今日の聖句 2025年6月 nagarenohotori
聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。
6月30日月曜日
主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」
そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。ホセア書 3:1-2
神様が私たちに求めておられることは、神様の贖いの業に、私たち人間も参画するということです 。旧約聖書の時代に ホセアという 預言者がいました。妻のゴメルはホセアに愛されていながら、恋人たちの後を追い、
関与を重ねては捨てられ、全てを失い 、ついに 奴隷となり 、神殿娼婦として売られました 。神様は ホセア に言われます、 再び行って ゴメルを愛せよと。すると
ホセア は見受けの金額を支払い、再び 彼女を妻として愛し、ともに生きるのです 。ゴメルはホセアに見受けしてもらって救われました 。変わらない愛とは何かを知ったのです。ホセアも罪に汚れ
、奴隷となったゴメルを買い取り, 再び 自分の妻とし、 共に生きることによって贖いの業とは何かを知りました。キリストの贖いの歴史、 それはイエス・キリストの十字架の血を注がれて、
罪から 清められ 、救われた者たちが、愛する人の贖いのために、自分の持っているものを、さらには自分自身を差し出すことによって 綴られてきたのです。
贖いの愛は贖いの愛を呼び起こします。 キリストの十字架の血によって極められる時、 私たちは キリストの贖いの業に参画するものと変えられていくのです。
(祈り)
めぐみ 深い 天の父なる神さま、あなたの大いなる愛を讃えます
。今、私をその愛の中に住まわせ 、私の魂と生活から全ての憎しみと悪意を根絶やしにしてください。 あなたが まず
私を愛してくださったように、あなたを愛することができますように 。また、あなたにある隣人をも愛することができますように 。どうか、自分を愛する偽りの愛
から救い出し、あなたの 聖なる愛を現すことができるようにしてください。
6月29日日曜日
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書 11:28-30
生活に疲れ果て 多くの重荷を背負っていると私たちの口からは愚痴や トゲのある言葉が出てきたりします 。キリストは そんな私たち一人一人を招き
呼びかけてくださっています「 私と一つのくびきを負って歩かないかと」。くびきとは 2頭の牛の首を固定し、 荷車や 農具を引かせる道具です 。1頭では重すぎるにも、2頭なら
楽に引くことはできます。 私の愚痴や トゲのある言葉を聞きながら、私の重荷を共に引いてくださるというのです。 私たちの 苛立ち も汚れも全てを知った上で呼びかけてくださっているのです。
誰にも打ち明けることはできなかったこの心の中の思い、 この方になら打ち上げることはできるかもしれない。 この方とともに歩いていると、この方が背負っておられるものが何かが分かってくる。
この方の嘆きと悲しみが伝わってくる 。しかし、このお方の喜び 希望も伝わってくるのです。その胸の内をこんなに私に打ち明けてくださるお方がいるのです。
(祈り)
天の神さま、 今日なせる善を、仕える方法を 、人を助ける言葉を、教えてください 。困ってる人を助け、 重荷を軽くし、 幸せを広げる方法を、教えてください。
間違ったことを正す方法、 弱った人の励まし方を、 人を元気づける笑顔や歌を、神さま、私に教えてください。主の御名によって お願いいたします。
6月28日土曜日
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
マタイによる福音書 11:4-5
ヨハネの弟子たちは、イエスが教えられているのを聞き、イエスが行われたことを見ました。私たちは、マタイの5章から7章にあるイエスの説教を聞き、8章から9章にある、イエスの行われた数々の奇跡を見ました。この説教と奇跡のわざによって、ご自分が来るべきメシヤであることを人々に示されたのです。 そして、イエスの行われた、さまざまな出来事は、旧約聖書に預言されていました。盲人が目を開くことは、イザヤ書29章18節に書かれており「
盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。」とあります。足なえが歩く事は、イザヤ書35章6節にあり、「 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
」らい病人がきよめられることは、イザヤ章53章4節に「彼が担ったのはわたしたちの病」とあります。同じように、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、死人が生き返り、貧しいものに福音が宣べ伝えられることも、メシヤのしるしとして預言されています。したがって、イエスは、ご自分が確かにメシヤであることをお示しになったのです。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたの独り子イエスをこの世に遣わし、メシヤ(救い主)の働きが行われています。その働きによって多くの人が救われています。神さま、どうか、私たちの信仰によって、イエスの働きが今も現されるように、祈りを持って福音を宣べ伝えることを行わせてください。
6月27日金曜日
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
