今日の聖句  2025年9月    nagarenohotori      

      聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています


9月30日火曜日
ペトロの手紙一 5:10-11
  しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。

(黙想)
これは、ペテロの手紙の集約のような言葉になっています。まず、私たちは、「あらゆる恵みの源である神」に出会いました。キリストの血潮を注がれるように選ばれて、新たに生まれ、天における資産を受け継ぐ者とされました。これは、大いなる恵みです。そして、「永遠の栄光」の中に招き入れられています。苦しみがあっても、目の前には、栄光の主と、輝きに満ちている天が間近にあります。
 そして、「しばらく間苦しんだ」とあります。苦しみではなく、しばらくの苦しみです。この地上で生きている時は少ないことをペテロは強調しています。そして、苦しみを通して、「完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがない」者となります。これが苦しみの目的です。木は、ひどい嵐が襲ってきても引き抜かれることがないのは、根を深く張っているからです。けれども、その木は、ふだんから、頻繁に風に吹かれていることによって、さらに深く根をはります。いつも風によって吹かれているのに、根を深く張り、実際に嵐が襲ってきたときに、耐えることができるのです。私たちも、信仰の試練がいつもあり、いろいろな苦しみがあり、そうして大きな苦難が与えられても、それでも動じない者になることができます。

(祈り)
天の神さま、 私の心を清め、 ひたすら あなたを愛し、 またあなたから愛されていることを喜ぶことができますように。 あなたを信頼して自らを全く委ねることができ 、あなたへの 変わらぬ 信仰で満たされますように。 この世の何かを慕う 卑しい愛に落ちたり、 この世の心遣いで塞ぎ込むことがありませんように、どうか、私を助け、 悪しきことを厭わせ、 良きことに親しませ 、永遠の栄光に預からせてください。

9月29日月曜日
ローマの信徒への手紙 14:17
 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

(黙想)
 神の国とは 聖霊によって与えられる義と平和と喜びのことです。 義も平和も第一に 神との関係のことです。 しかし、ここでは 義とはクリスチャン同士との正しい関係 、そして 平和とはクリスチャン同士の平和を さしています 。私たちの神との関係が正しく、 平和である時、 私たちクリスチャンは神の国の喜びに満たされます 。

(祈り)
天の神さま、 私たちの教会を 聖霊による義と平和と喜びに満たしてください。どうか、互いにいがみ合うことを嫌い、助け合いに励み、心穏やかに祈りを共にすることができるよう、信仰の道に励ませてください。

9月28日日曜日
ペトロの手紙一 5:7
 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

(黙想)
 思い煩いをゆだねることは、パウロもピリピ人への手紙の中で話しました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。(4:6)」またイエスさまも、「何を食べるか、何を着るかについて、心配しないようにしなさい。」と言われました。ここのペテロの言葉で面白いのは、「神が心にかけてくださる」ことです。私は、「このような悩みは神に聞いていただくのは申し訳ないし、自分で頑張って考え悩まなければいけない。」などという愚かしいことを考えてしまうことがあります。けれども、神が心配してくださいます。だから、神に委ねるのです。

(祈り)
愛とめぐみに富たもう天の神さま、私たちの心を 肉の思いを喜ばせることで満たすのではなく、あなたが望む良いことを行って満たすことに向けさせてください。また、み言葉から学んだことを実行する人にならせてください。神さま、どうか、私たちが、それを行えるか、行うのにふさわしいかどうかと思い煩わないで、あなたに願って委ねることを心に留めさせてください。

9月27日土曜日
ヨハネによる福音書 16:33
 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 主イエスにあって、私たちは真の平安を持つことができます。喜びと同じように、状況を見るときに私たちは心を騒がせ、悲しみをおぼえますが、イエスを見るときに、困難な中にいても平安を持つのです。そして、イエスは、「わたしはすでに世に勝っている。」と言われました。すでに勝利はイエスのものです。私たちは世で困難や恐ろしいこと、時には迫害や憎しみを受けますが、そのときにイエスがすでに勝利されていることを思い出してください。ヨハネは手紙のなかで、こう言いました。「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。(Ⅰヨハネ4:4)」イエスは十字架の上で、悪魔の力を砕かれました。ヤコブはこう勧めています。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。 (4:7)」私たちが立ち向かえば、必ず悪魔は逃げ去ります。必ず逃げ去ります。ですから、心が悲しむとき、どうかイエスに平安があること、またイエスに勝利があることを思い出してください。

(祈り)
天にいます私たちの神さま、いつもお守りくださり、感謝いたします。それでもなお、サタンが私たちの生活を攻撃してきます。どうか、死に打ち勝ち、サタンの誘惑を退けられた、主イエスの信仰が、私たちの生活を守り支えてくださることを願い求めるのとならせてください。

