今日の聖句  2025年10月    nagarenohotori      

      聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています


10月19日日曜日
ヨハネの手紙一 4:21
 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

(黙想)
この章では、私たちが神の愛によって、キリストにあって生かされてく者とされた、ということが書かれています。神のなだめの供え物によって、私たちの罪が取り除かれ、私たちはキリストのうちにいる者とされました。ですから、罪を犯していない義人としてみなされて、聖なる者とみなされています。ここに愛が完全なものとされています。ですから、さばきの日、白いさばきの御座において、私たちは大胆になることができます。さばきを受けて、罰せられる恐れがないのです。
 神がまず私たちを愛してくださり、その愛にとどまっているので、私たちは兄弟を愛します。そしてヨハネはここで、非常に分かりやすい事を述べています。目に見えるものを愛することのほうが、目に見えないものを愛するよりも、はるかに容易だからです。 ヨハネは兄弟を愛することがキリストから受けている命令であることを言っています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。

(祈り)
天の父なる神さま、御名を崇めます。私たちに愛と言う心温まる言葉を教えてくださり感謝いたします。また、あなたは、愛と言う言葉が私たちを導く本当の生きた言葉であることを気づかせてくださいました。どうか、愛をぼかすことを行わないで、愛の持つ力を、私たちの生活のなかで、発揮できるように導いてください。

10月18日土曜日
エフェソの信徒への手紙 1:4, 7
 [4] 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
 [7] わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

(黙想)
「これは豊かな神の恵みによるもの」とあります。ローマ書5章には、「罪が増し加わるところには、恵みが満ちあふれました。」とあります。私たちが罪人であるにも関わらず、いや、罪人だからこそ、とてつもない祝福を受けました。「ちょっと待ってください!正しい者が祝福を受けるのではないのですか。正しいからこそ、祝福を受けるに値して、正しくない者は罰を受けなければいけないのではいのですか。」と聞くかもしれません。「悪い者だから祝福を受けるなんで、それは不公平ではありませんか。」そうなんです、神はその不公平をあえて行なわれたのです。むろん、神は不公平な方ではなく、公平な方です。えこひいきなく罪人をさばかれます。
 しかし問題は、だれひとり義と認められないことなのです。だれも救われることはありません。そこで、神はあえて不公平なことをされました。それは唯一正しい方であるキリストを罪人として数えられ、罪人である私たちを正しい者とみなされたのです。キリストの義が私たちに転嫁され、私たちの罪がキリストに転嫁されたのです。罪を犯したことのない方を打たれて、罪を犯したものをまるで罪がないようにみなされたのです。これが恵みであり、私たちにこの恵みを注いでくださいました。

(祈り
神さま、あなたの 霊を注いでくださったことを感謝します。 聖霊は私たちが弱い時に助けてくださるからです。 私たちがどう祈るか、分からない時に、聖霊は私たちの代わりに祈ってくださっています。 愛する神さま、あなたに目を注ぎます。 あなたは私たちの信仰を造り、 完成してくださるからです 。あなたを見失うしたように私たちを助けください。

10月17日金曜日 
テサロニケの信徒への手紙一 5:10
 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。  

(黙想)
  主イエスが私たちのために死んでくださったのは、私たちも死ぬからです。 私たちは元気な時があり、 疲れ果ててしまう時があります。心が死んだようになることがあり、 この体も いずれ死を迎えます 。しかし、 聖書は言います。 死んだ私たちを一人にしない主がおられると。主は 死んだ私たちと共にいて、死んだ私たちをも支えてくださると言うのです。 私たちと共に死をもぐり抜け 、私たちを再び生かしてくださると 。私たちは自分がそう 意識している時だけ主イエスとともに生きるのではありません。信仰 に燃えている時もそうでない時も、死んだ時も、 私たちを見捨てず、 私たちと共にいてくださる主がおられるのです。 この方が私たちを生かしてくださり、 蘇らせてくださっています。

