今日の聖句 2025年12月 nagarenohotori
聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています
12月14日アドベント第3主日
イザヤ書 9:5
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。 その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ここに、メシヤ・イエスのもう一つの名が書かれています。それは、人の子として生まれたが、神によって生まれた御子という、人であるのに神であるということがはっきりと宣言されています。「ひとりのみどりご」がそのことです。肉体をもって赤ん坊が生まれます。そして、「ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」というのが、御子が与えられると訳すことのできる部分です。ゆえに、その名前は父なる神と同一になっています。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であります。初めに、「不思議な助言者」とあるのが大事です。私たちの及びもつかないところで神がご計画を実現されます。だれが、赤ん坊から世界を救うという計画を立てていると思うでしょうか?そして、王室ではなく貧しい家庭から生まれ、そして、ガリラヤという片田舎で宣教をして、さらにローマへの反乱を鎮めるために極刑にする十字架刑に処せられると思っているでしょうか?
ましてや、誰が死者の中からの甦りをするなど考えられるでしょうか?これがあまりにも不思議なのです。
しかし、その中に神がおられます。次に、「力ある神、永遠の父、平和の君」とあります。十字架という弱さに中にこそ、神の力があります。人を救う神の力があります。そして、永遠を知ることができます。永遠の昔から永遠の御国にまで御心を持っておられる御父を知ることができます。そして、私たちに平和をもたらす、君となってくださっているのです。イエスご自身こそが平和であり、十字架において敵を打ち壊してくださったと信じる時、そこに思いを超えたところの平和が造られます。
父なる神さま、あなたは
創造主 そして贖い主です。 私たちを見捨てることなく、あなたに近づくための道を備えてくださいました。 愛する御子という贈り物を感謝します。
このクリスマスにも私たちは御子イエスが来られたことを喜び、 再び来てくださることを待ち望みたいと思います
。私たちが声を一つにして天の父なるあなたを賛美することができますように 、クリスマスに備えるこの日々 、私たちの生活を祝福し、
固くなさを取り去って、御許に近づくものとしてください 。主イエス・キリストの御名によって 祈ります 。アーメン
12月13日土曜日
ヨハネの黙示録 21:2-4
更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
「新しいエルサレム」がやって来ました。この「新しい」というのは、単に古いものの代替としての新しさではなく、「聖なる都」とあるように、これまでのものとは違った、新鮮な、さらにすぐれた神の都ということです。神が用意されている、神がお造りになった都、自分の故郷よりもさらにすぐれた都というのが、新しいエルサレムです。
地上にもエルサレムがあります。けれども、そこは神の都でありながら、神の支配とは程遠い、罪にまみれていました。新しいエルサレムは違います。
究極の慰めが、新しいエルサレムにおいて与えられます。私たちがこの地上に生まれてくるときから持っている矛盾、つまり生まれてきたのに、死ななければいけないという矛盾の中で、私たちは悲しみ、叫び、苦しみます。イエスさまが、ラザロの死を悼むマリヤの姿を見て、涙を流され、憤られましたが、それは死が人類に対して、どうすることもできない叫びと悲しみをもたらすからです。けれども、イエスさまが死に打ち勝たれて、打ち勝たれただけではなく、最後にはこのように死そのものが滅び去るのです(1コリント15:26)。 新しいエルサレムがやってくることのはじまりが、イエス・キリストの誕生なのです.
新しいエルサレムの到来を約束 くださった天の神さま、この世界がなお 不義と災いに満ち、その中で苦しむ人々が救いを求めて 喘ぎ続けています。どうか、人の罪の業と死の力が滅ぼされ、「神
自ら 人と共にいまして、 人の目から涙を全く拭い取ってくださる」その日を速やかにお与えてください。どうか、このクリスマスを待ち望む時、神さまの御心が速やかになるように祈り
求めていくことができるようにしてください。主イエスのみ名によって 祈ります 。アーメン
12月12日金曜日
コリントの信徒への手紙二 11:29
だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
イエス・キリストは、私たちに互いに愛することをお命じになりました。 誰か一人でも、そのように愛し合う友が与えられることは、神さまが私たちに与えてくださる
祝福 なのです。 しかし、その祝福には 一緒にいることを喜び楽しむということだけではなく、その人の痛みを自分の痛みとして受け取ることも含まれるのです
。友が弱ってると聞く と、自分自身も 弱ってしまうほど心が痛む。 友が信仰がわからなくなった と聞く、 そうすると 気が狂うほどに激しく 心がわななく。このようなことで自分が疲れ切ってしまうことは賢い生き方ではないかもしれません。