9月26日金曜日
詩編 3:3-5
 多くの者がわたしに言います 「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ 主よ、それでも あなたはわたしの盾、わたしの栄え わたしの頭を高くあげてくださる方。 主に向かって声をあげれば 聖なる山から答えてくださいます。セラ


 ここでダビデは大切なことをしています。信仰告白をしているのです。主が、自分を取り囲む盾であり、私の栄光であり、私のかしらを高く上げる方であると。 主がどのような方であるかを明確に、口をもって言い表し、かつその神は私の神であると、個人的に適用するのです。私たちの信仰は曖昧なものではありません、ふわっとした気持ちでもなく、びびっときたひらめきでもなく、このように明確に、言葉をもって告白できる力なのです。先ほど、「私は主に身を避ける」と言っていましたが(2章12節)、ここでそれが「盾」という表現になっています。自分を守り、自分を保護してくださいます。それから、「わたしの栄」と言っています。ダビデは今、貶められています。彼の王としての栄光が消えています。しかし主こそ、私の栄光だと告白しています。私たちは栄光をどこに求めているでしょうか?人からでしょうか、いいえ、主からの栄光を求めていますね。そして、「私のかしらを高く上げてくださる方」とあります。ダビデは頭をもたげていたに違いありません。もうダビデの時代は終わったと落胆していたのかもしれません。しかし、主が頭を高く上げてくださると告白しています。自分が自分で引き上げるのではなく、主が引き上げてくださるのです。 ダビデは、主を呼んでいます。声をあげて、呼んでいます。口をもって、主の名を呼び求めるのです。主は快く、答えてくださるのです。
「セラ」という言葉があります。これは安息と言う意味ですが、一呼吸置くような意味で詩篇にでてきます。沈黙を少しだけ作ることによって、むしろ主の心が自分の心の中に振動するためなのです。

(祈り)
天の神さま、あなたは恵み深いお方です。私たちが願い求めるのことに応えてくださるからです。だから、安心して、日々の生活を進めることができています。どうか、困難なことに出会っても、あなたの愛と配慮をもって行動し、信仰の恵みを受け取らせてください。

9月25日木曜日
アモス書 4:13
  見よ、神は山々を造り 風を創造し その計画を人に告げ 暗闇を変えて曙とし 地の聖なる高台を踏み越えられる。 その御名は万軍の神なる主。

 神は、ご自分がどのような方であるかを思い起こさせるために、天地創造にある栄光、そして人の思いをすべて知っておられる方であることを言い表しておられます。私たちは、ややもすると、神がどのような方かを忘れてしまいます。まさに北イスラエルの人々が忘れていたことですが、被造物に現れている神の力と永遠性です。私たちは神を思い出すために、自然の中に行ってみると良いでしょう。晴れた夜空を見上げると良いでしょう。この神が、私たちに悔い改めの呼びかけを行なっておられるのです。したがって、神に対して健全な恐れを抱いて、その警告の御言葉を真剣に受けとめなければいけません。

(祈り)
天の神さま、季節 の移り変わりが感じられる頃となりました。 あなたの造られた世界の中で生かされていることを感謝いたします 。あなたが天地を造り、これを守るように、私たちを 導いておられます。神さま、 人々が私たちの良い行いを見て 、あなたに栄光を帰せるように、私たちを 生活させてください。

9月24日水曜日
詩編 79:9
  わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて あなたの御名の栄光を輝かせてください。 御名のために、わたしたちを救い出し わたしたちの罪をお赦しください。

 アサフは理解していました。このような酷い状況になったのは、先祖が犯した罪のゆえ、また自分たちの世代で犯した罪のゆえであることを知っていました。エレミヤなどが、何度となく預言したことを理解していたようです。神に選ばれた、愛された民のゆえ、罪を犯す時には、神を知らない人々よりも厳しい裁きを受けるということです。たとえバビロンがイスラエルよりもはるかに悪いことをしていたとしても、そしてユダがバビロンに比べたら、はるかに正しく生きていたとしても、神に捉えられているがゆえに、厳しい取り扱いを受けるとうことはあり得ますし、それは神の深い教育的配慮から来ているのです。
 私たちの周りでも、自分にとって不利な出来事が起こるかもしれません。相手が確実に間違っていると断言できる出来事も起こります。けれども、その出来事の是非は別にして、確かに自分が神に対して不遜の罪を犯していたのではないか、その罪を悔い改めて、神ご自身に戻ってくるための注意喚起をしておられるのではないか、ということがあります。したがって、私たちはこのようなことを通して、なおのこと神の前に出てへりくだるという機会が与えられています。そして、霊的に成長し、キリストの似姿へと一歩前進するのです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたがこの地上のもの全てをさばく方であること、 そしてその裁きは厳しいと同時に憐れみに満ちたものであることを感謝します。私はあなたの裁きに全てをあなたに委ねます 。どうか、あなたの御前にへりくだって、 どのような罪をも、大きくても小さくても、全てを悔い改めて告白し、赦しを求め、 あなたの憐れみに預かることができるように導いてください 。