(祈り)
天の父なる神さま、高齢化社会になり、見守りの必要な人が増えています。どうか、私たちの社会が弱者、子ども、病気の人、高齢者など、助けを必要としている人々のお世話(ケア)に励むところとしてください。私たちの力の及ばないところを、主キリストが見守ってくださる、助けてくださることを信じて、主に委ねて歩むことができますように助けてください。

10月16日木曜日
マタイによる福音書 6:9-13
  だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められますように。 御国が来ますように。 御心が行われますように、 天におけるように地の上にも。 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。  わたしたちの負い目を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。  わたしたちを誘惑に遭わせず、 悪い者から救ってください。』

(黙想)
 イエス・キリストは主の祈りにおいて『天におられるわたしたちの父よ」  と呼びかけるように教えておられます。「 わたし」ではありません 「 わたしたちの父よ」との呼びかけ こそ、 主の祈りの基礎であり、 この呼びかけ の上に 、主の祈りのすべての言葉が真実となるのです。「わたしたちの父よ」 という時のわたしたちには誰が含まれているでしょうか。そこで思い浮かべる人たちこそ、わたしたち一人一人によってもたらされる神の国の 範囲なのです。 キリストはわたしたち一人ひとりを中心に この範囲が広がっていくことを願っています。

(祈り)
天にいます私たちの父よ、御子イエス・キリストの祈りがわたしたちの祈り となり 、わたしたちの祈りがキリストの祈りとなりますように。どうか、天と地が一つとなる祈りを祈ることができますように。祈り会において祈る皆の祈りがわたしの祈り となり、わたし の祈りが皆の祈りと成させてください。

10月15日水曜日
ルカによる福音書 10:17-20
 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

(黙想)
 悪霊が自分に服従するのを見ることは、すばらしいことです。けれども、もっとすばらしいことは、自分の名が天に書き記されていること、自分が神に受け入れられていることです。弟子たちに与えられた権威はみな、この神との関係があるからでした。イエスを主とし、イエスに自分のすべてをささげているその関係から、キリストの権威と力が現われ出ます。ですから、自分が主にささげていない部分があるのに、この力と権威を用いていけると期待してはいけません。いや、用いていけるかもしれないですが、終わりの日に、「不法を行う者ども。わたしから離れて行け。わたしはあなたを全然知らない。」と言われてしまうのです。ですから、大事なのは、
神ご自身を見つめることです。回りの出来事を喜ぶよりも、主ご自身を喜びます。自分に与えられた神のご計画を知りたいと願うよりも、神ご自身を知りたいと願います。状況が良くなることを望むよりも、主ご自身に希望を置きましょう。

(祈り)
天地の造り主なる全能の神さま、私たちは時々、他の人が活躍するのを見て、私も人から称賛されることを求めたりしています。神さま、こんな愚かなことを求めようとするのではなく、あなたの御業を見つめ、あなたの大きな愛によって、心を豊かにすることを求めさせてください。

10月14日火曜日
ルカによる福音書 8:43-44
 ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。  この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。

(黙想)
彼女の不幸な人生は、12年前に始まりました。何と長きにわたって苦しまれたことでしょう。彼女は自分の生活費を全部使い果たすほど、医者に頼りましたが癒されることはありませんでした。この女性はもう何もすることができなくなって、イエスさまに頼って来たのです。
 だれにも直してもらえなかったこの女性は、イエスの後ろに近寄って、イエスの着物のふさにさわリました。すると、たちどころに出血が止まったのです。イエスさまは、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われます。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言いました。イエスさまの言われた、「さわった」とペテロの受け止めた「さわる」は意味が違いました。イエスさまにさわるとは物理的なことではなくて、人格的なことだったのです。
 そして、イエスさまは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」と言われました。信仰によってイエスさまから力が出て行ったのです。信仰によるイエスさまとの触れ合いがこの女性を癒したのでした。

(祈り)
天の神さま、御子イエスさまは病に苦しむ多くの人々をお癒しに成られてます。神の子としての力が表されるからです。病に限らず、私たちを悩ますあらゆることに、神の子の力が及んでいます。どうか、この神の子の力をいただいて、いのちの平安を得ることができるように、主のお名前によって祈ります。

