼らず、まことの豊かさを備えてくださる神さまに望みを置けるように助けてください。ともすると、目先の富の力に頼り、高ぶる誘惑に陥りやすい私たちをいさめ、いのちを守ってくださる神さまの教えに感謝することができるように助け、導いてください。

5月30日金曜日
「 使徒たちを呼び入れてかか鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、  毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」
使徒言行録 5:40-42

 ここを注意して読んでください、辱めを受けたことを「悲しんだ」とは書いていません。そうではなく、「辱めを受けるほどの者にされたことを」喜んだとあります。彼らは、イエスの御名のゆえにはずかしめられること、迫害されることをむしろ期待していたのです。
 このような信仰が与えられたら、私たちはほんとうに幸せであると思います。私たちは、たとえ、見た目には調子が良くて、問題もなく、何となくクリスチャンとしてもきちんと生活していたとしても、魂の奥底では決して満足していません。なぜなら、主イエスの血によって贖われた霊は、キリストのみこころを行なうことをもっとも大きな喜びとしているからです。そしてみこころを行なうことに伴なう苦しみや迫害があると、自分は主の御心の中に生きているのだ、ということが分かり魂が喜ぶからです。

(祈り)
天の神さま、主イエス・キリストのみこころを行わせてください。そのために、居りを見て、福音を語る者にならせてください。たとえ、そのことによって、私たちが辱めを受けても悲しむことがないようにお導きください。御名によって祈ります。

5月29日木曜日
「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。 」ルカによる福音書 11:19-20

イエスの行われた奇蹟は、普通に考えれば、神からのものであることは明らかでした。しかし、それを認めたくない人、イエスが神から来られた方であることを信じたくない人は、2種類の言い訳をしています。一つは、この現象を、悪霊のかしらによるものと説明したことです。 もう一つは、もっと証拠がほしい、そうすれば信じるからという、「天からのしるし」を求める人もいました。いずれも、不合理で非論理的であるのです。
 そうではなく、イエスがなされていることは、神の御力の現れに他ならないことでした。イエスがおしの悪霊を追い出されると、おしであった人が話しだしたのです。神の力はこのように、イエスを通して現されています。

(祈り)
天の神さま、イエスさまを通して神の国を見ることができています。どうか、神の国の栄光と力が、私たちにも現されますように。ことに悪霊にとりつかれて、言葉を話すことができない人がいるならば、主の恵みの言葉を語ることができるように、悪霊から自由にしてください。主のお名前によって祈ります。

5月28日水曜日
 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。 ヘブライ人への手紙 12:14

 信仰のレースにおいて邪魔になるもの、重荷になるものは捨てなければなりませんが、逆に良いものは取り入れなければなりません。ここにはその取り入れるべき二つの良いものが取り上げられています。それはすべての人と平和を保つこと、そして聖められるということです。
 まず、すべての人との平和を追い求めなさいとあります。一部の人とか気の合う人とだけでなく、すべての人との平和を求めなければなりません。信仰生活において疲れ果ててしまう大きな原因の一つに、人間関係がうまくいっていないことがあります。ですから、すべての人と平和であることは大切なことで、それを追い求めるようにと勧められているのです。
 「聖なる生活を追い求めなさい」というのは、聖なる神とかかわった私たちが、そのかかわりにふさわしく生きることを意味しているのです。それを別な言葉で表現するなら、「聖別」ということばで表わされます。それは神の聖にならった倫理的生活のことで、きよい生活、この世にありながら、この世のものではない生き方、神のみことばに従った生活を意味しています。

(祈り)
主イエス・キリストの父 、全能の神さま、今日、私が平和を追い求めることができるように力を与えてください 。また、私に害を加えたものを 祝福できるようにしてください。私を動物的な感情の支配 から引き上げ 、あなたの愛と喜びと平和の光によって、きよい行いができるようにしてください。


5月27日火曜日 
 わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。 神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。 コリントの信徒への手紙二 1:9-10

 自分が死を覚悟したとき、自分はもはやどうしようもできないと認めたとき、そのときに神が私たちを助けてくださいます。私たちが窮地に立たされたときに、神が働いてくださるのです。イエスさまがこう言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(マルコ8:35)」自分を生かそうと思うのではなく、自分を死なせることによって、神が代わりに生きてくださるのです。私たちは苦しみの中にいると、次第に自分自身の力に拠り頼まなくなります。もう自分は無力であることに気づきはじめます。けれども、私たちは、どうしても自分で自分を救い出そうとします。しかし力尽きて、「自分はもうこのままでよい。自分がどうなろうとどうでもよい。」と決意します。その自分への死の決意をすることができると、主がそこで救い出してくださいます。そして、パウロは、この自分の経験から、次のような神の働きに確信を持つことができるようになります。「いつ何時も、神は自分を救い出してくださる」、という確信です。この確信を、バウロは苦しみを通ることによって抱くことができたのです。

