今日の聖句 2025年11月 nagarenohotori
聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています
11月30日 待降節第1主日
ゼカリヤ書 9:9
娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
(祈り)
天の神さま、今年もアドベントを迎えることができますことを感謝いたします。私たちの救い主が王としてロバに乗って来られるときがやって来ました。この王は柔和でへりくだって、平和の王であることを現しています。神さま、争いの多いこの世界にあって、私たちを救う為に来られ、平和をもたらしてくださるこの御方を、私たちも歓喜の声をあげてお迎えすることができますように、そして、御心がこの世界に実現することを願って、アドベントの時を守らせてください。主の御名によりて祈ります。
11月29日土曜日
コロサイの信徒への手紙 1:21-22
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。
(黙想)
聖書の中で最初に祭司として任命された人はアロンです。 彼は宗教的達人だからはほど遠く 、人の言葉に従って偶像を作り 、偶像崇拝者のお先棒を担いだことのある人でした。私たちの目から見ても
決して 「聖なる人」などとは言えない 俗人でした。 しかし、神さまはそんなアロンを聖別し、 祭司となさるのです 。聖書が言う「聖」とは、「他のすべてから
隔絶された 、区別されたという意味です。 他の用には決して用いられないものを 「聖なるもの」 と呼びます。 そして、何を「聖」とするかは、神さまだけが神さまの方法でお決めになるのです
。人の基準や努力が入り込む余地が全くないのが、 神さまが決める「聖」の世界です。
私たちは罪深いものです。 しかし、神さまはそんな私たちを 「聖なる者」として受け入れてくださると聖書は言うのです。 イエス·キリストの十字架の血が私たちに注がれる時、
私たちは「 聖なる者」とされ、私たちを 「聖なる者」として 、そばに呼び、 ご自分のために用いてくださる 神さまがおられるからであります。
(祈り)
愛する天の神さま、 あなたの 聖なる御名を讃えます。あなたが私たちを聖なる者として、用いてくださっておられるからです。どうか、今日、私が利己的に振る舞うのではなく、あなたの御心に従って過ごすことができるように、私の思いを清め聖くしてください。尊い主の御名によって祈ります。
11月28日金曜日
ヨハネによる福音書 1:49-51
ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
(黙想)
イエスは、「人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」と言われました。つまり、イエスは、「わたしがこのはしごである。」とおっしゃっているのです。天と地をつなぐのは、わたしである、とおっしゃっているのです。無限の神と、有限の人間の間にはあまりも大きな溝があります。人間はとうてい、神に到達することはできません。けれども、神は人となってくださり、私たちの間に住まわれました。いまやイエスによって、神に大胆に近づくことができるのです。イエスは、その証拠を2章から、カナにおける婚礼において示されます。イエスは、創造主なる神であることを、わたしたちにも示されるのです。
(祈り·
天の神さま、神の子の存在を感謝します。神の子としてイエスさまを受け入れることができますように。あなたが遣わされたイエスさまを通して、創造主である神の御業を認めることができますように。どうか、イエスさまの十字架によって神の愛をつかむ恵みを讃えることが喜できるように、救い主のお名前によって祈ります。
11月27日木曜日
マタイによる福音書 14:29-32
イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
(黙想)
ペテロの失敗は、イエスから目を離して、状況を見てしまったことです。そして、こわくなったら沈みかけたのです。これも、私たちに対する教訓です。悪魔は、私たちが状況に目を止め続けるように仕向けます。そうすると、恐れが私たちの心に入ってくるので、信仰を失ってしまうのです。恐れと信仰は相容れないものだからです。しかし、私たちがキリストを見つめる時、その信仰によって、私たちには出来ないことが出来るようになります。パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)」と言いました。逆にイエスは、「私を離れては、あなたがたは何もする事ができないからです。(ヨハネ15:5)」と言っています。
(祈り)
父なる神さま、信仰の薄い私たちを赦して 、御手 を伸ばして捕まえてください 。私たちの神さまに対する信頼の心を強くしてください。どうか、私たちが神様の変わらない愛と限りない力に守られていることを信じることができるようにお導きください。
11月26日水曜日
ヘブライ人への手紙 10:21-22
わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。
(黙想)
苦しみに遭う時に、問題なのは、その苦しみに耐えられないことではありません。苦しみの中でも、神への道は開かれています。いや、苦しみにいる時こそ、主はご自分の民が近づく時に近づいてくださいます。
神が近づいてくださるのです。預言者イザヤが、神の証しを立てている時に、強い圧迫を受けました。人々には聞こえが良いものではない、人気の出ないことを語らなければいけなかったのです。そこで、主は彼を励まされました。「イザヤ
8:13-14a 万軍の【主】、主を聖なる者とせよ。主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき。そうすれば、主が聖所となる。」 主が聖所となる、つまり主がそこにおられることを、苦しみの中にいる時に、平素の時以上に知ることができるのです。
(祈り)
主なる神さま、私たちが恐れなく、主に仕える者となりますように、あなたがご自分の為に私を用いてくださいますように、その為に清められますように、あなたの御前に近づいて祈らせてください。
11月25日火曜日
11月24日月曜日
テモテへの手紙二 2:8-9
イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。
パウロはとにかく苦しみを耐えなさいと言っているのではありません 。福音のために受ける 苦しみを、神の御業というよりもっと広い視野の中で受け止めるように勧めています
。それは、ダビデの子孫であり 死者の中から復活したキリストを いつも思うことであり、私たちの苦しみは神に選ばれた人たちの救いにつながるということだからです。あなたは、福音のために苦しみを受けていますか?