10月13日月曜日
ヘブライ人への手紙 13:8
  イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

この個所は、キリストに従っている者は、キリストがいつまでも変わらないように、その生活に一貫性があるということを伝えています。ある時にはこう言い、またある時にはまた違うことを話すような人ではなく、周囲がどんなに変わろうとも、いつまでも変わらず、真実の言葉を話している人ということなのです。
 敬虔な人はいつの世にも存在しています。その人たちの信仰の足跡にならっていくことは、大切なことです。自分ではどのようにしてキリストに従えばよいかわからないことも、敬虔な人がキリストに従うその姿を見て、ならうことができます。そうすることによって、キリストの言葉が、いつまでも変わらないことを学ぶことができます。

(祈り)
天にいます私たちの神さま、私を憐れんでください。私の魂は、さまざまな思い煩わいによって力を失っています。どうか、変わらないキリストの言葉によって、私のたましいを生き返らせ、力を与えて、み心を行わせてください。

10月12日日曜日
イザヤ書 46:3-4 新共同訳
  わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。 あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。 わたしはあなたたちを造った。 わたしが担い、背負い、救い出す。

(黙想)
 背負って歩くことはどのようなことでしょう 。それは同じ目的地に必ず一緒に行くということです。 一体となるということです 。決して見捨てないということです 。日々の生活の中で、私たちは疲れ果て、 病に倒れることがあります。様々な苦しみの中で、もう一歩も歩けないと思うこともあります。 あるいは、罪や過ちを犯し、自分自身を蔑み、 絶望することもあるでしょう。 しかし、神は言われるのです。「 私はお前が生まれる前からお前を背負ってきた。 今も背負っている 。これからも 永遠に背負い続けるのだ。」と。疲れや苦しみにあえぐ私たち、不満や 苛立ちで自らを失い、罪に汚れた  こんな者でさえ、 神は背負い見捨てることはないのです。 置いておくことはないと言っておられるのです。 この方の大きな背中に背負われていることがわかる時、自分が背負っていたと思っていた大きな荷物も背負ってくださっていたことがわかるのです。 この罪も、この汚れも、この苛立ちさえ 背負ってくださっていたのです。

(祈り)
天の神さま、あなたは私たちと共に歩んでくださるばかりか、私たちを背負ってくださる御方であることを感謝いたします。幼児が、もう歩けないと言う態度を表すとき、さっと手を差し伸ばして背負ってくださる親のように、あなたは私たちをおぶってくださっています。自分ではどうすることもできない、問題を抱えたとき、どうか、あなたに打ち明けて、共に、歩いてくださるあなたのもとで、安らぐことができるように、尊い、主の御名によってお願いいたします。

10月11日土曜日
フィリピの信徒への手紙 4:13
 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

(黙想)
 パウロはキリストを伝えたことが原因で捕らえられ、牢獄に幽閉されていました 。そんな状況の中で、彼は以前 、イエス様を伝えた人々に手紙を書きます 。牢獄の生活の中から彼はイエス・キリストにある自由と喜びを語ります。 暗く 、自由を束縛された牢獄の中にあっても、キリストはパウロと共にいて 、キリストが与えられた 働きが止まることがなかったのです 。彼は外の世界にある教会の諸問題に心を配り 、人々の間に一致があるようにと、 手紙を書き 、神の言葉を語り続けます 。
 私たちはどうでしょうか。病気になったり、失業したり、家族と別れるなどの状況が起きたとき、キリストにある喜びを語ることができるのでしょうか。取り巻く状況は決して良いとは言えないかもしれません。 しかし 、そんな中でも、 私たちが喜びに満ち 、神の言葉を語ることができるのです、キリストが共におられるからです。私たちの心は揺れるでしょう 。しかし、キリストが私たちを強くしてくださる のです。目には見える状況よりも、さらに強く 私たちを握り  、ご自身の業を行ってくださる方が働いてくださるのです。