9月23日火曜日
申命記 25:13-16
 あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。  あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。 あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、 このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。

 私たちは人を評価する時に、異なった基準を使い分けるということがあるかもしれません。 自分の都合に合わせて人に対する評価を変えたり 、気分によって人に対する態度を変えたりするということです。 さらに、 面と向かって言えないことについて 、陰口を叩いたり、 噂話をすることも これに含まれるでしょう 。このようなことによって、 尊厳を傷つけられてる人が何と多いことでしょうか。 私たちが ダブルスタンダードの罪に陥らないためには、神が一人一人をどのように見ていらっしゃるかを知ることが必要です。神が言っておられます、「 私の目にはあなたは高価で尊い 」(イザヤ書43章4節)と。イエス・キリストは神のこ の唯一の基準に生き抜かれました 。それは神が高価で尊いと言われた私たち一人一人のために、自分の命を捨て、 私たちを生かす という基準だったから なのです。

(祈り)
天の神さま、私が心を傾けるのは、命を捨てて私の尊厳を守られた方が、他の人の尊厳をも同じように守っておられる そのことになりますように。どうか、私に、あなたの言葉に従い、働き、人気を得るよりも、誠実であることに熱心な、忠実さを与えてください。主の御名によって祈ります。

9月22日月曜 
マタイによる福音書 7:9-11 「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。  このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。 」

 私たちは神様に願い事をする時に、自分で制限を加えていないでしょうか 。病気が重たい時、 解決が不可能と思えるような問題に直面する時、「一応 祈るけれど やっぱり無理だろう」と思うことがあります。 しかし 、イエス様は聖書の中で一度も「諦めなさい」と言われたことはありません 。「信じ続けなさい。求め続けなさい。」と言われます。 なぜならば、 天には私たちの祈りと求めを聞いておられる私たちの父である神様がおられるからです。 人間は神様の力と恵みを制限しようとします。 しかし、私たちの父は全能の神様です 。私たちに御子 イエス様をさえ惜しまずに与えてくださった 愛の神様です。 思い切って求め続けましょう。祈り続けましょう。私たちに必要なものは 思い切って 呼びかける勇気です。「天のお父さん!」と。イエス様は私たちを諦めることはありません。 私たちも諦めてはならないのです。

(祈り)
大いなる天の神さま、私を祈り中に招いて、求めさせてくださることを感謝します。どうか、私のあらゆる 願いを 、あなたの愛のうちに成就させ、全ての求めをあなたの恵みのうちに完成させてください。 私が困っている全てのことを祈り、あなたが知恵と平和を持って、 それらに応えてくださる恵みに預からせてください。

9月21日日曜日
ルカによる福音書 9:12-13
 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」  しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

主イエスは、人里離れたところまで ご自分についてきた男だけで5000人という大群衆を満腹させるという奇跡を行われています。 しかし、その時のイエスさまと弟子たちと会話を注意深く見ると、 主イエスさまは、「わたしが彼らに食べ物を与える」とはおっしゃっていないのです。弟子たちに「 あなた方が彼らに食べるものを与えよ」とおっしゃっているのです。弟子たちが持っていたのは2匹の魚と5つのパンでした。 主イエスさまは、それを感謝し 祝福し、弟子たちに配るようにお 命じになったのです。 すると 、大群衆が満腹 するまで食べ、なお 12 かごの分のパン切れが余ったのでした。私が持っているものは乏しく、みすぼらしく見える 。多くの人を養うことができるようなものではない。 私が聖書を読み、 心の井戸から湧き上がる感激と喜び、 それは、私一人が今日一日生きるためのものにしか過ぎない。しかし、主イエスさまは、私に、「 お前が彼らを養え」とお命じ になっている。主は、私の持っている乏しいものを感謝し 祝福してくださるのです。「それを彼らに配れ」と。

(祈り)
天地の造り主なる神さま、あなたが私たちの持っているものを用いて、御業を表してさくたさることを感謝いたします。イエス様 が、それをどのようにお用いになるかは、あなたのお心次第です。 どうか、私があなたがお 命じになることをすることができるように、耳を傾けて聞くものにしてください。イエス様のお名前によって祈ります。

9月20日土曜日
イザヤ書 46:3-4
 わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。 あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。 わたしはあなたたちを造った。 わたしが担い、背負い、救い出す。