天の神さま、福音を誇る者へと私を造り変えてください 。あなたのために苦しむ 誉れを私に教えてください。 どうか、 福音のために受ける 苦しみがやがて実を結ぶことを学ばせてください。
11月23日日曜日
ヨハネの手紙一 4:10-11
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
(黙想)
中世に 日本にキリスト教を伝えた宣教師たちは「神の愛 」「隣人愛」と訳されている言葉を『大切』と訳しました。『 大切』とは 最優先に取り組むべき事柄
、最優先に価値を認めるものというのが、当時 使われていた意味です。 大切とは気持ちを超える力であって、具体的行為を持って他を生かす 命です。キリストは、ご自分の命を捨てて
十字架にかかり 、私たちの罪を覆ってくださいました。 罪深い私たちを、ご自身の命よりも価値ある 最優先事項として取り扱ってくださったのです 。キリストの十字架によって
、真実の愛とは何かが私たちに分かったのです。
私たちも、自分自身ではなく 私たちの 隣人 、兄弟を私たちの最優先事項とするとき、感情を超えた豊かな命が私たちの隣人と私たちを生かすようになるのです。
(祈り)
めぐみ 深い 天の父なる神さま、私たちを愛して大切に取り扱ってくださることを感謝いたします。多くの人が愛を気持ち(感情)だと思っています が、私たちの気持ちは
日々揺れ動く不確かなものです。 神さま、どうか、気持ちを超えて私たちを 尊く扱ってくださるその力によって、真実の、不変の愛に触れられることができるように、わたしたちをお導きください。
11月22日土曜日
イザヤ書 48:10-11
見よ、わたしは火をもってお前を練るが 銀としてではない。 わたしは苦しみの炉でお前を試みる。 わたし自身のために、わたし自身のために
わたしは事を起こす。 わたしの栄光が汚されてよいであろうか。 わたしはそれをほかの者には与えない。
(黙想)
「艱難 汝を玉にする」ということわざがあります。 苦しみを経ることによって人格が磨かれ、 輝く 玉になるという意味です。 聖書の中にも 銀の精錬
を例えに、苦しみが人格を鍛え上げるという箇所があります。 しかし、玉を磨くのと、銀を精錬するのは根本的に違います 。人を磨くだけではその価値は
明らかにされません。その中にある罪や汚れた思い、 それはどんなに 磨いても輝くことはないのです 。神さまはこれを取り除き 、真に価値ある ご自分の子の真の姿を明らかにしようとしておられます。
神さまご自身が私たちを人生の苦しみ悩みの炉の中に置かれます 。そこで私たちの中にある高慢 貪欲 汚れ 偶像崇拝の罪を取り除かれるというのです。
し
かし、神さまはそこに私たちを放置してるのではありません。 この方は銀を精錬しこれを清めてくださいます。人生の苦しみは私たちを 卑しめることはできません。
いやむしろ私たちは純粋なものとされ 神さまの光を反映するものとされるのです。
(祈り)
天の神さま、寒い中にあって、それなりに工夫し、寒さに負けないように過ごし、あなたに守られている恵みを感謝します。たとえ、風邪を引いても、それを乗り越えられるように知恵と力か与えられているので感謝します。どうか、日々の生活のなかでの様々なことを通して、わたしたちが強められ、整えられることを、神さまにあって喜ぶ信仰を与えてください。
11月21日金曜日
ヤコブの手紙 1:27
みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
人は持てるものによって人生の価値を測ろうとします。 しかし 、人の目には全てを失ったように見えるものをご自分の姿に見せて 創造し、その無限の価値と尊厳が守られることに最大の関心を寄せておられるお方がおられます。
主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」 と言われましたが それはこのような一人一人の尊厳を回復することに あなたの力を注げということです。
あなたの手によって神の支配、神の支援がもたらせる人がいるのだと。自分の思いを満たすことに心が奪われている私たち。 そうではなく、主のお心を自分の心とすることが求められています。
愛する 天の父なる神様、あなたに感謝します。 私があなたに全てを捧げるなら、 あなたから全てを与えられるからです。 神さま、あなたが ご自分のために私を用いてくださいますように、御前
で聖なる正しい生活を送ることができますように 主の名によって祈ります。
11月20日木曜日
ガラテヤの信徒へ手紙 2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
(黙想)
私たちは、キリストの死とよみがえりに結びつけられています。私たちがキリストとともに十字架につけられたことによって死んでいます。キリストが2千年前に死なれたとき、実は私たちもそこで死んでしまったのですが、その事実は今の自分にも有効である、のです。私たちは、今も、キリストとともに十字架につけられているのです。このことをまず信じてください。したがって、私たちは今生きておられるキリストに信仰を置くのです。生きておられるキリストが自分のうちに生きておられることを知り、この方に指示を仰ぎ、この方の力に拠り頼み、この方の愛に浴するのです。