(祈り)
天の神さま、良いときだけでなく、苦難のなかにあっても、キリストを信じて歩む喜びを、言葉と行いによって表すことができるようならせてください。そればかりが、私たちと共に歩んでくださるキリストを今日も讃えて過ごすことができるように力を与えてください。

10月10日金曜日
エレミヤ書 18:6
 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」

(黙想)
 神は人を土のちりでお造りになりました 。そのため 聖書ではよく神を陶器師、人を粘土にたとえています。 神の姿に似せて造られ、神の命の息、神の霊を吹き込まれたのが人でした。 しかし、 自分を見ると、どこに 神の姿があるのだろうと思うほど、汚れ、 卑しい存在になり果ててしまっています。 しかし、神はそんな私たちを投げ捨てず、御手の中に握ってくださっています。 固まった粘土が自分では自分を変えられないように 、こり 固まった心を変えられない私たちがいます。 しかし、神はそんな私たちの心に 、命の水を与え 、柔らかくし、炉の上でご自分の望む形に変えてくださる、御心に叶う 器にしようとしてくださる。人生のろくろは 回ります 。そして、そこに私たちを包み込み 、造り変えてくださる神の温かい御手があります。 「お前たちは、わたしの手の中にある。」この方に任せて生きていくなら、いつか キリストの姿のようになる。私たちの希望は、私たちを創造し、御手の中で 造り変える 神から来るのです。

(祈り)
天の神さま、汚れた身体は洗うことによって清潔さを取り戻しています。どんな汚れもきれいになるものです。神さま、あなたは、汚れた身体のなかにある汚れた心(魂)をきれいにしてくださいます。どうか、あなたの手のなかで、私たちの身体と心が守られ、常に、汚れのないキリスト姿に似せられられたもの者に造り変えられるよう助けてください。

10月9日木曜日
ガラテヤの信徒への手紙 3:8-9
  聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

(黙想)
アブラムは、義と認められたとき、何一つ、自分で行ないをしたのではありません。ただ信じただけなのです。そして、その信仰が義と認められているのです。
 そして、その信仰によって、アブラハムは祝福を受けました。私たちも信仰によってその祝福にあずかります。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。パウロが引用している聖書個所は、創世記12章3節です。アブラハムがまだ父の故郷ウルの町にいるときに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と約束されました。そして、この祝福はアブラハムに注がれましたが、それは彼が信仰をもって聞いてからであり、彼の行ないによってではないのです。そして、この祝福の約束は、「すべての民族」にまで及んでいます。つまり、ユダヤ人だけではなく異邦人も、アブラハムに約束されたところの霊的祝福にあずかることができる、ということです。その条件は信仰であり、律法の行ないでありません。

(祈り)
天の神さま、異邦な人が、イエスさまに近づき、癒しを求めたとき、その信仰によって救いを与えられています。あなたが約束された通り、異邦人を含むすべての人が、信じることによって、あなたの憐れみと恵みに預かっています。どうか、あなたの前で異邦人である私たちが、あなたの語られる言葉を信じて、アブラハムと共に祝福を確かに受ける者とならせてください。

10月8日水曜日
ヨハネによる福音書 21:22
 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

(黙想)
 イエス様に従う道は、イエス様だけを見つめる道です。 私たちは他の人が気になりますが、 イエス様は、私たちの目が ご自分だけを見ていることを求められます。 もちろん、私たちは周囲の人を大切にしなければなりません。 無視してはなりません 。しかし 、イエス様に従うことに関しては 他の人は関係ないのです。 人が従おうと 従うまいと 、私がイエス様に従うことには何の関わりもありません。人が罪を犯しても、自分が罪を犯して良いわけではありません。人が大いに用いられても 、対抗心を燃やしたり、 劣等感を感じたりする必要もありません 。走る人は走って 、イエス様に従っていく。歩く人は歩いて イエス様に従っていく 。歩けない人は主に背負われて イエス様に従っていく。一人一人が イエス様と同じ道を行く のです。それは、十字架と復活の道です。 イエス様は他の人との関わりで 、私たちを見た りしなのです。「 あなたは私に従いなさい 。」イエス様が今日も私たち一人ひとりを招いてくださっています 。