(祈り)
愛する天の神さま、この一日のいのちをお守りください。 私の全ての力を正しく導いてください 。私の手に、あなたに仕える業を与えてください。 試みの中にある時も、あなたが助けてくださることを信じて歩ませてください。

5月26日月曜日
 神をたたえよ。 神はわたしの祈りを退けることなく 慈しみを拒まれませんでした。詩編 66:20

  詩篇66篇は、全地に対して神への賛美と感謝を呼びかける詩です。神の偉大さと、神の民を試練の中で試され、助けられた神の愛を讃美しています。この詩は、神の民が苦しみの中で神に頼り、神がその祈りに耳を傾け、助けてくださったことを感謝していることを伝えています。
 神のすばらしさは、いつも、私たち人間の罪の現実に対して、恵みをもってかかわってくださることです。このかかわりの感動こそ神への賛美にいのちと輝きを与えるものです

(祈り)
  愛する天の神さま、あなたに感謝します。あなたは私に慈しみを注いでくださったからです。どうか、あなたの愛から離れることがないようにお守りください。

5月25日日曜日
  わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、  あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。  信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。 ヤコブの手紙 2:14-17

 このヤコブの言葉で大事なのは、「自分には信仰を持っている」と言うの「言う」です。「私は神を信じています」と言うことと、実際にその人に信仰があるかどうかは、別問題なのです。 私たちが信仰を持っているのは、良い行ないをするためです。パウロはエペソ人への手紙の中で、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。(2:8)」と言った後に、「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです(2:10)」と言っています。私たちは、行ないによって救われるのではありませんが、行ないのために救われます。良い行ないをするために、救いにあずかります。
  自分がどれだけ、信仰があるのかを知りたければ、自分の行ないを見ることがその方法です。自分が行なっていることを、どれだけ見せることができるでしょうか?その行なっていることが、すなわち自分の信仰の現われです。私たちは本当に信じていることを、行なっています。「信じている」と言っているものは、聖書の中では信仰であると、みなされないのです。

(祈り)
天の父なる神さま、口先だけの信仰ではなく、信じていることを行う者にならせてください。キリストが、私たちのために十字架に掛かって愛を表してくださったように、私たちも神の愛を、信仰を持って現すことを行わせてください。この願いを主イエスさまのお名前によって祈ります。

5月24日土曜日
 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」    
 イエスは答えて言われた「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」ヨハネによる福音書 1:49-51

 イエスは、ナタナエルに。イエスが神の子であることを証明する、もっと大きな不思議や奇蹟を見ることになると言われました。神の御使いたちが昇り降りする話は、ユダヤ人によく知られていました。それは、イサクの子ヤコブが見た夢であります。(創世記28章)
 そして、イエスは、「人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」と言われました。つまり、イエスは、「わたしがこのはしごである。」とおっしゃっているのです。天と地をつなぐのは、わたしである、とおっしゃっているのです。無限の神と、有限の人間の間にはあまりも大きな溝があります。人間はとうてい、神に到達することはできません。けれども、神は人となってくださり、私たちの間に住まわれました。いまやイエスによって、神に大胆に近づくことができるのです。

(祈り)
天の父なる神さま、偏見で真実を見落とすことがないように、真理の言葉を与えてください。どうか、私が主イエスに知られ、尊いみ旨のために、変えられて、生きる者にならせてください。

5月23日金曜日
 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、  宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。  すると皆、次々に断った。
 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 ルカによる福音書 14:16-18, 21

 イエスが催される宴会は、非常に盛大であり、大ぜいの人が招かれています。つまり、開かれた交わりです。いろいろな人が集う、裾野の広い交わりです。そして、その主催者はイエスご自身であり、ひとりひとりがキリストを仰ぎ見ることによってつながっています。だから、互いに違うところはあるでしょうが、互いに受け入れ合うことができるのです。
 ところが、パリサイ人たちは、盛大な宴会は嫌です。大きく開かれた交わりは好みません。自分の世界の中で生きたいのです。それで、このような盛大な宴会を拒みました。主人の願いは、とにかく盛大な宴会でした。自分の喜びをともにしてくれる人を求めておられました。そこで、主人の招きは、弱った人にまで及びます。

(祈り)
恵み深い天の神さま、イエスさまが開かれる宴席に招かれる者になりますように。その席で、私たちがイエスさまの愛と喜びを受け継げるようにしてください。主の御名によって祈ります。