(祈り)
愛なる神さま、取るに足らない私のためにご自身をささげてまでも愛してくださったイエス·キリストを 心より感謝いたします。どうか,主の愛に応えて、ささ
げられることを求める生活より、ささ げる生活へ、 愛することを欲する生活より、愛する生活へと造り かえられれ、み恵みにふさわしい豊かな実を結ぶものとならせてください
。愛の主 キリストの皆によって 祈ります
11月19日水曜日
マタイによる福音書 20:25-27
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
(黙想)
イエスは、ご自分のいのちを与えるまで、仕えておられました。そして、ここの箇所では、イエスが父なる神に仕えられたように、あなたがたはキリストに仕えなさいと語っています。ここに、「異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」とありますが、私たちのお互いの関係の中で、自分の思っているようになってほしい、自分の必要が相手から満たされたい、という思いでいるならぱ、この異邦人の支配者と同じです。私たちが人々に仕えるとき、決まってそうした気持ちが出てきます。すると、人々に仕えたり、親切にしているつもりなのが、いつの間にかその人から何かをもらいたいと願ってしまうのです。そして、それはまさに、人々を支配したいという気持ちなのです。
人々に親切にするとき、人々に何か必要としているものを与えようとするとき、一歩下がってキリストを自分の前に置いていてください。人々と直接結びつこうとせずに、必ずキリストを中に挟んで結びついてください。その時にはじめて、兄弟姉妹が互いに謙遜になり、互いに仕え合うことができるのです。
(祈り)
父なる神さま、私たちに喜んで 人に仕えることのできる心を与えてください。私たちは仕えることよりも仕えられることを 好み 、与えるよりも与えられることを喜ぶ心を持っていますが、満ち足りる事はありません。どうか、
神様が価なしに与えてくださったことを忘れず、 私たちも 報いを求めずに与えることができるようにならせてください
11月18日火曜日
ローマの信徒への手紙 4:17-18
「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
(黙想)
信仰を持つということは、神の恵みを知っているだけではなく、神の力を知っていることでもあります。
神は、死んでいる者を生かすことがおできになり、何も無いところから有形のものを創造する力を持っておられます。この全能の神をアブラハムは信じていたのであり、私たちもこの神を信じているのです。アブラハムは、イサクをささげるとき、この子から神の祝福がもたらされるという約束を信じていました。けれども、イサクをほふりなさいと言われたのも、同じ神です。したがって、神は矛盾するようなことを言われたのですが、アブラハムはどちらのみことばも信じました。そこで、彼は、わが子イサクをほふっても、神はこの子を死者の中からよみがえらせてくださる、と信じたのです。神なら、そのようなことがおできになると信じました。
私たちが信仰を持っているというのは、人間ができることのみを信じることではありません。むしろ、人間には不可能であることが神にあって可能になることを信じているのです。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。(マルコ10:27)」というイエスさまのことばを信じなかったら、弟子たちは主の復活を信じることはできなかったでしょうし、私たちもクリスチャンになることはできません。そして、私たちが、日々の生活の中で、同じように望みえないときに望んでいるときに、信仰によって生きていると言えます。
(祈り)
天の父なる神様、私たちにもアブラハムの信仰に従う者として、 あなたの約束を信じて生きることを許してください。 どうか、 私たちの力に基づく行動でも、生き方でもなく、
私たちの主イエスを死人の中から 蘇らせた方を信じることによって義とされるのだということを、感謝と喜びを持って 見いだすことができますように、
主の御名によって 祈ります。
11月17日月曜日
マタイによる福音書 5:11-12
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
(黙想)
ここで、「わたしのために」とありますから、自分が何か悪い事をして、人からいやなことを言われたりいじめられたりするのは、ここには当てはまりません。あくまでも、義のために、キリストのために迫害されるものが幸いなのです。
先ほどは、「天の国はその人たちのものである。」とあったのに、ここでは、「天には大きな報いがある。」と変わっています。私たちは心の貧しさによって天の御国に入り、迫害によって報いを受けます。この過程が、幸いなる者、あるいは、悔い改める者の特徴です。
(祈り)