(祈り)
主なる神さま、 あなたの憐れみと恵みによって私たちを守り 導いてくださることを深く感謝いたします。 どうか、あなたとの関係を正しく保ち、 あなたに仕えていく 気持ちを強めてください 。また、あなたに応えていく信仰の場、 あなたを信じ 従っていくところ 、あなたについていく 愛の小道へと、私を連れ戻してください。 キリストの名前によって 祈ります 。

10月7日火曜日
ヘブライ人への手紙 12:2
 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

(黙想)
私たちは、信仰と信心と同一する傾向があります 。信心は、神や仏教を信じる心です。 人によって信心の強さは違います。信心深いことは 宗教の世界では一つの特性とみなされ、 出家 、献身によって深まったり 、修業によって 強められたりすると考えられ 考えられたりします 。
 しかし、 聖書は言います。信仰 は人に属する特性ではないと。信仰は、私たちが修業 精進したり 、心を整えることによって深まったり 、完成する 心の状態ではないのだと。信仰は実体である 。キリストが十字架と復活によって完全な信仰を作り 、これを私たちに与えてくださったのだと言うのです 。信心は私が死んだら同時になくなってしまいます 。その前に 認知症によって消えてなくなるかもしれません 。しかし 、キリストが与えてくださった信仰は、永遠に失われることはないのです 。宗教 人は自分の、そして他の人の信心を問題 しようとします。 しかし 、聖書はこの信仰を 永遠に 完成したキリストが 指し示し、このお方から目をそらすな と教えます。私たちも自分や人の信心を見るのではなく、信仰を完成なさったキリストを見つめ、その信仰によって歩もう ではありませんか。

(祈り)
とこしえにいます 天の神さま、あなたは御子キリストを通して、私たち 真の信仰を表し、その信仰を持っように導いてくださいました。。私たちは弱く、未熟な者ですが、キリストの十字架の血潮によって与えられた信仰が、私たちを強め、み国を継ぐ者へと導いています。神さま、どうか、この信仰を硬く保って、終わりの日まで持ち続けることができるようにしてください。


10月6日月曜日
ヤコブの手紙 5:15-16
 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。  だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

(黙想)
 病気と罪とは関わりがあるときがあります。なんらかの罪を犯しているために、それが肉体的な病となって現われるときがあります。例えば、だれか人を恨んで、憎んでいると、その霊的な病気の状態が精神的にも現われて、その人は自律神経症になったり、その他の精神的病を患うかもしれません。そして精神的に起こっていることは、今度は生理的な影響となって現われ、実際に肉体を患うこともあります。ですから、病と罪は関係があるときがあります。
 けれども、もちろんすべての病が罪に由来するのではありません。イエスさまが、生まれつきの盲人をごらんになられて、彼がそうなっているのは、その人の罪のためでもなく、両親の罪でもなく、神の栄光が現われるためだ、と言われましたが、そのような病もあるのです。またアダムが罪を犯して、土地はのろわれたものとなりましたから、そうした不完全な世において、病気からだれもまぬかれることはできないと言えます。
そこに信仰の祈りの力が求められるのです。なぜなら、信仰の祈りは肉体の病を癒すだけでなく、その人の罪も赦す力を持っているからです。

(祈り)
あらゆる知恵の源なる神さま、あなたはいかなる時にも私たちの祈りを聞いてくださいますから、感謝します。特に病んで痛むとき、苦しむとき、肉体の癒しだけでなく、心に平安をも備えてくださるので、御名を崇めます。どうか、私たちの特権である、信仰による祈りを、これからも励むことを導いてください
10月5日日曜日
詩編 145:14-16
 主は倒れようとする人をひとりひとり支え うずくまっている人を起こしてくださいます。 ものみながあなたに目を注いで待ち望むと あなたはときに応じて食べ物をくださいます。 すべて命あるものに向かって御手を開き 望みを満足させてくださいます。