ヨハネによる福音書 8:7-9
他の人を断罪したいという思い 、それは私たちが 持つ 最も根深い問題の一つです 。なぜなら私たち自身に罪があるからです 。自分に罪がありながら人を断罪する
、ここに人の罪の本質が明らかな形で現れているのです 。しかし、 そんな私たちにイエス様は語り続けてくださっています。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と。この言葉によって救われたのは、
姦淫の現場を押さえられて、 石打ちで死刑にされそうになった女性だけではありませんでした。 自分自身も 罪がありながら彼女を殺そうとしていた人たちも救われたのです。
人を断罪できるのは、罪のないお方だけです。 しかし、そのお方が私たちの
罪を覆い尽くすために十字架にかかられたのです。 そのお方が「赦す」とおっしゃってくださっています。 「赦す」とおっしゃっておられるお方が、他人を断罪せずにいられない思いにかられる
私たちを導いてくださるのです。 「あなた方のうちで 罪のないものが最初に彼女に石を投げつけなさい 」と。踏み止まらせくださるお方がいます。こんな私たちが
さらなる罪へ陥らないように救ってくださるお方がいるのです。
(祈り)
天の神さま、他の人の過ち、不用意なことば、無礼な態度に怒りをぶつけていることがあります。自分も同じようなことを行っているにも関わらずです。どうか、そのようなときには、心を落ち着かせて、彼らに、イエスさまがお赦しになられることを話し、私たちの罪をも赦されていることを感謝できるようにしてください。
6月26日木曜日
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
サムエル記上 3:10 新共同訳
私たちの周りには、いろいろな声が満ちています。 家族や友達の声 、教師や指導者の声 、職場での声 、マスコミの声 、ネットに溢れる
声 、また自分の中に去来する様々な思い という声があります。様々な声の中で私たちは自分の歩むべき道を見失うことがあります。 何が真実なのかがわからない、
また自分が本当は何を求めているのかがわからず、行くべき 一つの道に心を定めることができなくなるのです。 しかし、人は真実を求めて生きる存在です。
誰も嘘と偽りの世界の中に身を置きたいとは思っていません。 私たちはだれも、 真実の道を歩みたいと願っているのです。 聖書は言います 。私たちを導いてくださる
実在の神がいると、語りかけてくださ
る神がいるのだと。
私たちは、神の呼びかけの言葉に耳を傾けたいと思います。 聖書を通して 語りかけてくださる 神の言葉があのです。 聖書の言葉に 私たちの心を密着させよう。
私たちの思いや気持ちを超えた神の真実に触れることができるでしょう。心を静め 、神の声に耳を傾けて行くなら 、キリストのお心と方法を知ることができるでしょう。
そして、キリストの僕として用いられていくでしょう。
(祈り)
すてのものを見、つ 知られる 神さま、どうか恵みにより、私にあなたを知り 、あなたを見ることを得させてください 。あなたを知ることによって、
あなたに知られるように 完全に私自身を知り 、あなたを見ることによってみ前にあるがままの私自身を見ることができますように。この日 私の思いがこの世の過ぎゆく姿だけで閉められることがありませんように。あなたの愛を持って
見えざる 永遠なるものを 瞑想する心を 私に与えてください。
6月25日水曜日
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。ヨハネによる福音書
5:39-40
私たちがイエスを知りたいと願うなら、聖書をじっくり学べば良いのです。旧約聖書は、救い主がやがて来られることがテーマとなって語られています。具体的に預言されている部分は、だいたい2000ヶ所に及びます。その300強がキリストの初めに来られるときの預言であり、1500以上が再び来られるときの預言です。そして、その300以上の預言はすべてイエスにあって成就されました。これこそが、私たちに与えられている確かな証拠です。
ユダヤ人指導者は、聖書を綿密に調べていましたから、それらの預言についてよく知っていました。けれども、彼らはイエスのところに行かなかったので、いのちが失われていたのです。聖書を知っているということと、イエスを知っているということには大きな違いがあります。聖書の話をいくらたくさん聞いても、そこに証言されているイエスを自分の主としなければ、永遠のいのちはないのです。あるいは、その生き生きとしたいのちを楽しむことはできません。イエスを主であると口で告白するだけでなく、日々の生活の中で、瞬時瞬時において、イエスを主としているでしょうか。聖書を知っているだけではなく、実際にイエスのところに来る必要があります。
(祈り)
人間の心を探られる神さま、私の行為と言葉の全てと、私の心の底にある思いが、真昼の明るい光に耐えることはできるだけでなく、あなたの全てを見通される目の吟味にも耐えることができるようにしてください。どうか、私の良心が曇りのないように生き、行動できるように導かれて、永遠のいのちを見出すことを得させてください、
6月24日火曜日
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。 そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
箴言 3:5-6
人 を 幸福と平安に導く 特徴があリます。一つは、 記憶力を備えた心を持つことです。 ジョン・ニュートンは自分の若い時代を顧みて、神が彼に語りかけた時々を思い出しました。