主なる神さま、私を主の業に常に固く 、豊かにつながっているように支えてください 。私の中に正義を根付かせてください 。常にあなたに対して誠実でいられるようにしてください。
どうか、喜びのうちに 、私があなたを証し することができますように 、そしてまた喜びを持って自信を持って 、あなたが救い主であることを告白できるようにしてください。
主の御名によって祈ります。
11月16日日曜日
使徒言行録 7:59-60
人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
(黙想)
サウロ(後のパウロ)は、ステパノの説教を聞いたあとで気が狂っているかのように迫害していきます。
ところがステパノの反応を見てください。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。わたしの霊をお受けください。」そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
石で打たれているものすごい激しい痛みのなか、ステパノは主イエスが十字架の上で死なれたときと同じことばを語りました。「わたしの霊をお受けください。」「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と言って、眠り、つまり死にました。彼は、イエスが言われた、「敵を愛しなさい。敵のために祈り、祝福しなさい。」という言葉をそのまま守った人です。
けれども、注意しなければならないのは、これはステパノの精神力から来たものではなく、聖霊に満たされたことによって行なうことができたものである、ということです。主イエスを見つめ、その栄光を見て、この言葉を叫びました。ですから、私たちも、困難に直面するとき、主イエスを見つめてください。「主イエスさま!」と叫んでください。イエスさまは必ず私たちを助けて下さり、ご自分を私たちに現わしてくださり、そして、私たちが直面する困難に耐えることができるほどの力を与えてくださいます。必ず与えてくださいます。大事なのは、主イエスの御名を呼び求め、主イエスに目を注ぐことです。
(祈り)
天におられる私たちの父なる神さま、 この地上において 私たちは旅人であり、 天国を目指して歩む 存在であります。 どうか、私を天の国の中に招き入れてください。私たちの生活は、ともするといろんな誘惑が待ち受けています。
神さま、どうか、私たちが 信仰を持って歩むことができるように 、また他の人の罪が赦されるように祈り求めて行くことができるようにならせてください。
11月15日金曜
テモテへの手紙一 1:5
わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。
この命令とは作り話や切りのない系図を話すことでした。つまり、偽の教えです。
キリスト教会の中では、さまざまな神学的、教理的議論が起こります。その時に気をつけなければいけないのは、その議論が、「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらす」ものであるかを気をつけなければならない、ということです。例えば、予定論について、多くの人が議論します。これは、神の選びの計画について取り扱っている教えであり、信者であれば、一度真剣に考えなければいけない問題です。しかし、その議論の中で、議論のための議論、ただ論議を引き起こすためだけのものに発展しかねません。そこには、争いと分裂の発祥となり、信仰による神の救いのご計画の実現という目的からそれたものとなるのです。
議論のための議論なのか、それとも、神の救いのご計画の実現をもたらすものであるかの見極めは、ここに書いてあるとおり、「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を」を目標としているかどうかです。相手を打ち負かすことが目的になっているようでは、ダメです。自分の心と相談して、この愛から出ているものなのか、信仰による正しい良心から出てくるものなのかを吟味しなければいけません。
(祈り)
天の神さま、 私たちはあなたに祈ることによって人生の全ての状況に立ち向かうことができることを感謝します。あなたが、私たちに答え 慰めを与えてくださっているからです。
どうか、今日も、私があなたの御心を知ることができますように 、あなたの霊で満たしてください 。また、清い心と愛を持って、人々に接することができるようにお導きください。
11月14日金曜日
ヨハネによる福音書 10:29
わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
(黙想)
イエスは、最初からずっと、ついさっきも、ご自分が神の子に他ならないことを語られています。けれども、あなたがたは信じない、と言われています。
イエスはふたたび、彼らに羊飼いと羊のたとえを話されています。そして次に、とてつもない大きな約束が書かれています。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」