(黙想)
 主なる神の国は、恵み深さにおいてこの地上で明らかにされていきます。私たちが、しっかりしている人々の中で神の国が存在し、そうではない者たちは埒外だと思ったら、大きな間違いです。倒れている者を支えるところに、かがんでいる者たちを起こされるところに、神はご自分の国を現されます。そして、人々の基本的な必要、食事であるとか、そのような生活の基本を神は責任をもって賄っておられます。私たちはどんなことがあっても、乏しくなることはありません。それは神が恵み深いお方だからです。

(祈り)
天の神さま、あなたの造られた世界が、あなたの偉大さを伝えています。その偉大さは、独裁者の偉大さではなく、その心に愛がある偉大さと教えています。それは、また、この神さまを信頼する者を見捨てることはないと確信させています。どうか、私たちの偉大な神さまを信じる信仰が、本当に喜ばしい感謝に満ちあふれるように導いてください。

10月4日土曜日
コリントの信徒への手紙一 1:2
 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
コリントの信徒への手紙一 1:8
  主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。

(黙想)
 パウロが手紙を書き送った コリント 教会には、深刻な内部対立がありました。性的な乱れ、 礼拝の混乱、 弱者の抑圧などもあり、 これが教会なのかと言いたくなるような状況だったようです 。このような問題に対する解決を与えるために、パウロは何度も手紙を書き送るのですが、その冒頭で、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」と 呼びかけます。
 パウロのこの希望と確信はどこから来るのでしょうか。 確かにコリント教会には大きな問題がありましたが、 そんな彼らを「聖徒」として召された方の御心は変わらないからです。 彼らを聖めたイエス・キリストの十字架の血の力と効力は永遠に変わることはないということを 、パウロはまず明らかにしているのです。
  問題だらけの私たち、しかし、 そんな者に責められるところ ない者という立場を与え、 私たちを 御手の中で固く 保ってくださってる方がいるのです。 キリストは言っておられます 。「わたしは、十字架の上で血を流し、 お前を 買い取った。お前はわたしのものだ。 誰にもお前を責めさせないと」。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたは私たちをキリストの教会に加え、聖なる者とならせてくださいました。感謝します。どうか、この変わらない恵みを自覚し、どんなことがあろうとも、私たちを守ってくださる御方の御手のなかで安らぐことができますようお導きください。

10月3日金曜日
ローマの信徒への手紙 13:14
 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

(黙想)
 私たちは、自分が持っている一番良い服を着る時、どうするでしょうか。 お風呂に入ったり、シャワーを浴びたりして体を洗い、髪を整え 、お化粧をしたり 、髭を剃ったりしませんか 。そして 鏡の前に立ち 、 どこもおかしなところがないことを確認してから外出しませんか 。汚い体、ボサボサの髪のままで綺麗な服を着たいとは思わないものです。 良い服は、あなたを素晴らしく 映し出します 。だから、自分自身も 最高の状態でいたいと思うのではないでしょうか。
  私たちは最高の衣装を着てどこに出かけて行きたいのでしょうか 。何をしたいのでしょうか。 誰に会いたいのでしょうか。 イエス様を心に着ることができたら 、イエス様はきっと その 気高い人格で私たちを 素晴らしく 映し出してくださいます 。その時、私たちは、イエス様にふさわしい心の持ち主でありたいと願うようになるのです。

(祈り)
天の神さま、主イエス・キリストを 心に着ることができますように。 主イエス・キリストを 着た者として 、私を生かしてください 。どうか、私の心のなかで、肉欲を用いて キリストを主として生きることを妨げているものがあれば、すぐに取り除いてください。そして、主イエスによって その汚れた心を洗い清めてください。主の御名によって祈ります。

10月2日木曜日
マタイによる福音書 5:34-37
  しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