 私たちは、仕事や勉学が思うように進み、 健康にも問題はない時、 将来に向かう道を順調に歩いてるように感じます。 しかし、 思わぬ 壁にぶつかる時があり、 健康を損なう時があります 。また、家庭の事情なので、自分の思う道を進めないと感じることもあるでしょう。 醜く傷つけられた時などは、今日の一歩を踏み出すこともできない 、そのような恐れに襲われることがあります 。しかし、今日という日は誰にとっても 例外なくやってきます。 私たちは、今日という日を歩かなければなりません。 聖書は言います 。そんな私たちと共に歩いてくださる 神さまがおられると。私たちの手を引いて歩いてくださるお方がいる 。私たちが歩けない時、背負って歩いてくださる方がいると 。イエス様は「イン マンデル( 神が私たちと共におられる)」と呼ばれました 。私たちを決して見捨てない神さまがおられるいです。

(祈り)
天の父なる神さま、御名を崇めます。あなたは、今日と言う日を与え、元気を出して歩むように導いてくださっています。感謝します。どうか、人生の歩みに疲れを感じるとき、あなたの御手が私たちを引っ張ってくださることを信じ、御手に私の歩みを委ねることができるように、主の御名によってお願いします

9月19日金曜日
イザヤ書 27:3
  主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ 害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。

 連日の厳しい 暑さの中、 植物は十分な水を必要としています。 今朝も 庭のお花や木に水をやりましたが 、この時期 、虫も発生します。 せっかく 膨らんできた つぼみや 葉が虫に食い荒らされているのを見ると残念な気持ちになります。 しかし、 虫がついて 花や葉が汚くなってしまってもその木に水をやらないということはないのです。 また新たな芽が出て、美しい花を咲かせることを知ってるからです 、その姿を思い浮かべながら水をやり続け、 汚い 葉を取り除き、虫を退治します。 私たちは自分の失敗や罪、 心の汚さを見ると、神さまの恵みがわからなくなってしまいます。 こんな自分には神さまの恵みは来ないのではないか、 神さまは自分から離れて行かれるのではないかと。私たちは 虫に食われているかもしれません 。葉も汚くなってしまってるかもしれません。 しかし、神さまは私たちに水を注ぎ続け、 汚くなった葉を取り除き、虫を退治してくださるのです 。やがて 、新しい芽がで、美しい花が咲く 姿を思い浮かべながら、命を注ぎ続けてくださる 神さまがいるのです。神さまの温かい目は日々私たちの上に注がれ、 神さまの御手は日々私たちに伸ばされているのです。

(祈り)
天の父なる神さま、私たちは熱中症予防のため、適度に水分を補給し、身体を潤し、保っています。霊の身体にも乾かないようにいのちの水が必要です。あなたは、いのちの水を飲むことを求めています。日々、キリストの言葉と戒めによって、霊のいのちの潤いをいつも保つこと、いつも生き生きとなることができるように、あなたのお守りを与えてください。

9月18日木曜日
エレミヤ書 18:6
 イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。

 聖書ではよく、神を陶器師、人を粘土に譬えています。 神の姿にして造られ、 神の命の息、神の霊を吹き込まれたのが人でした。 しかし、 自分を見ると、どこに 神の姿があるのだろうかと思うほど汚れ、賤しい 存在になり果ててしまっています 。神は、そんな私たちを投げ捨てず、御手の中に握握ってくださっています 。固まった粘土が自分では自分を変えられないように 、凝り固まった心を変えられない私たちがいます 。神はそんな私たちの心に 命の水を与え、 柔らかくし、ろくろの上でご自分の望む形に変えてくださる 。御心にかなう 器にしようとしてくださるのです 。人生のろくろは 回ります。 そして、そこに私たちを包み込み、造り変えて くださる神の温かい御手があります 。「あなた方は私の手の中にある。」この方に任せて生きていくなら、いつか キリストの姿のようになるのです。私たちの希望は、私たちを創造し御手の中で 造り変える 、神様から来るのです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたの造られたもののなかな見られる、あなたの美しさと素晴らしさを、いつも見ることができるようにしてください。どうか、神であるあなたにとって、人であっても、ものであっても、それが大きすぎることも、つまらなすぎることもないことを受けとめ、感謝できるようにしてください。

9月17日水曜日
マタイによる福音書 6:7-8
 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。  彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

 私たちはすぐに思い煩います。 思い煩うのは自分がこうしたい 、こうなったら良いと思うことがあるのに、自分の力では思い通りに行くかどうかわからないからなのです。 それは、自分の思いが実現することよりももっと大切なことがあると、 それに気づかせようとしているのです 。神は私の 願い事の全てを知ってくださっています。 そして、私の全ての思いに勝る平安があるのです。 色々な思いで揺れ動く 私の心、 これが最善と思うことでさえ 時と場合によって変わるのが私たちの心、しかし そんな私たちと心と思いを守ってくださる方がいる のです。そして、ご自分の平安を満たしてくださる のです。私たちの心が暴走しないために、全てを知って導いてくださる私たちの神さま、 この方にすべてをお任せしょうではありませんか。