イエスと羊との関係は、とても深いものでした。声を知っているから、羊はいつもイエスのそばにいることができました。そして、イエスは、この関係はあまりにも深く、近しいものなので、彼らに永遠のいのちを与えるができ、だれも、それを奪い取ることはできない、とおっしゃっています。その絆はあまりにも強く、彼らが父の御手の中にあるとさえおっしゃっています。パウロが言ったことをおぼえているでしょうか。ローマ書8章です。彼は言いました。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主
キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(38、39節) 神は、わたしちを主イエスにあって、豊かな恵み、幸いを与えてくださるのです。
(祈り)
天にいます 私たちの父なる神さま、あなたはいつも約束に忠実な御方です 。どうか、あなたの約束に望みをかけて 祈り、 あなたが与えてくださる祝福を待ち望むことができるように、私たちを
あなたの霊で満たしてください。あなたは真実なお方です 。あなたの御名が今日も豊かに 称えられますように 、主のお名前によって 祈ります。
11月12日木曜日
コリントの信徒への手紙一 15:57
わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
(黙想)
死そのものが滅びます。パウロは、15章の前半部分において、死は最後の敵であると言っています。この死が、すべての人間を脅かし、恐怖におとしいれ、希望、信仰、愛を抱かせなくしているのです。しかし、死そのものが滅びます。死が不死によってのみこまれます。死がない世界が構築されます
キリストが律法に対して死んでくださり、罪に対して死なれました。そして、死に勝利され、よみがえられました。このキリストにあって、私たちは罪に対しても、律法に対しても、死に対しても、圧倒的な勝利者となっています。
(祈り)
天の神さま、寒いときを過ごしています。そして、寒さに負けないように、様々な対策を施しています。人生においても、暑いとき寒いときがありますが、それぞれに対応して歩むように努めています。神さま、キリストが私たちのために勝利を用意しておられることを感謝します。どうか、その勝利に至る救い主の働きを受け入れることができますように、私たちをきよめて歩ませてください。
11月11日火曜日
マタイによる福音書 9:28-30
イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、
二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。
(黙想)
イエスさまが道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来ました。
この盲人達は、イエスさまを、「ダビデの子」と呼びました。それはメシヤがダビデの王座を受け継ぐことを示し、メシヤの称号になっています。盲人たちは、イエスさまが来るべきメシヤであることをはっきり認識していたのです。
家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにできると信じるのか。」と言われると、彼らは「はい。主よ。」と言った。
盲人たちは、このメシヤが自分達のためにも来たことを信じていました。マタイ4章16節です。「暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」メシヤは人を照らす光であり、罪によって暗闇の中にすんでいる人々に解放と希望をお与えになります。申命記28章28節によりますと、盲目は神のさばきのしるしでしたが、彼らは、メシヤに救いの望みをかけたのです。
そこで、イエスさまは彼らの目にさわって、「あなたがたの信じているとおりになるように。」と言われた。 すると、彼らの目があいたのです。
(祈り)
天の父なる神さま、御子イエスさまはさまざまな病に苦しむ人々をお癒しになっています。イエスさまは苦しむ人々のまさに救い主でありました。神さま、どうか、私たちも、イエスさまを救い主と信じ、私たちを捉え、苦しめていることから救われることができるように、強い信仰を与えてお導きください。
11月10日月曜日
詩編 8:4-5
あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。 月も、星も、あなたが配置なさったもの。 そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。
(黙想)
私たちは最近あまり 星を見なくなってはいませんか。 星が見えないということではありません。 私たちの思いが 自分と外から入ってくる情報に向いていて、星を見る
心を失っているからだと思われます。 ただ 星を見続ける。 永遠の神様が自分を見てくださっている。 そういう思いになれるのが、星を見ることによるのです。
跡継ぎがなかったアブラハム も 星を見た時、 神様のご臨在に触れ 、その全能の力と約束を信じるものとなりました。 苦しみに囲まれる時、 孤独を感じる時、