5月22日木曜日 
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。」 エレミヤ書 29:11-12

「前」という言葉があります。 進んでいく方向を「前」 、 過ぎ去ったところを「後ろ」 と呼びます 。「前」は希望、 明るさ、 積極性を感じさせます が、「後ろ」には何となく暗く 、消極的なイメージがつきまどっています。
 ところが 、この「前」という言葉 、そんなに一筋縄で理解できるものではないようです。 「10年前」と言うと、 過ぎ去った過去 ですし 、「100年前」と言うと 、もっと昔になってしまいます 。進んでいく方向が「前」なのに、過去を前というとは、一体どういうことなのでしょう。
 「 前」のまは、 まぶた、 まなこ 、まばたき 、まつ毛の「ま」、 つまり 「目」を意味します。 そして「え(へ)」は、  海辺、 川辺、山辺 の「辺(へ)」で、方向や場所を表すと言われます。 つまり「前」とは 、目の見える方向という意味なのです 。
 私たちは時間と空間の中に生きていますが 、空間では目の見える、 進んでいく方向が「前」となり、時間は過ぎ去った時しか見えませんから、 過去が「前」となるわけです 。
 私たちは、時間を後ろ向きに進んでいるのです。 私たちは 現在の問題を過去の失敗や出来事に結びつけ、 そこに 原因を見出そうとするのは、私たちの 認識能力がそのように制限されているからです。ですから 人は、過去に縛られる 、諦めたり、 絶望したりします。
  しかし 、イエス様は言われます。「 さあ、未来を見よう。 この問題を未来に結びつけることができるお方がいる。 その未来とは、 神の数々の業、愛の業、慈しみの業が一人一人の中に現される未来だ 。」(ヨハネ福音書9章参照)     
 イエス様が私たちを 問題のただ中にやって来てくださる。未来を造る方が、現在の私たちの問題に新たな意味と解決を与えてくださるのです。諦めてはなりません 。絶望してはなりません。

(祈り)
造り主なる神さま、どうか、今日、あなたの造られた世界を喜ぶ心を私に与えてください。あなたが注いでくださったいのちの力を、私の内に奮い立たせ、用意された希望に向かって歩ませてください。

5月21日水曜日
「 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。 繁栄の道を行く者や 悪だくみをする者のことでいら立つな。」  詩編 37:7 新

私たちには これが最善だと思うことがあります。 しかし私が思う最善と、あの人が思う最善の間には多くの場合 、ずれや 対立があります 。そんな時、 私たちは自分の思う最善を押し通そうとするのではなく、神様の前に静まる必要があります 。神様は神様 の最善 、真の最善を用意しておられるからです。 それを信じて、 神様を待つのです。神様は私たちには見えないところで働いておられます。
  私が思う最善など、 色あせて見えるときが来るにちがいありません。ひょっとしたら、自分の思いを押し通そうとすることが 神様の最善を阻んでいるのではないでしょうか。
  そんな私を神様は赦し、 私が神様の行方に耳を傾けるようになるまで待っておられます。神様の前に静まるとき、ざわめき 立っていた心の波が沈められていく。 そして気がつくのです。 神様が私を待ってくださっていたことを。今も待ってくださっていることを。 

(祈り)
天の神さま、今日も、あなたの存在を身近に感じることができますように。私の思いではなく、あなたのご計画に耳を傾けることができますように。あなたの心があらわされますよう、主イエスさまのお名前によって祈ります。


5月20日火曜日
「 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」 エフェソの信徒への手紙 5:8

 私たちは人から 賞賛される時、 経済的に豊かな時 、自分の思い通りにことが進むとき、高価な衣装で身を包む時、 自分が輝いているように感じます。 しかし、そのような輝きは、揺れ動く 一時的な輝きであり 、永続的なものではありません 。私たちは、それらが いつか失われるのではないか、と不安を感じながら生きています 。
 聖書は言います 。私たちの存在を根底から照らす 真の光があると。 たとえ、 人から否定されることがあっても、自分の理想とする 自分でないとしても 、永遠の光に照らされる時 、すべてが変わる 。この光に照らされ 、私たちの中の本当の自分が輝き出す 。周囲の状況と自分の状態に左右されない輝きが与えられる。 周囲をも照らす 神の子とされるのです 。
 聖書は言います。 暗闇 そのものであった 私さえ、 イエス様に出会い 、世の光に されたのだと 。私の暗闇の中に イエス様が住んでくださった。 私の悲しみを イエス様が背負ってくださった。 イエス様が私の手を取ってくださり、 イエス様と共に歩いていくことができる のです。

(祈り)
天の神さま、今日また、罪と悲しみを一つ 、イエス様に預けることはできますように。そして、光の子とされた自分を生きることができますように。主の御名によって祈ります。