(祈り)
天の神さま、何でも祈ることができることを感謝します。私が足をケガしたとき、私が財布をなくして困ったとき、私が道を間違えて狼狽えたとき、神さまの助けを求めて祈りました。そしたら、心が落ち着き、冷静になり、何をなせばいいか導かれています。どうか、これからも思い煩わないで、あなたに祈り願うことを感謝を持って行わせてください。尊い主のお名前によって祈ります。

9月16日火曜日
コリントの信徒への手紙一 6:19-20   
  知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。  あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 あなたのからだは、あなたのものではなく、神のものである、と使徒パウロは言う。私たちは、自分のしたいことは何でもしてよかろうと、と思いがちです。けれども、自分のからだはもはや自分自身のものではなくなったのです。神が、キリストの血という代価を支払って、私たちを買い取られました。 ですから、私たちは自分の好きなことを行なうのではなく、神の栄光になること、神を喜ばせるようなことを行なうのでます。コリントにいる人たちは、この世の常識やこの世の習慣によって生きていました。法的に、慣習的に許される範囲で動いていました。けれども、クリスチャンの判断基準は違います。どのようにしたら益になるのか、福音の中に生きたい、人を赦したい、どうしたら自由なままでいられるのか、を考えながら生きるのです。こんな祝福された生き方はありません。まったく異なる倫理によって生きようとするからです。

(祈り)
聖なる神さま、  人の命を奪うことが何でもなくなり、 自分の命も簡単に扱ってしまうような風潮が広まっています。 しかし、 命は私のものではなく、あなたから私に託された、 あなたのものであることを、しっかりと心に留める受けことができますように。 主 イエスさまがご自分の命という代価を払って、 私を買い物してくださったことを(贖ってくださったことを)思い、この 命を決して無駄に扱ってはならないという思いに満たされますように。 どうか、私の体を 、主の 体の枝とし、 私の体を持って あなたの栄光を表せてください。

9月15日月曜日
ヨブ記 12:12-13  
 知恵は老いた者と共にあり 分別は長く生きた者と共にあるというが 神と共に知恵と力はあり 神と共に思慮分別もある。

 多くの人が、年上の人は経験が豊富だから、彼らの言っていることを聞きなさいという態度を持っています。そこで、ここでは、老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか、と問い質しているのです。 それに対しヨブか反論したのです。知恵と力、思慮と英知はすべて神のものです、と。コロサイ書2章にてパウロは、人間の哲学にだまされることなく、キリストのうちに根ざし、成長し、建て上げられなさいと勧めました。なぜなら、キリストのうちにすべての知識と知恵の宝が隠されているからだ、と言いました。経験も大切です。しかし、経験はいつも正しいとは限りません。むしろ人を誤りに導くことも多いのです。だから、私たちは経験以上に、神が、みことばによってどうおっしゃっておられるのかを、キリストの言葉を通して聞かなければいけないのです。

(祈り)
天の神さま、今日も 、キリストの足元に座り、 心の耳を澄まして、聖書の言葉の中にあるキリストの声を聞くことができるようにしてください。また、自分が聞いている言葉は、キリストの言葉なのか、自分の言葉なのか、 それとも 誰か他の人の言葉なのかをよく考えて、自分が何を話してるか 、振り返えることができるようにしてください。


9月14日日曜日
ルカによる福音書 15:18-20
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

  この父も息子を見つけて、(直前の箇所で登場している) 羊飼いや女の人と同じように、自分から駆け寄っています。父は自分の家からは離れなかった、弟息子のいる遠い国には行くことはできなかったのです。罪は、私たちと神を引き離すのです。ですから、悔い改めがなければ、父は罪人を受け入れることはできません。
 息子は豚のにおいでプンプンしているのです。でも、父がかわいそうに思って、首を抱きかかえ、何度も何度も口づけしています。汚れたこの私たちを、ありのままで、どんなに汚れていてもありのままで、私たちの神は受け入れてくださるのです。これが、神の恵みです。罪の赦しです。悔い改めた者に与えられるものです。でも、実は、これだけに終わりません。神は私たちを愛し、ただ罪を赦してくださるだけでなく、神の子どもという特権を与えてくださいました。これにより、神の持っておられる資産を、私たちは受け継ぐことができるようになるのです。

(祈り)
天の父なる神さま、しばしば、私たちはあなたのもとから離れてしまい、あなたの愛と恵みを受けることができなくなっています。どうか、わがままな思いと行動はすぐに悔い改め、再び、あなたの赦しの恵みに預かることができるよう力を与えてお導きください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。