そこで彼が言うことができたのは、「 私は忘れてしまった、私はこんなにも早く忘れてしまった」という言葉だけでした。 毎日の初めに、神について考える習慣を作るならば
、私たちは忘れる 危険を防げるでしょう 。二つめは、真理を愛することと 憐れみを結合させることです。 トマス・アクィナス の祈りがあります 。「主よ、
私の舌に見張り人を置いてください 。そして、私たちが 不真実で残酷なことを決して語らないように、また真実であっても、全体的な真実でなく、 あるいは全体的な真実であっても、憐れみのない言葉を語らないようにさせてください。」
その三、人を幸福と平安に導く人は神を信頼しなければなりません 。私たちは決して自分一人で事を済ませるようにしてはなりません。 その人は謙遜さえも持たなければなりません。
賢明になる 途上にある人は、自分自身の無知を知っている人間であり 、自分の弱さの中で完全にされる力を見いだす人は、自分自身の弱さを知ってる人だからです。
(祈り)
神さま、私を真に豊かにし 、真に幸福にする 知恵 、私に実際に命を与えてくれる 知恵を授けてください。神さま、あなたの知恵で私を捕らえて、私の人生に
あなたの創造の秩序が入ってくるようにさせてください。
6月23日月曜日
わたしの王、神よ、あな たをあがめ 世々限りなく御名をたたえます。 絶えることなくあなたをたたえ 世々限りなく御名を賛美します。
大いなる主、限りなく賛美される主 大きな御業は究めることもできません。 人々が、代々に御業をほめたたえ 力強い御業を告げ知らせますように。詩編
145:1-4
この詩篇145は、神の資質について歌っています。その一、神の大能についてくり返し考えています。ユダヤ人は神の本当の偉大さに常に感銘を覚えています。
世界の広大さと創造者、 維持者である 神の偉大さは、 現代科学が私たちに教えてくれたように 、今でははっきり分かるようになりました。 その二、
神の恵み深さ という思想があります。 この詩篇 が再三再四、神の偉大さと恵み深さを説いてるのは 驚くべきこと です、 その偉大さは独裁者の偉大さ
ではなくて、 その心に愛があるものの偉大さ です 。その三、 この詩篇は神の誠実さを強調しています。 詩篇 の作者は神を信頼するものを神が見捨てることはないと確信しています。
私たちの信仰は本当に喜ばしい 感謝に満ち溢れているでしょうか。 この詩篇を通して信仰の喜びを教えられたいものであります。
(祈り)
全能の憐れみ深い神さま、 あなたの力と愛とは とこしえに共に働いて、あなたの子らを守ってくださいます、 今日私があなたを信頼することができますように
。神さま、私たちの信仰の先輩たちは皆、あなたを信頼して迷うことがありませんでした 。今、私のたましいから無駄な心配や 、力を奪い去る恐怖を取り除いてください。
私に喜ばしい 、元気な精神と、あなたの御心を行う時に生まれる平和をお与えください。
6月22日日曜日
ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
マルコによる福音書 8:11-12
人は何かを信じるために、 それが真実であることの証拠を求めようとします。「 愛しているなら 、その証拠を見せろ」「 神が愛なら、 その証拠を出せ」と。
そして何を証拠として認めるかは、自分に 決定権があると思っています。
イエス様が圧倒的な天の力で癒しの業を行い、 悪霊を制してるのを見ても、パリサイ人たちはそれを イエス様がイスラエルの救い主であることの証拠とは認めませんでした
。イエス様は深く 嘆かれます。「 君たちは何を見ても信じていない、君たちの思いを満足させるような 証拠は与えられてない」と。自分の基準を第一とし、神様さえ裁こうとするのが私たち人間ではないでしょうか。
そして 裁いた結果 、私たちは何を得たというのでしょうか。そんな高慢な私たちを赦すために 、イエス様は十字架にかかられたのです 。そして よみがえられました。
自分という基準を少し横に置いて、 聖書の言葉に耳を傾けてみませんか 。私たちのために死んで蘇られたイエス様の声が聞こえてくるでしょう。 愛の証拠ではなく、
愛の実態が私たちを救い生かすからです。
(祈り)
天の神さま、私たちが無用な不平や 嘆きを並べ立てて、時を無駄に過ごすことがないように。自分が置かれた状況にかかわらず、その状況で最善を尽くすことができるように。どんな状況に置かれても強い心と強い信仰によって、その心に神の恵みと、その生活に神の善意を持って過ごすことができるようにしてください。
6月21日土曜日
わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。 喜んでわたしの道に目を向けよ。 箴言 23:26
私たちが持っているもので最も尊いものは心です。 私たちは心で喜びを感じ、 愛を受け取ります。 また愛の関係は心を通して結ばれます 。一方 、心は
とても繊細で傷つきやすく、 一度傷ついた心は癒されるのに長い年月を要します。 尊いから時間がかかるのです。 私たちの心は、今 喜びと愛を感じてるかもしれません。
あるいは傷つけられたり 、自分を受け入れられず苦しんでるかもしれません。 私たちが自分の心を持てあますとは、自分の心の扱い方を知らないからです。
この一つしかない 、尊い 心は自分のものではないからです 。私たちの体を造られたお方は、私たちの心も造られた方。 そして、この方は私たちの心の尊さを私たち以上に知っておられるのに違いありません。
そして一つしかない 尊い心 、この一つしかないものを私に与えよ と、神様をおっしゃっています 。喜びと愛に満ちてる心だけを差し出すのではありません。