5月19日月曜
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」創世記 28:15

 人生の道を歩む 私たちは、 右に行こうか、 左に行こうかと悩むことがあります。 特に、今いるところに苦しみがある時 、思い切って そこを出たいとも思うけれども、 行く先には さらに大きな試練が待ち受けているかもしれない 。右か左か、 出るべきか 止まるべきか、 私たちの心は不安と恐れで満たされてしまいます。
  しかし、 そんな私たちのところにやってきて、 語りかけてくださる神がいます。「わたし があなたと共にいる」と。私たちは自分がいる環境が私たちに祝福を与えると思いがちです。 しかし、私たちに祝福を与えるのは場所ではありません、 組織ではありません。 私たちと共にいて、私たちを決して見捨てることはない神が私たちを祝福してくださるです。    何もないように見える 荒野に 道を作り 、人の通うところとする神がいる。 砂漠に雨降らせ、 そこに水のあるところとなさる神がいる。あなたがいるところが 祝福の場となる。神があなたと共におられるか です。

(祈り)
主なる神さま、今日も生きることができるのはあなたの賜物です 。どうか、この命を正しく用いる精神をお与えください。今日、み霊が 私の心に清らかな 高い 願望を受け入れてくださいますように 。あなたの真理を持って教えてください。 私の内にキリストの形をならせ、キリストに倣って心を低くして過ごすことができますように、私たちと共にいてくださるあなたに仕える者にならせてください。
 
5月18日日曜日
 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 ヨハネによる福音書 8:31-32

 キリストは言われました「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」  (マルコ11・24)と。 しかし、この言葉 ほど クリスチャンたちを 当惑させるものはないかもしれません。 祈ってるのに実現しないのは信じる力が弱いからではないか、と思うからです。
  私たちは 問題の中でその解決を祈るとき、どうしてもその問題に 心の目を向けてしまう 傾向があるようです。 祈りながらも、心が問題に縛られてしまっているのです。 私たちにとって大切なのは、私たちと心は問題の奴隷ではない、ということをしっかりと知ることです。 どんなに問題が大きくても、キリストは私たちの心の中に自由な世界を作ってくださる。その自由な世界で、 私たちは神様が、あの人この人 、そして私とために備えておられる最善の姿、 神の子の尊厳に満ちた姿を思い浮かべることができます 。私たちはそれを心の目で見ながら、 神様「 こうしてください」と祈ることができるのです 。
 問題の中にあっても、キリストと向き合う 自由な世界の中で 、私たちは キリストの御心を深く理解し、 神の国と神の義を第一に求めるものと変えられていくのでしょう。 キリストは この自由な世界から、私たちの問題に光を照らし、解決 を与えてくださるのです。

(祈り)
天の神さま、新しい朝を迎える恵みを感謝致します。今日も、あなたの教えに従い、自由な喜びに預からせてください。また、私に与えられる 祝福を数えることを教えてください。 過去を導いてきてくださったお方が、未来をも、私を守ってくださると、確信をもって過ごさせてください 。尊い主のお名前によって 祈ります。

5月17日土曜日
  陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。 そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」エレミヤ書 18:4-6

 神は人を土のちりで造られました 。 神が私たちをご自身の形に造られ 、ご自身の命の息をこの中に吹き込まれました。 神の姿を宿すもの、 神の霊によって生きるもの、 それが人です 。
 しかし、 人は神が与えられた霊よりも、自分の思いを大切にしました。 自分の思いの実現が最大 関心事で、物事のよし悪しを自分の都合に合わせて決めようとする罪を犯し続けているのです。 自分の思い通りにならない人に対する怒りと争いは ここから生じました。 また、 野放し 図な 欲望により、人は自分と隣人を汚しますが、 それでもなお 自分を正しいと言い張るのです 。人生の苦しみと絶望はここから来ると聖書は言います。
  しかし、 粘土は火を入れなければ、 まだ 形を変えることができます。 神は、私たちを 聖い器に造り替えることができる。 こんな粘土であっても、まだ神はそれを御手の中に 握り続けてくださっている。 そこに、私たちの希望があります。 人生の苦しみは、苦しみのために与えられるのではありません。 私たちが神の手の中にある粘土であることを思い出すため、 自分の思いと自分の正しさから離れ、 神の御手の中に自分の全てをお任せすることの 祝福を知るためなのです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなた ご自身の形に私を造ってくださったことを思い出させてください。 そして、 私があなたに真実であるようにさせてください。神さま、あなたは私を造られました 。ですから、 私はあなたのものです。 あなたは私を贖われました。 ですから 、私はあなたのものです。それゆえ、 私は借りている命をあなたにお返しできるようにさせてください 。どうか、あなたの御心を行わせてください。 全てのことで私があなたに造られたことを喜ぶことができるようにしてください。