9月13日土曜日
詩編 56:12
 神に依り頼めば恐れはありません。 人間がわたしに何をなしえましょう。

使徒言行録 9:31
 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

 サウロ(後のパウロ)は、神に選ばれた福音宣教者となりましたが、最初から神に大きく用いられたわけではありませんでした。サウロのメッセージを受け入れるには、まだ時間が必要だったのです。不信者のユダヤ人だけではなく、おそらくはエルサレムにいる兄弟たちにも、サウロの語るメッセージを全面的には受け入れられなかっただろうと思われます。まだ時間が必要だったのです。まだ、この神の啓示を受け入れるためには、信者も心の準備が出来ていませんでした。そこで、サウロの他に、神に選ばれた器が登場します。ペトロです。教会の指導者として主イエスさまに任命を受けたペトロが、異邦人にも福音を宣べ伝えるのは神のみこころであるという啓示を受ける器となります。ペトロが異邦人伝道を受け入れることによって、他のユダヤ人信者も受け入れることができるように導かれていきました。

(祈り)
  天の父なる神さま、あなたの偉大な力によって、私たちが、何事にも恐れることがないことを、いつも思い出させてください。また、あなたの素晴らしい愛が、私たちに受け継がれ、広められていくことを、私たちの交わりを通して証できるように導いてください。

9月12日金曜日
箴言 3:25-26
  突然襲う恐怖、神に逆らう者を見舞う破滅に おびえてはならない。 主があなたの傍らにいまし 足が罠にかからないように守ってくださる。

マタイによる福音書 14:26-27
 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。  イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

神の守りと救いは条件付きです。主の名を呼び求める者、主を恐れる人、主を愛する人が守られる、という約束です(例:詩篇145:18-20)。主のことを無視し、顧みない人に主は災いから守る約束をしておられません。だからユダの手紙には、「神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」と教えています(21節)。 そして、しっかりと自分自身を主の愛の中に、主の知恵の中に保っているならば、なんら恐れることはありません。主が守ってくださる信仰と確信を持っていいし、持たなければならないのです。

(祈り)
神さま、弱く、恐れやすい私たちを見守ってください。どうか、あなたが生きて働いてくださることを信頼し、その導きに委ねて、今日も、心穏やかに過ごせるように助けてください。

9月11日木曜日
 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。
ガラテヤの信徒への手紙 3:8-9

 信仰によって、アブラハムは祝福を受けました。そして、私たちも信仰によってその祝福にあずかります。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。パウロが引用している聖書個所は、創世記12章3節です。アブラハムがまだ父の故郷ウルの町にいるときに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と約束されました。そして、この祝福はアブラハムに注がれましたが、それは彼が信仰をもって聞いてからであり、彼の行ないによってではないのです。そして、この祝福の約束は、「すべての民族」にまで及んでいます。つまり、ユダヤ人だけではなく異邦人も、アブラハムに約束されたところの霊的祝福にあずかることができる、ということです。その条件は信仰であり、律法の行ないでありません。聖書ははじめから最後まで、信仰による義という真理を貫いているのです。

(祈り)
父なる神さま、あなたは御子イエス・キリストにより全ての人にあまねく愛をお注ぎくださいました。 そして、あなたはこの世にある一切の差別から私たちを解放し、 等しく 神の子としてくださいました。その限りない 深い あなたの愛を 感謝いたします。 神さま、どうか、私たちが主にある一つの交わりに固く立ち、 互いの平等な人格を尊重するようにさてください。

9月10日水曜日 
 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、  高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。   ローマの信徒への手紙 8:38-39

  パウロは、私たちを神の愛から引き離すかもしれないと考えられる被造物を、考えられる限り列挙しています。死といのち、御使いや権威ある者、現在のもの未来のもの、力ある者、高さ、深さ、どんな被造物も、引き離すことができません。それは、神の愛が、私たちの主キリスト・イエスのうちにあるからです。パウロは、「イエス・キリストにある者が罪に定められることは決してありません。」という言葉で8章を始めました。そして、「キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と言って終わっています。このように、私たちに与えられた神の救いは完全であり、十分であり、確実なのです。

(祈り)
愛する天の神さま、私たちをキリストが苦しまれたように苦しみの道に導いてくださり感謝します。その道がまた、神の愛によって完全に守られた道であリました。私たちのからだにもたらされる苦しみ、あるいはからだの弱さによって受ける内なる戦いも、御父、御子、聖霊の神が、全面的に介入し、助けてくださり、計画してくださっています。どうか、この神の愛を覚え、その愛の中で私たちを歩ませてください。主の御名によって祈ります。