苦しく悲しい心も、汚れた卑しい心も私に渡しなさい と神様をおっしゃっているのです。 あなたの目を 、あなたの心から離し、私の道に目を注げと。
(祈り)
天の神さま、毎日、暑い日を過ごしています。どうか、この過ごし難いとき、私たちの体と心が守られて、日々の営みを行うことができますように助け導いてください。
神さま、自分のものだと思っていた心 をあなたにお返しすることができ、 神さまのお守りに委ねることができますように、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
6月20日金曜日
わたしはいつも主に目を注いでいます。 わたしの足を網から引き出してくださる方に。 御顔を向けて、わたしを憐れんでください。 わたしは貧しく、孤独です。
悩む心を解き放ち 痛みからわたしを引き出してください。 詩編 25:15-17
詩篇25篇は、神への信頼を表明し、神の真理と道を示すように懇願する内容から始まります。詩篇の作者は、過去の罪や過ちを覚えていないでほしいと神に祈り、赦しを求めています。また、敵に打ち勝たれることのないように、神に守ってくれるようにと祈っています。そして、神の恵みと真理によって導かれることを望み、神の道に従うことを誓っています。詩篇25篇は、人生における様々な困難や試練に直面した時に、神に頼り、導きを求めるための指針となるものです。
(祈り)
恵み深い天の神さま、私の心にあなたを熱烈に慕う心をお与えください 。あなたの手を広げて 、私 の 慕う 心を あなたの豊かさで満たしてください。神さま、私の罪を誠に悲しみ、
砕かれ、 悔い改めた心という 捧げ物をあなたに捧げることはできるようにさせてください。主の御名によって 祈ります。
6月19日木曜日
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
ペトロの手紙一 2:3-4
人と苦しい別れを経験しなければならなかった人は、誰か 別の人と新しい関係を持つことに二の足を踏みます。 痛みと悲しみの記憶が、また深い関係を持つことに恐れを感じるからです
。そんな私たちの心、 誰にも知られたくないし、 分かってもらえない私たちの心を イエス様は深く知ってくださっています。 イエス様 ご自身が、人に捨てられたからであります。
イエス様が呼びかけてくださっています。私のところへ来なさい 、そのまま来なさいと。あなたの悲しみと、イエス様の悲しみ、 あなたの痛みとイエス様の痛みが一つとなるのです。十字架の血が、あなたの中に注がれるからです。
無理に変わろうとする必要もない、 ただそのあなたと一つになりたいと 、イエス様は願っておられるのですから。
(祈り)
主なる神さま、あなたはいつもそばにいて 私を助けてくださいます。また、 あなたは私の 必要 をご存じで、悪を善へと変えてくださる方です。 どうか、あなた愛と
忍耐を 賛美 し、 感謝することができますように。 私がどこにいても 見守り 、必要を満たしてください。 あらゆる機会をとらえて あなたと一体となって、あなたの恵みを体験することができるように導いてください。
6月18日水曜日
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
マルコによる福音書 1:40-42
イエス・キリストは救いを求めて ご自分に近づいてきた人たちについて、 その良し悪しを問題になさったことは一度もありませんでした。 ただ清くなれと、癒しと祝福だけを与えられたのです。人は他の人の良し悪しを問題にします。
そして、それを判断するのは多くの場合 自分の好みと自分の都合です。 しかし、 キリストにとって、私たちの良し悪しは問題とならないのです 。ただ頼ってくる者に対して、
癒しと救いをお与えになります。 祝福をお与えになるのです。 だから、 全ての人が救われるのです 。 私たちはこの良し悪しを超越するイエス・キリストに出会いたい
。この方の命の中に私たちは生きたいのです。
(祈り)
天の神さま、 私たちも他の人の良し悪しを問題にしないものとなって 生きることができますように 。ただ 癒しと祝福を祈る者となることができますように。
どうか、 慰められるよりも 慰めることを、愛されるよりも愛することを求めさせてください。
6月17日火曜日
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙2:19-20
人生にはそれぞれ 目的があります。 神様は一人一人を目的を持って創造なさったからです。 しかし 、人は自分の思いを遂げることが人生の目的だと思い違いしてしまいました。
そのため、 自分の思いが実現すると高慢になり、その道が閉ざされると 自己憐憫に陥ってしまうのです 。けれども、神様の計画と自分の思いとは違うかもしれないということに気がつくとき、私たちは
祈り始めます 。祈りは自分の思いを離れ 、神様の御思いを求めることです。 祈りつつ、 十字架のイエス・キリストに心を向ける時、このお方の血が
この罪深い身 に注ぎ込んできます。 自分が自分のものではなく、 このお方のものだということがわかってくる。 十字架のキリスト
がこんなものと一つになってくださった。 私はこの お方と共に十字架にかけられたのだ。 このイエス・キリストが私の中で生きてくださっている。そう思う
時、 私たちは高慢にも、自己憐憫にも陥らず、神の子の尊厳に満たされて生きるようになります。 神様が与えてくださる目的に生きるようになるからです。
(祈り)