5月16日金曜日
 このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
ヘブライ人への手紙 12:2

「信仰」という言葉を辞書で引くと、「経験や知識を超えた存在を信頼し 自分を委ねる 自覚的態度」(大辞林) という説明が出てきます。 しかし、人間の主体性に基盤がある 信仰は、人の状態とともに揺れ動きます。 信じてるのか、 信じていないのか、自分でもわからなくなることがあるからです。
 聖書は言います 。「信仰とはイエス・キリスト ご自身が造り、 完成したものである」と。 すなわち、 全人類の(私の、あなたの、そしてあの人の罪を贖う 十字架の苦しみによって造られ。復活によって完成したキリストの救いの業、 そのものを信仰と呼ぶのだと。人が自分で 信じてることを信仰というのではありません。 私自身が自分の信仰を完成するのでもありません。 もう既にキリストが完成なさった信仰がある。私たちの状態がどのようなものであっても、 私たちのために完成された信仰がある 。ここに私たちの希望があります。

(祈り)
天の父なる神さま、私にいのちを与え、生かしてくださることを感謝します。しかし、人生は過酷なもので、重荷を背負って歩むこともあります。病にかかっつて、前に進めないこともあります。そんな私たちを、キリストが背負って、共に歩んでくださるのです。どうか、私たちに、キリストの歩みを見つめこと、キリストの完成された信仰に目を向けることを行わせてください。

5月15日木曜
「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず  命の道を教えてくださいます。 わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。」詩編 16:10-11

 キリストの呼びかけは、私たちを それまでとは全く異なった世界に移し替えます。 これまでは、自分は尊いか、 自分は汚れているか、自分は人の目にどう映るか、 自分は自分の理想とする自分であるか、と思いながら生きていました。この目は自分に向けられていた のです。  しかし、 キリストが「我に従え」と呼びかけてくださる時 、私たちは自分を見なくなります。キリストの呼びかけは、私たちを自分から離れさせるのです。 自分の尊さや 穢れという思いすら 意味を失う。 私たちの目がキリストを見るからです。 キリストが私たちを満たす からです。
 キリストは罪人 、売国奴と呼ばれていた人たちの友 となり、 彼らの客となることを喜ばれました。 そして宣言 なさるのです 。「ここに神の国がある」と。
 こんな私を喜んでくださってる方がいる。 私たちをご自分の喜びで満ち溢れさせてくださるお方。
  私たちは自分を離れ、 この方の喜びに生き始めるのです。

(祈り)
主なる神さま、私の心にあなたを熱烈に慕う心をお与えください 。あなたの手を拡げて、 私の心を あなたの豊かさで満たしてください。どうか、罪深い私に、疑いを乗り越えて あなたの公正と愛を信頼できると、 私に信じさせてください。主イエス・キリストのお名前によって お願いいたします。



5月14日水曜日 
「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。  この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」 テモテへの手紙二 2:8-9

使徒パウロは、テモテに書き送りました 。「わたさは牢獄の中につながれているけれども、 神の言葉は繋がっていません」と 。テモテを取り巻く状況は理想的とは言えず、むしろ 閉鎖感に囲まれるようなことがありました。 またテモテ 自身も、 理想的な状態からは遠いかもしれない が、わたしが牢の中にいても 、神の言葉は力を持って働き続けておられるように、テモテ が語る 神の言葉も 、外的 状況 、内的状況に関わらず 、力を持って働き続けているはずだ、と教えるためでありました。 自分の思い通りにならないと、卑しめられたような感じたり、 怒りに満たされてしまうような 私たち 。そんな時、 私たちの目は思い通りにならない状況や、自分の思いに固定されてしまっています。 私たちの 目をキリストに向けましょう 。キリストは生きて働いておられるからです。

(祈り)
天の父なる神さま、私の力と才能のすべてをあなたの意志に従って用いられるように導いてください。 私の道の全てをあなたに委ねることを教えてください。どうか、どんなことがあっても、神のことばを語ることを続け、神のことばが働きを止めることがないように励ませてください。


5月13日火曜
 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 ・・・そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。 マタイによる福音書 8:8-9, 13

キリストの世界 、それは権威と秩序の世界です 。キリストが語られることは必ず実現する。 それはキリストが絶対的主権者として全てを治めておられるからです 。病も汚れも罪も壊れた関係も、この方の命令に従うというのです 。今、私たちの中には 、病があります、 心の汚れがあります 、罪や高慢、 苛立ち 、そして壊れた関係があります 。この混沌の中で、私たちは求めることを恐れます。 キリストの世界は 秩序の世界だと聞いても、自分の世界とは遠いところにある、と感じてしまうのです。 そんな時 、声に出してお願いしよう。「主よ、 お言葉をください。 あなたのお言葉通りになります。」 遠いと思っていたキリストの世界が、すぐそばにやって
くる 。遠くにいると思っていたキリストが、この中に生きそ始める。 この混沌とした心の中に、キリストの秩序がやってくるのです。