多くの情報の中で自分を見失う時 、神様がお造りになった星を見に行こうではありませんか。 星屑と言われるもの まで 神様はその名で呼んでおられると聖書は言います。永遠を握っておられるお方がいる。このお方が私たち一人ひとりを握ってくださっている。
誰一人 忘れられることはないのであります。
(祈り)
天におられる父なる神さま、夜空に輝く星に導かれ、あなたの御業を見て喜ぶ人々がおられます。私たちはあまりにも目先の日々の生活に追われ、流されていることが多く起きています。どうか、永遠の光に照らされて、永遠を見上げながら、あなたが、私のために導きを与えておられることを、しっかりと受け止められるようにしてください。
11月9日日曜日
詩編 57:9
目覚めよ、わたしの誉れよ 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。 わたしは曙を呼び覚まそう。
(黙想)
神は私たち人間を 栄光あるものとして創造してくださいました 。神の御姿を写すもの 、それが人の本質です 。しかし、この栄光が眠ってしまうことがあります
。人から攻撃を受ける 、いやしめられる、仕事を失う 、罪を犯す、 大きな怪我をしたリ、病にかかる。自分の望まない 苦しみがやってくる時, 私たちの栄光は輝きを失い、眠ってしまいます。
しかし、神が一度 創造したあなた の 栄光がなくなってしまうことはありません。 もう一度 目覚めるのを待っているのです。 あなたの栄光を輝かせるのは、あなた自身でも、状況の好転でも,他の人でもなく、
神 ご自身だからです。 私たちの魂は本当はそれを知っているのです。 聖書は私たちの栄光を目覚めさせる 聖霊の風が吹いてくる時 、私たちの栄光は歌い始めます。
今のこの状況の中で歌い始めるのです。 神が共にいてくださる。 あなたの栄光を守られるお方がいるのです 。希望を失ってはなりません。
(祈り)
天の神さま、私たちをあなたの輝きを映し出すものとして、創造してくださったことを感謝します。しかるに、時として、輝かず、曇らせることも起こしています。神さま、どうか、私たちを、いつも、聖霊の働きを通して輝かせてください。自らの力ではなく、へりくだって、あなた自身の輝きを映し出すものにならせてください。
11月8日土曜日
エフェソの信徒への手紙 6:18
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
(黙想)
新約聖書で用いられる 「目を覚ます」という言葉には3つの異なる意味があります。 第1は「眠っていないこと」です 。それは目覚めた 頭の状態を表します。
第2は「完全に起きている」ことです 。怠惰のせいで恐ろしいことが 突然 起こらないように、起きて います。第3は「落ち着いて精神を集中させている」ことです。
すなわち あらゆる 誘惑 と散心に気をつけることです 。パウロは これら 3つの意味を全て用います 。そのうち2つは祈りに関連して用いられます。
目を覚ましていることは 、霊的な人間を守り 、祈りへと整えます 。準備不足と不注意内 は祈りにとって致命的なものです。
(祈り)
天の神さま、絶えず目を覚まして祈るのが大切であることが分かります。 敵は腹を空かせたライオンのように、周りをうろついているからです。 神さま、悪魔に立ち向かえるように私たちをお助けください。
11月7日金曜日
ルカによる福音書 19:37-38
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。 「主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。 天には平和、 いと高きところには栄光。」
(黙想)
イエスが、エルサレムに入られる様子が詳しく記録されています。エルサレムをただ歩いて入られたのではなく、いろいろな用意をして入られました。なぜでしょうか。イエスは、王としてエルサレムにお入りになるからです。神から油そそがれたメシヤとして、神の都エルサレムにご入場なされるからです。ろばの子に乗られますが、まだだれも乗ったことのないろばでした。つまり、何の汚れもない神の聖さを表しています。イエスが言われたとおりに、ろばがつながれていました。神の予知を表しています。そして、「主がお入用なのです。」と言うだけで、ろばが手渡されました。これは、神の権威です。そして、ふたりの弟子は上着をろばに敷きました。神の尊厳を示しています。そして、ろば自体は、ゼカリヤ書9章9節の預言の成就です。つまり、ご自分のことばどおりに事を行なわれる神の主権を表していました。つまり、イエスは、自らご自分がメシヤであることを公にされたのです。弟子たちはイエスを賛美しました。そして、メシヤ詩篇と呼ばれる詩篇118編を引用して歌ったのです。今まで、人々がイエスのことを言いふらそうとすると、決まって、「このことをだれにも話さないように。」とおっしゃられたイエスが、今は、その賞賛をお受けになっています。なぜなら、この日は、永遠の昔から永遠の未来という時間の中で、神がお定めになった日だったからです。神は、ご自分のメシヤを人々に示されるために、全宇宙の中からエルサレムという町を選ばれました。詩篇118編には、「今日こそ主の御業の日。