全能 なる 父なる神さま、私たちに恵みを与え、 心と唇を持って あなたに向かわせてください。 あなたはどこにもおられ、 あなたには何も隠すことはできません。敬虔
に愛を 持って、思いをあなたに向けるように教えてください。 そしていつまでも、私たちの祈りが報われ、 あなたに受け入れられるものになりますように、
私たちの主イエス・キリストによって お願いします。
6月16日月曜日
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。テモテへの手紙二 1:13-14
使徒パウロは、神のみことばを教えてきました。それが健全なことばであり、これをテモテにゆだねると言っています。「手本にしなさい」と言っていますが、そのままそのことばを真似して保っていきなさい、ということです。私たちが試されるのは、聖書で啓示されている健全な教えを伝えることにあります。それは、キリスト・イエスにある信仰と愛によって、語られるものです。それは、「私たちのうちに住まわれる聖霊」によって守ることができます。聖霊が私たちに、話すべきことばを与え、それを語らせてくださるからです。他の人に福音を語るときには、聖霊が働いて、健全な教えを伝えることができるように助けていただきましょう。
(祈り)
天の神さま、今日、私が起きるとき、 その力で 私を支え、 その知恵で私を教え、 その目で私を見守り 、その耳で私の声を聞き 、その言葉を 私に話させ、
その手で私を守ってください。主の御名によって祈ります。
6月15日日曜日
イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
マルコによる福音書 3:3-5
私たちは時として 疎外感を感じることがあります。 自分だけ 他の人とは違う、自分の問題を他の人が話題にしてる、 あるいは 人に知られたくない問題を自分は
抱えている。 そんなことを感じる時、 私たちは怯え、 自分の 居場所を失ってしまいます。 しかし、 イエス様はそんな私たちに声をかけてくださる
。さあ立って 真ん中に出てくださいと。これは、あなたは私の目の前にいなさい、 あなたは神の恵み・ 神の祝福 の真ん中に立つにふさわしいものなのだよ
、という意味です。 人の目、 人の声を恐れていた自分も、自分自身も受け入れることができないでいた。 しかし、 イエス様が見つめてくださる 。恐れる私に声をかけてくださる。
さあ、立って
、真ん中に出て来なさい。人の目ではなく、私の目を見なさい 。怖がらなくて良い。 大丈夫だと。
私たちは神の恵みの真ん中に立つものとされているのです。 イエス様が命じてくださる。「手を伸ばしなさい」と。その時、私たちは手を伸ばすものとされる。
萎えた心も、弱った体も、イエス様の命令に従うのです。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたの恵みを感謝します。どうか、その恵みのなかを歩むことができますように。心が病み、恵みを見失うようなときには、あなたの呼びかけに応え、手を伸ばすことができますように、そして、立ち上がる喜びのなかに、私を導いてください。
)6月14日土曜日
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。 ヨハネの手紙一 2:17
私たちがこの世にあるものを求めていたら、それは、わた飴のように、食べてもすぐなくなる、一時的な、瞬時瞬時の楽しみしかありません。永続する楽しみや喜びはそこにはありません。世は、何かを約束するのですが、それを獲得できたその後に、「もっと何かがほしい」と私たちを願わせます。そして、主が来られるときに、自分はこの世に属する者としてともに滅ぼされるのです。 天の万象がくずれさるときにさえ、決して滅ぼされることなく、生き長らえる者は、神のみこころを行なう者です。イエスさまは、「わたしのことばは、決して過ぎ去ることはありません。」と言われましたが、キリストのみことばをうちにとどめて、その命令を守っている人が、生きることができます。
(祈り)
天にいます父なる神さま、今日も生きることができるのはあなたの恵みによっています。この日、目の欲、肉の欲、人に注目されたい欲に陥ることがなく、あなたが表してくださったまことの愛を追い求めて過ごすことができるようにお守りください。
6月13日金曜日
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
マルコによる福音書 16:14
イエスは、復活後、初めて弟子たちに現われました。そのとき、彼らがイエスを見捨てたとか、ペテロがイエスを3度、知らないと言ったことを責めることをなさいませんでした。そうではなく、よみがえりの証人が数名いたのに、彼らの言うことを受け入れなかったことを責めておられるのです。というのは、10節にもあるように、復活という事実があっても、それを信じなければ、その人は何も変わることができないからです。イエスがよみがえられたことを信じるのは、イエスが生きて働かれるように、この方を自分の生活に迎え入れることです。その行為によって、私たちは、自分自身ではできなくなっていること、つまり、神の願っておられるような生き方をしていくことができます。 神は、私たちが罪を犯すことで、さばかれることはありません。御子がその罰をすべて受けてくださったからです。けれども、もし私たちが、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じなければ、そのような閉ざされた心の中で、神は働くことはできません。ですから、神がさばかれる唯一の罪は、イエスを信じないことになります。このことについて、イエスは弟子たちを責められたのです