(祈り)
全てを統べ治める 天の神さま、 私たちを憐れんでください。 私たちに あなたのお言葉を与えてください 。どうか、 キリストの語られる言葉が、私たちの中で実現すると、信じて待つことができるように導いてください。


5月12日月曜
「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、  蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。  つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」 コリントの信徒への手紙一 15:42-44 新共同訳

神は、私たちに人の手によらない 御霊に属する 体 、すなわち 復活の体を与えてくださる、と聖書は言います。 イエス様によって与えられる生がその保証だと。私たちのこの体は ビフォー 、私たちはいつか必ず壊れる この体の中で呻きながら生きていますが、 それが全てではない アフターがあるのです。死 ものみ込む 、命に満ちた 復活の体が与えられるのだと。パウロはこの復活の体を求め続けた人でした。 それを求め続けることが希望を持って この地上を生き抜く力であり、 罪から離れて生きる秘訣でもあったのです。

(祈り)
全能の神さま、御子イエスを復活に導きを、朽ちないいのちがあることを教えてくださり感謝します。確かに、生まれながらの身体には、衰え、弱さ、痛み病などが有り、それに苦しむ私たちに、朽ちない、輝かしい、霊のいのちを現してくださることは、大きな恵みです。
どうか、苦しみの中にあっても自暴自棄にならず 、イエス様によって与えられる 聖霊を求め続け 、今の体を大切にしながら、復活の体を望みつつ、生きることができますように、主のお名前によって祈ります。


5月11日日曜日
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。  はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」 マルコによる福音書 11:22-24

信じるとは 自分を説得することではありません。 信じようと頑張ることでも、何かを正しいと仮定することでもありません。 信じるとは相手の真実に触れる時に、自分の真実が それに答えることを言うのです。 主イエスは信じて祈れとお教えになりましたが、 信じて祈るとは 、この真実の関係の中で神の御心を求めることなのです。 神の御心が自分の願いとなる 。それが確信となっていく。  神の真実とそれに答える人の真実 。それが一つとなるところにおいて、神の業が行われているのです。

(祈り)
 天にいます 父なる神さま、あなたに私の歩むべき道を委ねることを教えてください 。また、私に起こる全てのことで、あなたの導きの手を 私が見ることができるようにさせてください 。どうか、私の力ではない力を得て、あなたの御業を現すものにしてください。

5月10日土曜日
「だれが自分のあやまちを知ることができましようか。 どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。」 詩篇 19:12 口語訳

自分の思うように心が動かないことがあります 。喜んでいたいのに喜ぶことができない。親切でありたいのに親切にすることができない。 頑張りたいのに頑張ることができない。 きっと、私 たち が意識することはできない 心の中に、具合が悪いところがあるのです。 私たちは、自分自身について知っているつもりで、知らないことがあまりにも多い存在なのではないでしょうか。
 そのことに気がつくと、柔らかな、 低い 心が与えられます。「 神様、私には分からない 私の心を、 あなたは全て知ってくださっています」 と告白できるようになります。
  私たちを 創造 なさった神様が、私たちの全てを知り、 心の中の隠れた部分に光を照らしてくださる。罪や過ちを赦し 癒し、 御言葉を与えて 魂を生き返らせてくださるのです。

(祈り)
天の父なる神さま、私に与えられた 人生の偉大さを認識させてください。人は自然の偉大な力を制御することができますが、 自分自身があなたに制御 されなければ無能であることを認識させてください。 また、生きるにも死においても、あなたの愛と導きを無視して行動することができないことを悟らせてください 。どうか、今日もあなたのために仕える意欲と機会と喜びをお与えください 。主の お名前によって 祈ります。

5月9日金曜日
「 その後わたしはわが霊を すべての肉なる者に注ぐ。 あなたがたのむすこ、娘は預言をし、 あなたがたの老人たちは夢を見、 あなたがたの若者たちは幻を見る。」  ヨエル書 2:28 口語訳(注意 新共同訳では使徒の働きのペトロの説教中の引用として見られる。使徒2章17節)