(黙想)
キリストは決して誓うなと教えておられますが、誓いと契約、 あるいは 誓約を混同すると、 この教えの意味がわからなくなります。 契約は違反した場合、何らかの報い 、罰が与えられることが規定されているものです 。一方 単なる 誓いはそれが何にかけて誓ったものであれ 、不真実な言葉の世界の出来事です 。なぜなら誓いは果たされなくても、自分に損害が及ばないということを前提としているからです。 決して誓うなとは、不親切な言葉の世界から 、真実の言葉の世界に移し替えられるよ 、という教えなのです。 神の真実、 神の子 キリストの真実と言葉に 触れられる時 、私たちの中に死んでいた真実がよみがえり 、それに応える 、そのような真実の世界がある のです。これに 私たちを生かすために 、キリストは十字架にかかり蘇られたのです 。私たちは 右往左往するでしょう 、行ったり来たりするでしょう 、倒れることもあるでしょう 、しかし 真実を持って 触れてくださる神は、私たちを信じ抜き 、この真実の言葉の世界に生きる者へと 造り変え、 導き続けてくださるのです。

(祈り)
天の神さま、、あなたが私たちが 誓った言葉によって操られたりなさらない方であることを感謝します。 どうか、私の語る 話の中から全ての 見せかけや、 わざとらしさを取り除いてください 。私 の 語る 一語一語 が、 イエスさまによって教えられた愛の言葉となり、 その内容も真実を伝えるものとなることができるように導いてください。

10月1日月曜日
ローマの信徒への手紙 10:17
  実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

(黙想)
 言葉は 内的世界と外的世界の間に開いた窓です。 言葉を聞くことによって、私たちは外の世界の価値観を内定に取り込みます。 確かに、私たちは言葉によって多くのことを学びます 。そして、私たちの人格は、自分が聞く 言葉によって形成されるのです。 私たちは、どのような言葉を聞き続けているでしょうか 。誰の言葉を聞いているでしょうか。 キリストは言われました。「 死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。 」(ヨハネの福音書5章25節)と。
 聖書の言葉の中にキリストの声を聞く 。その時、私たちの内に、それまでとは全く違った 新しい 人格が作り出されます。 罪の中に死んでいた者の中に、新しい神の子という実存が生み出されるのです。
 キリストの足元に座り 心の耳を澄ましてみよう。 聞くことを求めるもの願いにキリストは 答えてくださいます。

 (祈り)
天の神さま、今日の聖句を感謝します。今日も 聖書の言葉の中にキリストの声を聞くことはできますように 。 また自分が受け止めるのはキリストの言葉なのか、自分の言葉なのか、 それとも 、誰か他の人の言葉なのかを振り返り、キリストの言葉を豊かに宿らせ、その言葉を味わいさせてください。




9月30日火曜日
ペトロの手紙一 5:10-11
  しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。

(黙想)
これは、ペテロの手紙の集約のような言葉になっています。まず、私たちは、「あらゆる恵みの源である神」に出会いました。キリストの血潮を注がれるように選ばれて、新たに生まれ、天における資産を受け継ぐ者とされました。これは、大いなる恵みです。そして、「永遠の栄光」の中に招き入れられています。苦しみがあっても、目の前には、栄光の主と、輝きに満ちている天が間近にあります。
 そして、「しばらく間苦しんだ」とあります。苦しみではなく、しばらくの苦しみです。この地上で生きている時は少ないことをペテロは強調しています。そして、苦しみを通して、「完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがない」者となります。これが苦しみの目的です。木は、ひどい嵐が襲ってきても引き抜かれることがないのは、根を深く張っているからです。けれども、その木は、ふだんから、頻繁に風に吹かれていることによって、さらに深く根をはります。いつも風によって吹かれているのに、根を深く張り、実際に嵐が襲ってきたときに、耐えることができるのです。私たちも、信仰の試練がいつもあり、いろいろな苦しみがあり、そうして大きな苦難が与えられても、それでも動じない者になることができます。

(祈り)
天の神さま、 私の心を清め、 ひたすら あなたを愛し、 またあなたから愛されていることを喜ぶことができますように。 あなたを信頼して自らを全く委ねることができ 、あなたへの 変わらぬ 信仰で満たされますように。 この世の何かを慕う 卑しい愛に落ちたり、 この世の心遣いで塞ぎ込むことがありませんように、どうか、私を助け、 悪しきことを厭わせ、 良きことに親しませ 、永遠の栄光に預からせてください。




日の聖句2025年9月
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