今日を喜び祝い、喜び躍ろう。(24)」とあります。
(祈り)
聖なる神さま、あなたが与えてくださる 美しく 聖なるものに私の思いを巡らせ、この世のものに心を留めることがないように助けてください。私たちの思いを
悪から救い出し、 私たちのために主の名よって来られた 救い主を見ることができるようにしてください。 今日私たちの思いを 救い主イエス様に向けることができるようにお導きください。
11月6日木曜日
ミカ書 6:8
人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。
(黙想)
この章は、主ご自身がイスラエルの民を法廷の場に連れて行っている設定になっています。主が彼らに訴え、彼らも弁明をして、そして再び主が訴えているというような設定です。こうやって、物事をはっきりとさせて、彼らが自分たちの行なっていることを正すように促しておられます。初めに、主ご自身が、「わたしが、あなたがたが躓かせるようなことを行なったのか?何かあなたが、わたしについて来れなくさせるようなことを、したのだろうか?」というような問いかけをしておられます。
けれども、主は彼らに良いことはしても、何ら悪いことをしておられません。彼らがただ、主に拠り頼み、付いていくことができるような配慮しか見当たりません。
けれども民は、反論します。主の前に出るということが、何でこんなに大変なのか?と神に問い質しています。全焼のいけにえ、一歳の子牛なのか?さらに、幾千の雄羊、幾万の油なのか?さらにもっと大きな犠牲、自分の長子を捧げるべきなのだろうか?と言っているのです。主が要求しているものは、あまりにも大きいと言っています。
このことに対して、主は明確に答えておられます。何が良いことか、何を要求しておられるのか?実は、そのようないけにえではなく、ただ公義を行ない、慈しみをを愛し、へりくだって神と共に歩むことなのだ、と言っています。これが、主が求めておられる生活なのです。
(祈り)
父なる神さま、時 に私は物事を適切に行わず、 間違いを犯してしまうことがあることを告白します。 心は 正しい方向を向いていても、 すべきと分かってることを実行できないのです。
私が物事を正確にこなし、より一層努力し、 どんなに困難でも、正しいことができるように助けてください。 自分自身をごまかすことなく、 迷ったら
あなたに助けを求めることができるように。御前見に私の弱さを差し出しますから、 あなたの力を持って私のところに来て、 私に新しい心を与えてください。主の御名によって
祈ります。
11月5日水曜日
フィリピの信徒への手紙 1:9-11
わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
(黙想)
パウロは、心の中にピリピの人たちを抱いていただけではなく、キリストの愛の心をもって慕っていました。パウロのうちに住まわれるキリストが、ピリピ人たちに対する愛をパウロの気持ちの中に現われてくださっているのです。こうやって、教会には、キリストが宿ってくださいます。イエスさまは、愛がなくなったエペソの教会に対して、燭台を取り除く、つまりそこから離れていくと言われます。しかし、愛があるところにはその真ん中に宿っていてくださいます。
愛というのは、ほわほわしたものではありません。具体的な私たちの人間関係において、真の知識と識別力があることによって、いよいよ豊かになります。
ここの「キリストの日」というのは、イエスさまが教会のために再び戻ってきてくださる日のことです。パウロの思いの中にはキリストが戻って来られることが支柱となっているのです
(祈り)
主なる神さま、あなたの愛されたパウロが 祈りましたように、 私も本当に大切なものを見分ける知識と感覚によって、 あなたの御心を知り、 いよいよ
豊かな 愛に 生きることができますように。 小さな自分のひとりの思い煩いにとらわれることがないように、どうか、私の心を 窓を開け放ってくださり、
私の目を開いてください。この日 一日の歩みを、やがてくるキリストの日に備える第一歩とすることはできますように、 主の御名によって 祈ります。
11月4日火曜日
ローマの信徒への手紙 6:11-12
あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
(黙想)
パウロは、「考えなさい」と言っています。これは、「みなす」と言いかえることができます。私たちは罪人であるのに、罪を犯さなかったようにみなされた、という言葉と、まったく同じ「みなす」が使われています。つまり、私たちが、自分の罪を赦していただくために、キリストを信じたのとまったく同じように、信じるのです。自分は罪に対して死んだ。神に対して生きた者だ、と信じるのです。信じたときに、神の御霊が私たちのうちで働いてくださり、私たちには決してできなくなっている神の命令を、行なうことができるようになります。
(祈り)
救い主なるイエス・キリストよ..私を清めてください。 私の魂に染み付いてる罪を洗い流し、 私の頭の上に埃のように 溜まっている疑いを取り払い、