 主イエスは新しい酒 (発酵中のワイン)は新しい革袋に入れねばならないと言われていますが 、これは経験に基づくパターン化された思考の中には新しいキリストの命を入れることはできないということを意味しています 。しかし、一方で 主イエスは聖霊によって、人は新しく生まれるともおっしゃっています 。聖霊が私たちのパターン化された硬い思考空間の中に、新たな自由な空間を作ってくださる のです。今まで思いもしなかった 神の業を、聖霊がしてくださることを期待する思考 空間です。 私たちは、これまでの経験に縛られた思考から自由にされて、聖霊 が主導する新しい 思考の中に踏み出すことができるのです 。それが、私たちの外に広がってい
くものです。聖霊 が私たちの中に新しい革袋を作ってくださる 。私たちを縛る 過去から自由にしてくださるのです。
(祈り)
天の父なる神さま、私を愛し、 召し出し、弟子としてくださることを感謝します。あなたの御心によって 道が開かれるまで祈って待ち望む 忍耐を私に与えてください。神さま、私に神の力である福音を恥としないで、むしろ、誇り として歩むことを導いてください 。どうか、義人が信仰によって歩むことを、私たちの生活の中で見させてください。

5月8日木曜日
  イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 マルコによる福音書 2:17 新共同訳

  イエス・キリストは人の本質を知る方でした。罪人と呼ばれ、汚れたものと呼ばれる人がいても 、それがその人の本質ではないということを深く知るのがイエス・キリストでした。 あなたは神の姿に似せて造られた義なる 尊い存在である 。それがわからない 時、あなたは病気にかかっているのだよ、 罪や病気は、あなたの本質ではないのだよと、キリストは語りかけておられます 。キリストが私たちを見てくださる時も、 私たちの罪を見るのではなく、 この中で呻いている 神の子の姿を見てくださっているのです 。そして、こんな者とともにいること、 共に楽しむことを喜びとしてくださっています。

(祈り)
聖なる神さま、あなたが お立てになったイエス・キリストは、私の全てをご存知であられます。 どうか、私に悟りとへりくだりを与え、自己 がどんなに 罪深いかを認めさせてください。 どうか、私にキリストに対する信頼を与え、 彼が私を贖ってくださること、彼の 力と功とが十分であることを確信させてください。 どうか、私に望みと喜びを注ぎ入れ 、キリストの導きに正しく 応じ、 力強く 服従することができますように。救いが全うされる日まで、 私が日毎に新しなることができますように 、イエス・キリストによって お願いいたします。

5月7日水曜日
 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。  彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。 ルカによる福音書 5:27-28

 神様によって作られた人は尊い存在です。 仕事や趣味、 富や 社会的名声、 あるいは 人との関係によって満たされない心の隙間がある存在です。 なぜなら 、人は これらのものよりも尊いからです。 この 尊い 存在は、 さらに尊いものによってしか満たすことができないのです。 キリストは言われました。「 私について来なさい。」キリストの声は私たちの本質を満たします。 この方の声を聞くとき、人は自分の尊さを知り、 この方と共に歩む 真実の人生を歩き始めるのです。 誰にも相談せず、 歩き始める。 この方だけが、私たちを本当に知り、 私たちの存在の奥底まで光を照らしてくださるからです。

(祈り)
恵み深い天の神さま、私たちの心の奥底に語りかけてくださり、私たちを 本当に豊かに満たしてくださるお方を与えてくださることを心から感謝します。 どうか 、私を呼び集めてくださった御子イエスさまの元で、真実に満たされる歩みを、日々、続けることができるようにお恵みください。主のお名前によって祈ります。

5月6日火曜日
「身を横たえて眠り わたしはまた、目覚めます。 主が支えていてくださいます。」詩編 3:6

  詩編の作者は自分に眠りを与え、 目覚めを与えるのは神だと告白しました。 彼はこの時、命を狙われる逃亡生活の中にありました。 安心して眠れること、 生きて 目を覚ますことができることを、神に感謝しているのです。 私たちが 眠ってる間にしか行わない神の御業があります。 神は私たちが 眠ってる間、 私たちに御手を置いてくださってるのです。 詩編 127:2 「 朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」

天の父なる神さま、夜の間も私たちの眠りを見守って、きよい朝を迎えることができ感謝いたします。わたしが眠れないとき、悩みや心配事を抱えているとき、与えられた務めに緊張するとき、心身のバランスをくずしているとき、どうか、あなたの御手をわたしのまぶたに置いて眠らせて、心地よい目覚めを与えてください。

5月5日月曜
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。  わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 ローマの信徒への手紙 14:7-8

私たちは自分を自分のものだと思っていますが、 その自分が自分の思い通りにならないということを感じたことはないでしょうか。 自分の部屋は好きなように 模様替えをすることができます。 しかし、私たちは自分を思うように変えることはできません 。気に入らない部分があっても、捨てることはできないのです 。
 自分の体は自分の思い通りになりません。 自分の心も自分の思い通りにはなりません。 それは、この体もこの心も、自分のものではないからです。 私たちの体も心も、 私たちを 創造なさった神様のものです 。神様のものは、神様がお守りになる。神様のものは、神様が御用のために使ってくださるのです。