(祈り)
父なる神さま、御子 イエス・キリストがよみがえって、 ご自身を現された時 、信じない人々が多くあり 、主は その不信仰と心の頑ななことをお責めに
になりました。 この私に生ける主が現れたことを信じて た者として、再び 陥りやすい 不信仰 をふり捨て、 主が生きておられることを全世界に宣べ伝える力強き
信仰者として立たせてください。主は今日も多くの御業を持って人々を助け、 癒し、 救い、 新しい言葉を持って教えてくださり、 信じて バプテスマを受ける者を起こしておられます。
私たちも主の御業に預かるものとしてください。
)6月12日木曜日
何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
フィリピの信徒への手紙 2:14-16
私たちは、主にあって願ったことを行なっていくのですが、それには多くの労苦がともないます。あの人が救われてほしいと願っているのに、なかなかイエスさまを信じてくれない、と思う時がありますね。そこで、自分が個人伝道をしていることは、はたして益になっているのか疑い出すこともあるでしょう。しかし、何事も疑わずに、しっかりと行ないなさいとパウロは勧めているのです。
主が自分に願いを置いてくださっていることを、私たちは確信を持つべきでしょう。そして、それをつぶやかずに、疑わずに行なうのです。すると、このことを始められたのは神ご自身なのですから、神はかならず、それをキリストの日までに完成してくださるのです。これを、パウロは「救いの達成」と呼んでいます。
(祈り)
恵み深い天の父なる神さま、あなたは再び新しい朝をもう一度私たちに表してくださいました。どうか、 太陽の輝く時の間、 私たちと共に歩んで、全ての悪の道から守ってください。
私がこの日、あなたの どんな小さなご命令にも従うことができるように導いてください。 また、あなたの清い御心をかけ目なく満たすために、 修練を怠らないような心をお与えください。
6月11日水曜日
安息日を心に留め、これを聖別せよ。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
出エジプト記 20:8-10
安息日は、その名のごとく、安息を得る日、休む日のことです。そして聖なる日とは、神だけの日、ということです。聖別とは、一つの用途のために他のものから別たれることですが、あらゆる日からこの日だけは神のものとなる、ということです。
安息日にあずかれる人には、差別がありません。どのような人も安息の特権にあずかれます。イスラエルがかつてエジプトにいたときは、労役の連続であり、休みなどありませんでした。けれども主は、安息を設けられました。同じように、罪の中に生きることによって安らぎを得ることのなかった私たちの魂は、イエス・キリストによって救われて、この方にあって休みを得ることができます。主は言われました。「だれでも、疲れている者、重荷を負っている者はわたしのところに来なさい。休ませてあげよう。」
(祈り)
父なる神さま、安息日を覚えてることができますように。安息日を聖なる日にすることができますように。安息日を守ってまことの憩いを得ることができますように。安息日に主の御心を求めることができますように、私たちを整えてください。
6月10日火曜日
「 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。 しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。」
テモテへの手紙二 4:16-17
パウロの人生の中で、もっとも暗黒のときに、主がそばに立って、彼をさらに宣教の働きへと励ましを与えてくださったのです。私たちも同じです。私たちが、主から与えられた務めを行なっているときに、この暗闇を通ります。たった一人ぼっちになっているような時があります。自分が今まで行なったきたことが、果たして有益であったのかと疑いたくなるような時があります。しかし、そのような一人になってしまったときにこそ、主がともにおられ、そしてその時にしか聞くことのできない、主の明確なことばを聞くことができるのです。 それは「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために」でした。 パウロは、ローマにて、ローマ人の皇帝ネロに、福音を宣べ伝えようとしているのです。みことばを最後まで語り続けるその力が、主がともにおられることによって与えられました。
(祈り)
憐れみ深い天の神さま、あなたの霊を、私たちに満たし、福音を伝える働きを行わせてください。どうか、あなたの霊が、私たちとともに居てくださって、その務めを励まし、力づけ、あらゆる災いから守られるように助けてください。
6月9日月曜日
あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
マルコによる福音書 13:9-11
イエスは、不思議なことですが、迫害を受けることによって、福音はあらゆる民族に伝わる、と言われているのです。その最高の模範がイエスご自身ですが、十字架につけられたことによって、世界中にいる人々の心を変えてしまいました。また、使徒行伝も、ステパノが殉教してから、異邦人に福音が宣べ伝えられるきっかけになります。パウロは、迫害を受けることによって、他の町に逃げて、福音を伝えることができました。迫害によって福音は広まります。