9月9日火曜日
 「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。
使徒言行録 11:17-18

 ユダヤ人信者も、ペテロの説明を聞いて、異邦人にも神は救いを与えてくださることを知ることができました。異邦人が救われるのか、救われないのか、という問題について、教会に一致がもたらされました。信仰の一致がもたらされたのです。自分たちが信じている事柄について、一致が与えられたのです。組織的な一致でもなく、また、建前だけの一致ではありません。自分が個人的に神との関わりを持っていて、その信仰が他の信者と共有できるような一致です。作り出した一致ではなく、生み出された一致と言ったらよいでしょうか。ユダヤ人信者にも、異邦人が救いを得ることができるという信仰が与えられました。
 そして、その結果、彼らが「神をほめたたえた。」とあるところに注目してください。神に栄光が帰されています。教会が一致していないときは、神の栄光が現れていません。なぜなら、互いに自分が正しいと思っており、神ではなく人間が主役になっているからです。けれども、互いに同じ思いをもっているときに、神の御名がほめたたえられます。

(祈り)
憐れみ深い天の神さま、あなたの憐れみによって、私のようなもの さえ受け入れていただいているのですから、私が他者を 避難したり、 拒んだり、 叱ったりするのではなく、 イエス・キリストの憐れみによる救いの約束を共に分かち合うことによって、私が他者をも受け入れていかれるように助けてください。


9月8日月曜日 
 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
  これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、  柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。      ガラテヤの信徒への手紙 5:19, 21-23 新共同訳

 肉の行ないをしている者は、自分がいくら救われていると主張していても、救われてはいないのです。信仰によって義と認められた人は、同時に御霊によって新たに生まれました。御霊がその人を導くようになるのですから、その人には必ず聖霊の実が結ばれるようになります。しかし、肉の行ないをしているのであれば、本当にその人が救われているのかどうか、疑ってみなければいけません。
 肉の行ないが「行ない」と書かれているのに対して、御霊の実は「実」と書かれているところに注目してください。私たちの行ないは肉に属するものです。しかし、御霊がなしてくださることは、実、すなわち自然に育ってくるものなのです。私たちが、キリストのうちにいこい、キリストにかたく立ち、キリストのうちにとどまっているのであれば、自然と愛が与えられます。私たちが、愛ではなく憎しみ、怒りがあるのであれば、それは私たちの努力が足りないからではなく、私たちが信じられていないからです。御霊に拠り頼むことができていないからです。私たちが、ありのままの自分を主にさしだし、自分には何もできないことを認め、主に座を明け渡すときに、主が私たちに代わって、これらのことを行なってくださいます。

(祈り)
父なる神さま、まことの愛の姿を見せてくださり、ありがとうございます。私が生きていく上で、聖霊に従っていないところを示し、あなたの愛の内に私を完全にしてください。私がわがままであったり、自己中心的であったり、すぐ怒ってしまうところを示し、これらすべてを、あなたにゆだね、こんな性格をあなたのご自身の愛に変えていただけますように。私をつくり変え、あなたが私を愛してくださるように、隣人を愛せるようにしてください。イエス様の御名によって、アーメン

9月7日日曜日
 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。  だから、人の子は安息日の主でもある。」マルコによる福音書 2:27-28

  安息日は私たちが守るために設けられたのではなく、 創造主となる神が私たちを守り、 命を回復させるために設けて くださった 創造主の日です。神さまが、疲れの中にある私たちに命を注いでくださる 。気落ちした者に希望を与えてくださる。 病んだ者を癒してくださる。
 主イエスは、このことを明らかにするために、安息日 に病人を癒やし続けられました。 そして、 安息日を 形式的に守ることを 至上命令とする人々に殺されることになるのです 。 キリスト教会は、主イエスが復活 となさった日曜日を聖日、キリスト者の安息日としてきました。 主イエスが願っておられることは、この日ともに集まって礼拝する者たち、 また事情で集まることはできない者たちが、元気になることです 。希望を回復することです。キリストの命を受けることなのです。

(祈り)
天の父なる神さま、安息日を迎えることができることを感謝します。この日、イエスさまのところにやって来る私たち一人一人に、溢れる命と癒し、また、問題解決が与えられる喜びの日となりますように、主イエス様のお名前によって祈ります。

(今日の聖句)9月6日土曜日
   主こそ万軍の神 その御名は主と唱えられる。 神のもとに立ち帰れ。 愛と正義を保ち 常にあなたの神を待ち望め。
ホセア書 12:6-7 新共同訳

 人は神の助けを求め、 すぐに神が答えてくれることを期待します。 確かに 、神は祈りにすぐに答えてくださることも多いですが、何年も、時には 何十年も 祈り続けなければならないこともあります。 そんな時、 私たちが心に留めなければならないことは、神の回答を待つ間こそ、私たち自身が 神の御心にふさわしいものに作り替えられる時だということです。 神を待ち望む とは 、私たちが自分の思いと行いを離れて神に立ち返ること 、愛と公正を行うことだと聖書は言います。 ただ、解決を求めて祈るだけではない、神の御心を自分の心として行うものとなっていくこと、これが神を待ち望むということなのだと。問題の中に投げ込まれた時こそ、神との深い 霊的な交わりを求める時です 。