(祈り)
天におられる父なる神さま、今日はこどもの日、こどもたちの存在を感謝し、こどもたちが神さまのお守りと恵みのなかを元気に歩めるようにしてください。神さま、こどもたちも私たちも、あなたによって生かされています。どうか、私たちが、神さまの思いに、心が合わされて用いられる器となることができるように助けてください。

5月4日日曜日
 主への畏れは清く、いつまでも続き 主の裁きはまことで、ことごとく正しい。  金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。あなたの僕はそれらのことを熟慮し それらを守って大きな報いを受けます。 知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください。
詩編 19:10-13

自分の思うように心が動かないことがあります。 喜んでいたいのに喜ぶことができない、親切で有りたいのに親切にすることはできない、 頑張りたいのに頑張ることができない 。きっと、私 たち が意識することができない 心の中に、具合が悪いところがあるのです。 私たちは自分自身について知っているつもりで、知らないことがあまりにも多い存在なのではないでしょうか。 私たちを 創造 なさった神様が、私たちの全てを知り、 心の中の隠れた部分に光を照らしてくださら、罪や過ちを赦し癒やし、 み 言葉を与えて 魂を 生き 返らしてからくださるのです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたは私たちの 内なる 心の状態をよくご存知です 。どうか 、どのような状態にあっても、この日、 あなたに向かって礼拝を捧げることの喜びで満たしてください。 そして 御言葉によって私たちの魂を耕し、 良い思いを植え付け、 謙遜な思いを持って、与えられた命の道を従順に歩むことができるように導いてください。主イエス・キリストのお名前によって お願いいたします。

5月3日土曜日
 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。  皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 マルコによる福音書 6:49-50

 神様はどこにでもおられます。 しかし神様がどこにでもおられることを信じることが私たちの救いではありません 。人生の危機とも言うべき時に、私たちに近づき 、私たち にご自身を現される神様に出会うことが、私たちの救いなのです。 人生には壁がある。 人生の大波に襲われ自分の船が転覆するのではないかと思う時がある。 そんな私たちのところにやってきてくださる神がいるのです。 その出会いは、時として私たちを恐怖に包み込むものでありましょう 。自分の それまでのあり方を根底から 造り替えるのが 、神様との出会いだからです 。

(祈り)
天の神さま、あなたに感謝します 。あなたは私たちが最も必要とする時に、イエス様をそばに遣わしてくださるからです。 深い顔を渡ってる時、 思い悩む時 、あなたの御子、イエス様は私たちのそばに近づいてくださり、慰めを、励ましを、救いを与えてくださるからです。どうか、 イエス様と出会うことによって、私たちが命にあふれ、生き生きとすることができるように導いてください。主のお名前によって 祈ります。

5月2日金曜日
「 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」 ヨハネの手紙一 4:10-11

日本にキリスト教を伝えた宣教師たちは「神の愛」「隣人 愛」と訳されている言葉を「大切」と訳しました。 大切とは 最優先に取り組むべき事柄、 最優先に価値を認めるべきもの というのが、当時 使われていた意味です。「 大切」とは気持ちを超える力であって、具体的行為を持って他を生かす 命です。キリストはご自分の命を捨てて 十字架にかかり、 私たちの罪を覆ってくださいました。 罪深い私たちを、ご自身の命より、価値ある 最優先事項として取り扱ってくださったのです 。キリストの十字架にあって 真実の愛とは何かが私たちに知らされたです。

(祈り)
主なる神さま、私のような罪深い者を大切にしてくださる御子を与えてくださり感謝します。どうか、私も、自分自身ではなく、隣人や兄弟を大切に扱うことを行わせ、お互いに、御子イエスさまが現してくださった、感情を超えた豊かないのちによって生かされる者にならせてください。

5月1日木曜日
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 マタイによる福音書 9:12-13
  
ここでの重要な言葉「 憐れみ」は、傷ついたものを助け、 迷ってるものを救い出そうとする 神の意志と力なのです。「いけにえ」 という言葉と対比されて置かれています。「いけにえ」 は、人間が目に見える形で人々に正当性を訴えようとする方法で、 それによって自分たちは神を喜ばせていると思っているのです。

(祈り )
天の父なる神さま、 物事をあなたの見方に立って見ると、状態は 何も変わっていないのに、何もかも違って見えます。よく見られるようにと、 無理をしたり、 逆にビクビクしながら生きるのではなく、あなたの憐れみを受け止め、 喜んで それに応え 塾行き方が可能になるのです あなたの英語のために生きるいくことが可能になります。どうか、あなたの栄光のために生きることができるようにお導きください。尊い主の御名によって祈ります。






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