イエスのあかしをするのに、何の準備もせずにしなければならないときがあります。けれども、その時は、聖霊が話すべきことを教えてくださるのです。私たちにも、自分が予期しないときに、友達から説明を求められたりして、あかしをしなければならないときがあります。その時は、聖霊に助けを求めてください。聖霊は、必要なみことばや、みことばの解き明かしを与えてくださいます。
(祈り)
天の父なる神さま、時が良くても悪くても、福音を宣べ伝えることを行わせてください。特に、私たちの信仰を認めない人々に、言葉と行いによって、キリストをあかしする機会を得ることができますように。どうか、聖霊が働いて、私たちを通して真理を伝えることができるようにしてください。
6月8日聖霊降臨日
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、] 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。使徒言行録
2:1-4
今日は教会が生まれた日、ペンテコステです。イエス・キリストがよみがえり、天に帰られたあとも、イエスを主と信じて祈る人々のうえに、神の霊、キリストの霊が与えられ、彼らはその力によって、救い主キリストを大胆に述べ伝えるようになりました。それにより、信じる人々の仲間になる人が続出したからです。教会は福音を伝えることから起こされ、それを使命としているところです。
(祈り)
愛する天の神さま、あなたの恵みによって 聖霊を私たちの上に注いでください。どうか、使徒たちが聖霊の力を受けて、 福音を分かりやすく、 力強く
宣べ伝えたように、私たちにも 福音を話すことかできるように導いてください 。主イエス・キリストの御名によって お願いいたします。
)6月7日土曜日
「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。ルカによる福音書 4:27-30
群衆は、怒り狂いました。イエスを殺そうとさえしました。なぜ、そこまで怒ったかと言いますと、預言者が異邦人に遣わされたことを聞いたからです。ユダヤ人は、自分の民族に誇りを持っています。そして、異邦人は、地獄の火の燃料のために造られたぐらいにしか考えていませんでした。非常に軽蔑していたのです。それで、怒り狂いました。民族に限らず、肉の誇りは、福音に真っ向から対立します。それで、真実を示されたとき、ものすごい怒りや落ち込みが生じます。私たちが肉の思いから解放される方法は、十字架につけられたキリストを見ることです。
イエスは、彼らが投げ落とそうとするのを見事に避けることができました。悪魔は、御使いがあなたを守らせる、あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らがあなたをささえる、という聖書のことばを引用しましたが、皮肉なことに、今ここで、それが実現しています。イエスにはすべきことがまだたくさんあったので、神はこのようにして、イエスを生かしてくださったのです。
(祈り)
主なる神さま、この世ではさまざまな苦難が待ち受けています。どうか、すべての苦難から私たちをお守りください。御子イエスが人々の計画する災いから逃れることができたように、私たちにもふりかかる災いから逃れる道を歩ませてください。
)6月6日金曜日
わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
ヨハネによる福音書 17:14-15
イエスは御父のことを、「聖なる父」と呼ばれましたが、次に、弟子たちを聖め別つことを願っておられます。弟子たち
は、イエスのみことばを受け入れたので、神のものとなりこの世から離れました。そのためこの世から憎まれます。みことばを受け入れることによって私たちは新たに生まれて、そのため、世は私たちを憎みます。
私たちがこの世のなかで生きているのは、イエスの祈りによるものです。イエスはもちろん、弟子たちをご自分のおられる天に連れて行きたいと願っておられます。この世は彼らにとってふさわしいところではなく、憎しみと迫害があります。しかし、イエスが取り去るようにお願いしなかったのは、目的があるからです。それは、行って実を結び、その実が残るためです。私たちがこの世に生きているのは、ただ一つの理由しかありません。イエスを証しして、私たちをとおしてイエスの栄光が現れることです。その一つの目的と使命のために、私たちはこの世にいます。
(祈り)
天の父なる神さま、私たちがイエス様の祈りによって守られていることを感謝いたします 。どうか、その祈りに答えて、信仰のゆえに憎まれることを耐え、世をあって、真理の証人として神様の栄光を表すことができるように助け
導いてください。
6月5日木曜日
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
マタイによる福音書 7:21
単なる口の告白では、人は天国に入れません。「イエスは主です。」と言っても、イエスが主であることが生活の中で見えなければ、完全に矛盾しているのです。心から「イエスは主です。」と告白しているなら、自分の生活における主導権をイエスに明け渡し、イエスを第一として生きることを求めるはずです。その結果、その人は父のみこころを行っています。私たちと神との関係は、私たちが父の願われていることを行うところに現れ出ます。行いによって救われるのではなく、信仰のみによって救われるのですが、信仰は行いによって現れるのです。
(祈り)
大いなる神さま、私のあらゆる 願いを あなたの愛のうちに成就させ、全ての求めをあなたの恵みのうちに完成させてください。 私が、祈ることにおいて、あなたの名前を呼び求める時には、あなたとの正しい関係を証しでき、またあなたのみ旨に従うことを述べられるように、私を整えてください。