しかし 、愛はともに弱くなるのです 。共に弱くなるから 、ともに強くなれる のです。共に泣くから、 共に笑うことができるのです。
愛なる神さま、私たちは互いに愛し合うことをよく知っているつもりでおりました。 愛は誰に教わらなくてもよく わきまえてるとも思っていました。
しかも、 私たちは愛に深く絶望しています。そこで 主は全く新しい戒めとして 愛を教えてくださっています。 主イエスさまが私どもを愛してくださっている
。そこに 今日一日 互いに愛し合っていこうと 立ち上がる勇気の源泉があるからです。 主がいつも私たちの愛を新しくしてくださいます。 大げさな身ぶりもせず
、大言壮語もせず 、最もふさわしい仕方で、この愛の大切さに生きることができますように、 主のみ名によって 祈ります。アーメン
12月11日木曜日
ローマの信徒への手紙 12:10-12
兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
聖書が優れたものという場合 それは互いに自分よりも身分の高いものとして尊敬しこれに仕えるという意味があります。 それは当時が身分社会であったことを考えさせられます。
身分社会ではない 現在の日本に生きる 私たちにはそれを肌で感じることは難しいように思います。 しかし 家人として、あるいは 社員として、主たる人に仕えるということは、自分の持ってる能力を最大限に発揮するということでもあるのです。
自分の能力を最大限に用い、またそれに磨きをかけて、自分よりも身分の高い人に仕えるということが 、この聖句の意味なのです 。私たちは私たちの主人である
キリストの仲間に、どのように接すべきであろうか、自分が与えられた能力を最大限に 生かし、どのように お仕えすべきだろうか 、主はこの言葉を通して私たちに語りかけておられます。
父なる神さま、あなたは御子によって選ばれた者たちを教会とし、 キリストの体として、 この地上にキリストのみ業を表すために召し集めてくださいました。どうか、私たち
キリストの体とされたものが、かしらなる キリストにふさわしく、 主がなさったように、その日々を生きることができますように。 教会の中にいる兄弟姉妹たちに対して、優れた者として互いに仕えあうことができますように導いてください。
教会のかしらなるキリストのみ名によって 祈ります。アーメン
12月10日水曜日
マルコによる福音書 6:49-51
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
人生の危機とも言うべき時に、私たちに近づき、 私たちに ご自身を現されるキリストに出会うこと 、これが私たちの救いなのです 。先に進むことができない
人生の壁があります 。人生の大波に襲われ、自分の船が転覆するのではないかと思う時があります 。 そんな私たちのところにやってきてくださる お方、神の子キリストがいるのです
。その出会いは時として私たちを恐怖に包み込むものでありましょう。 自分の それまでのあり方を根底から 作り替えるのが、神さまとの出会いだからです。
しかし 存在 あり方が変わるキリストとの出会いによって造られる 新しい自分があリます。それが、救いなのです。 この方が、恐れおののく 私たちに声をかけてくださっています。
全ての平安の源である 天の神さま、 あなたの福音はいつも恐れるな と語りかけてくださっています。 恐れることは 福音に最もふさわしくないことだからでしょう。
それゆえに、 神さま、私たちの心から恐れを取り去って 、主イエス様さまを見、 主イエスさまに聞く喜びを注ぎ入れ 、満たしてください。み子 イエス・キリストのみ名によって
祈ります。アーメン
12月9日火曜日
箴言 4:23
何を守るよりも、自分の心を守れ。 そこに命の源がある。
今日の御言葉は、力の限り 心を見守れと言っています 。それほど尊いものが 私たち一人一人の心なのだと教えるのです。 心は神さまの世界と繋がる開いた窓
です 。これを通して私たちは神さまを知り、 神さまの愛を知り、 その導きを受けていくことができるのです。神さまはそこから私たちに 命の水を注ぎ
、私たちを潤し、満たし、癒そうとしておられるのです 。心が渇く時 、心が疲れる時 、そして痛む時、 神さまはこの 窓のそばにおられます 。その窓を通して私たちの全存在に光を照らし、
ご自身の子としての尊厳を満たそうとしておられるのです 。
主なる神さま、御子の誕生の知らせを聞いて、ヨセフもマリアも心を乱すことなく、御心がなるように祈っています。心の窓を開いて、あなたの光を受け入れたからです。神さま、心を乱すことが多く起きています。どうか、しっかりとあなたの光を、心の窓を開いて受け入れる者にならせてください。
12月8日月曜日
ヨハネの手紙一 1:6-7
わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
(黙想)
壊れたコンピューターは本来の機能と能力を発揮することはできません。 しかし 、どんなに 壊れたコンピューターでも製造会社の修理工場なら元通りに直してくれます。
これは救いなのです 。私たちは 神さまの最高傑作としての尊厳を失ってしまっています。だから、 私たちは造ってくださった神さまの修理工場に帰らなければ、なおることがありません。神さまの修理工場、
それはイエス・キリストの血が滴る十字架の御許です。 十字架の血を注がれ 私たちは本当の自分に帰ることができます 。そこで、私たちは、自分の尊さを知り、