(祈り)
天の父なる神さま、新たな一日のはじまりを感謝します。
 今日、私自身が 離れるべき 思いと肉の行いは何か、 あなたがが求めておられる 愛と公正とは何かを わきまえ知ることができるように導いてください。そして、神さま、今日、私が、あなたを待ち望むにふさわしい 心と体となって過ごせるようにお助けください。

9月5日金曜日
  そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 ローマの信徒への手紙 1:24-25

 パウロは、ここで「まかせられ」という言葉を使っています。26節にも、「情欲にまかされました。」28節にも「無価値な思いに渡され」とあります。神が人間に対して怒るとき、それは、彼らをその欲望のままにさせておくことによって現われるというのです。私たちはとかく、神の怒りは、何か悪いことが自分の身に下るとか、思いっきり叱られるときなど、何か罰が与えられることを神の怒りだと考えがちですが、もちろん、死後には、そのような永遠の懲らしめが神の怒りとして現われますが、神が何も干渉せず、そのままにされることも怒りなのです。ほったらかしにされる、これこそもっとも恐ろしいこです。

(祈り)
天地の造り主なる神さま、私たちに自制する思いを備え、誘惑に陥らないように守ってくださることを心強く感謝します。どうか、あなたの霊の力によって、造り主なるあなたのみに仕える歩みを守らせてください。

9月4日木曜日
 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
ローマの信徒への手紙 1:16

 パウロは、福音は救いを得させる神の力なのだと言っています。力なのです。福音は、それを体系的に理解してそれを信条として受け入れる哲学ではありません。そうではなく「力」であって、私たちを罪から救う力なのです。福音は、私たちを罪にともなうさばきから救います。たった一つの罪でも死んだあとに地獄に行ってしまうのに、そのすべての罪を処理されて、天国へと導く力を持っているのです。また、私たちは罪の力から救われます。私たちを悩まし、奴隷状態にしていた罪であっても、福音によってその力から解放されるのです。さらに、罪そのものから救われます。私たちには、罪の性質がこの肉体に宿っていますが、この肉体までが変えられて、新しいからだを持つようになり、キリストに似た者にされるのです。

(祈り)
全能の神さま、 私たちに恵みを与え、喜びを 持って あなたに向かわせてください 。どうか、敬虔な思いと愛をもって、福音がすべての人に伝えられるように、私たちに福音の力を与えてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

9月3日水曜日 
 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
エゼキエル書 36:26-27

 創造者なる神さまは、その民に対して、御霊による新生を行なわれます。まず不信仰の者たちを集め、そしてそこで恵みの御霊を注がれて、彼らを霊的にも救ってくださるのです。
 御霊による新生ついて、三つの点が示されています。一つは、神さまが「あらゆる汚れを清めてくださる。」ということです。
 第二点は、「新しい心」を与えることです。私たちが外側の行ないを変えようとしても決してできないものを、神さまは内側から私たちを変えられることによって、それを成し遂げてくださることです。
 三つ目の点は御霊の新生によって、神さまの御言葉に従順になることができる、ということです。恵みによって、信仰によって救われるのは、自分が好き勝手なことをすることができる自由が与えられることではありません。むしろ、これまで従えなかった神さまの命令を従うことができるようにしてくださったからです。

(祈り)
恵み深い天の神さま、私たちにも新しい心と霊を与えてください。そして、私たちをきよめ、あなたの御心を行うことができるように助け導いてください。

9月2日火曜日 
 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
ローマの信徒への手紙 1:16

パウロは福音を 恥としません と宣言しました。 なぜなら、 福音は信じる 全ての人に救いをもたらす神の力だからです。 神の力は この世の権力と違い 神の怒り とさばきから救い、命と栄光を与えます。

(祈り)
天の父なる神さま、私が、神の力である福音を恥とすることがなく、誇ることができるように導いてください。神さま、私が、信仰によって生きることを喜びとすることができるように、私の心に働きかけてください。主の御名によって祈ります。

9月1日月曜日
  若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、 「神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる」 からです。ペトロの手紙一 5:5 新共同訳

 若い人たちが長老に従うように、という勧めです。長老は人を支配するのではなく、模範を示していく人であり、へりくだった人です。その時に、力がないように見えるその人に対して、批判をしたり、たてついてみたりする誘惑があるでしょう。そのようなことを控えて、長老の言うことに従うことを学ばなければいけません。教会の秩序の中に、謙遜の御霊が広がっていなければいけません。主は、高ぶる者を退けられ、へりくだるものに恵みを与えられます。

(祈り)
天の神さま、他の人の行いを見て、自分の方がよくできると高ぶる思いを持ちやすい私たちをいさめ、へりくだるものにならせてください。あなたはへりくだる者を高めてくださるお方ですから、どうか、謙遜な態度を、いつも表すことができる者にならせてください。




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