ただ唇だけではなく、私の体全体であなたの名前を呼び求めていく者としててください。
6月4日水曜日
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」ローマの信徒への手紙
8:11
私たちの体はいつか必ず死にます。 決して思うようにならない 自分の体 。私たちは自分を見て落胆してしまいます 。なぜ自分が自分の思い描く 自分でないのかと。しかし
聖書は私たちに語りかけます。 私たちのこの死ぬべき体を私たちが愛する以上に愛してくださっている方がいると。神様は私たちを見て落胆することはありません。神様は私たちのこの死ぬべき体を生かすことがお出来になるのだ
と。イエスを死者の中から 蘇らせた方が、 この体の中にイエスに注いだと同じ御霊を注いでくださるというのです。 こんなものを生かしてくださる 。神様の御心を行うために用いてくださると。
そしていつか 、イエスの姿に似たものへと 作り変えていってくださるのだと。
(祈り)
天地の造り主なる全能の神さま、あなたの霊を私たちの中に宿し、生かしてください。あなたの愛を、今日も感じることができますように。あなたの愛にすべてを委ねて歩めるようにしてください。
6月3日火曜日
わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、
大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」ヨハネの黙示録
14:6-7
福音の目的は、それを聞いて信じた人が、「神を畏れ、その栄光をたたえ(神を恐れ、神をあがめ」ることです。私たちの幸福や安寧が第一目的ではありません。神に栄光を返すことが第一目的です。
これから神の激しい怒りが地上に下ります。獣の国の一員になったこと対する、神のさばきが下ります。
ロマ書1章には、「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
(20節)」とあります。創造主を被造物によって知っているのにそれを拝まないというのが、不義と不正の始まりです。私たちも、八百万の神を信じている人々に対して、はっきりと万物を創造された方を伝えなければいけません。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたを畏れ、崇める事ができますように。天地の造り主なる神さまの存在を教え、その神さまのさばきが近いことを知らせ、人々を立ち返らせることができますように、私たちを奮い立たせてください。
6月2日月曜日
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる。 朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる。 イザヤ書
50:4
神は私たち人間を神の言葉を聞くもの、神の言葉によって生きるものとして創造されました。 神の言葉を聞くとき、人は生き、 神の言葉に耳を閉ざすとき、人は命を失うのです。
疲れ果てた私たちに、イエス・キリストが語りかけてくださっています 。「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
」(マタイ 福音書11章28節)と、命と希望を失った私たちにイエス・キリストが語りかけてくださるのです。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
」(ヨハネの福音書5章25節)と、聖書の中で神の言葉を聞くとき、私たちの 霊が神の霊によって 息づきを始めます。 罪に死んだ霊がよみがえるのです。
神の言葉によって生きる者、 神の言葉によって人を支える者、人を生かす者、 神様はそのような人々によってこの世が満ちることを願っておられます。
(祈り)
天の神さま、今日も魂の奥底に語ってくださるあなたの言葉に耳を傾けることができますように。また、語ってくださった言葉を他の人に伝える者になることができますようにお導きください。
6月1日日曜日
彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。イザヤ書 53:5
この預言はキリスト生まれる七百年も前に告げられたものですから、十字架を見て預言したわけではありません。しかし、さながら十字架のもとにたたずんで、十字架を見た人が語ったような描写です。これはイエスさまが十字架で刺し通され、砕かれたということを見事に表しているからです。
その苦しみはいったい何のためだったのでしょうか。キリストはなぜ十字架で死ななければならなかったのでしょうか?それは「私たちのため」です。それは私たちの罪のため、私たちの咎のためだったのです。「私たちのために」ということは「私たちの代わりに」ということでもあります。彼が刺し通され、砕かれたのは、彼がそれほどの苦しみを受けられたのは、私たちの身代わりのためだったのです。彼への懲らしめによって、私たちはいやされ、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです。
(祈り)
主なる神さま、キリストの受けた傷によって癒やされた私たちが健やかに過ごせますように。
キリストが受けた苦しみによって、私たちに与えられた平和を保ち続けることができますように、主の御名によって祈ります。
今日の聖句2025年5月
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