私の心の中の ひどい汚れをきれいに 拭ってください。 どうか、あなたの救いを信じて、 あなたの弟子としてふさわしくなれるように私を整えてください。
11月3日月曜日
ヘブライ人への手紙 4:14-15
さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
黙想)
私たちは、天に入るまでは、この肉体を持っています。私たちは御霊によって新生したのですが、それは霊が贖われたのみであり、この肉体はアダムから受け継いでいる罪があります。だから、いつも霊と肉の間に戦いがあります。けれども、主が戻って来られるときに、私たちのからだも変えられて、新しいからだを持ち、天国の中に入ることができるのです。
この新しいからだを持つまでは、私たちは肉の弱さを持ちながら生きています。この肉体は罪の誘惑を受けますし、肉体の疲れをおぼえますし、衰えるにしたがって病も多くなってきます。救いを完成されたイエスさまは、これらの弱さを知らないで、遠くから私たちを見ておられる方ではありません。イエスさまが地上におられたとき、罪は持っていませんでしたが、肉体の弱さは持っておられました。だから、私たちの弱さが分からない方ではなく、すべてを知っておられる方であり、ゆえに、私たちは、この地上に生きている間も、主が戻って来られるまで耐え忍ぶことができるのです
(祈り)
全能の神さま、御前 見にひざまずいてる 私の心の奥に潜む思いもあなたには隠すことはできません。 あなたは一切を見通しになる方だからです。 私は祈っていますが、
心の中のよこしまな思いに対して申し開きができません。 どうか、私のために あらゆる苦しみを受け 十字架と死とを通して贖いを成し遂げられた主イエス·キリストが私たちのためにとりなしてくださって、
私たちを 恵みの中に導いてくださるように主の御名によって お願いいたします。
11月2日日曜日
エフェソの信徒への手紙 5:8
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
(黙想)
ソーラー時計というものがあります 。この時計は、光の 全く当たらない暗闇の中に放置されると動かなくなってしまいます。 しかし、 光の下に置くと動き出します。
しかも 、すぐに電波をキャッチし 、正しい時間を指し示しします。 太陽の光に数時間 当てれば、フル充電 となり、 しっかり 時を刻むようになるのです。
神は人をご自分の姿に似せてをお造りになったと聖書は言います。 しかし、 暗闇の中に生きる間に 、神の姿は忘れ去られ、 自分が神によって創造された
尊い存在であるということもわからなくなってしまうのです。 暗闇の中で泣いているあなたを探し求める神がいます。 光の下に置いてくださる神がいるのです
。眩しい イエス様の光に照らされ、 止まっていた私たちの時計が動き出します。 失われたてい時が回復するのです。神の時を指し示す者、 神の時を歩む
者とされるのです。
(祈り)
天の神さま、朝の光に照らされて、新たな一日の務めを始めています。どうか、あなたに生かされている喜びを、輝かせることができますように。どんな小さな光でも、あなたの指し示す世界を見ることができます。私たちの歩みが、あなた光を引き出すものとならせてください。
11月1日土曜日
マルコによる福音書 11:24
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
(黙想)
主イエスは、神に向かって 「天のお父様」と言って呼びかけて祈るようにお 教えになりました。 また、あなた方の天の父はあなた方が お願いする 先からあなた方に必要なものはご存知であると、信頼して祈るようにお
教えになりました、 わたし名によって祈ることは、わたしがそれを行うと約束しておられますが、主イエスの名によってとは 、「主イエスの名代として」ということです。
あなた方をわたしの名代として 祈る者とするとおっしゃっているのです。 信頼してくださっているのです。 自分の思いをぶつけることしかしてなかった私たちが聖霊を受ける時に
、主イエスの名代として 祈る者とされる、だから、その祈りが天に届くのです。 私たちは天のお父様を信頼して祈る。天のお父様も私たちを信頼して祈りのことを聞いてくださる
。天と地が呼応する祈りの世界に 主イエスは招き入れようとしています 。
(祈り)
父なる神さま、あなたは御子 イエス・キリストによって、私たちの祈りを確かなものとしてくださいます 。しかし、 私たちは何という弱い 信仰しか持たぬことでしょう。
私たちは 祈りつつも 、なお 疑っており、 祈りの 聞かれるのは遠い先のことであると諦めています。 どうか、この不信仰を鍛え直してください。私たちはそのみ名によって祈る主が、遠いお方ではなく、
明後日 来られるお方でなく、 今ここにいまし、 今、 私たちの祈りをとりなし、成就しておられることを全く確信を持って 信じさせてください。 主イエスキリストのみ名によって
祈ります。
今日の聖句2025年11月
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