自分が何のために 創造され、 何のために生きてるのかを知るのです。 神さまは 今も私たちを待っておられます「 帰ってこい」と。
私たちは身体の具合が悪くなると、病院に行きます。お医者さんは私たちを調べて、何が健康を妨げているかを見つけて手当てをしてくれます。信仰生活に喜べないとき、心が折れるとき、イエスさまの元に帰りましょう。イエスさまが、また元気にしてくれます。
(祈り)
天の神さま、一人で悩まないで、心配ごとはイエスさまに、祈って聞いていただくことができますように、問題を抱えて悩むときも、イエスさまに打ち明けることができますように、また、喜ぶときにも、イエスさまにお話しすることができますように、私たちをお導きください。主のお名前によって祈ります。
12月7日アドベント第2主日
ルカによる福音書 21:26-28
「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
天の父なる神さま、御子キリストの誕生を待ち望むときを持たせていただき感謝します。私たちの心にはいろんな声が聞こえてきます。その中から、 本当必要な言葉を知ることができますように
。キリストが私たちを救うために来てくださると言う声を、しっかりと受け止められるようにお導きください。
12月6日土曜日
ルカによる福音書 12:32-34
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
(黙想)
私たちの生活において、金銭や物質、 肉欲に執着してはいけないと分かっていても、気がついたら そのように行動しているということがあります 。私たちは自分の力では越えられない肉欲の壁があるのです
。そんな私たちに、イエス様は何度も何度も 語りかけ 、導いてくださっています 。弱っている人たち 、苦しみの中にある人たちを自分の宝にするようにと。そしてそれだけではなく、
イエス様 ご自身の肉の欲求や体に対する執着 、そして ご自分の命さえ捨てて、滅んでいこうとしていた私たちに命を注いでくださったのです。この方を仰ぎ見る時、自分が
命の限り 大切にしなければならない 宝が何かが分かってきます。自分で溜め込む 高価なものか? それとも飢えに苦しむ人、人生の痛みに喘ぐ人か?イエス様は、
何度も何度も 語りかけてくださっています。
(祈り)
天の神さま、今日も私たちに語りかけてくださる イエス様を見上げて、御声を聞くことができるように、また その言葉を受け入れることを助けてください
。どうか、真に 価値あるものを大切に守り通す力を御霊によって与えられるようにお助けください。主の御名によって祈ります。
12月5日金曜日
マタイによる福音書 6:7-8
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
(黙想)
「自分が恵まれないのは神を信じる力が弱いからだ」とか、「信じることができるようになるためにもっと修業しなければ」と思ったり 、言われたりすることがあります。
しかし、私たちの 神さまはそのようなことを人に求めたりはしません 。私たちの必要の全てを知って 、それを満たそうとしておられるからです。 ですから、私たちに必要なのは「嬉しい時も悲しい時も、良い時も悪い時も」いつも、神さまに向かって
「天のお父さま」「お父さん」と呼びかけて 、お願いすることなのです。
(祈り)
天のお父さま、いつも私たちの必要なものを与えてくださること、しかも、適切なときに与えてくださることを感謝いたします。子どもは幾つになっても、父は親であり、父は子どもが大きくなっても、親としてあり続けています。神さまも、わたしたちが生きている以上、父なる務めを果たしてくださっています。どうか、神様を見上げて、今年のクリスマスも、私たちを喜びで満たしてくださいと、願うことを行わせてください。
12月4日木曜日
エレミヤ書 31:33-34
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
(黙想)
古い契約から新しい契約への推移です。エレミヤ書は、人がいかに堕落しており、神に従うことができない存在かを表す書物です。旧約聖書は律法を土台にしています。シナイ山における神の律法からその契約が始まっています。もちろん、その前にアブラハムへの契約と約束がありました。けれども律法が入ってくることによって、人がかえって律法を守ることができないことを現したのです。
モーセの後の歴史書は、ずっとイスラエルがいかに神に従えないのかを表す歴史でした。そしてついに、エレミヤの時代に徹底的に従えないこと、無能であることを決定的にしたのです。
けれどもこれは神が、彼らが律法の行ないではなく、ただ信仰によって救われるためでした。自分たちが行なうことではなく、神がキリストにあって行なってくださったことを信じることによって救われるようにされるためでした。もともと人間には自分を救うことはできないのですが、律法によってそれを神は明らかにし、そして初めて新しい契約を与えられたのです。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたの教えに従うことはできない私たちを 省みてくださって 、新しい契約を備えてくださったことを感謝します 。キリストが私たちのために死んで下さったことによって私たちは、
改めて 神さまの教えの中を歩むことができています。 どうか、私たちと新しい契約を結ぶために、この世来てくださった御子の誕生を歓迎することができるように、導いてください.
12月3日水曜日
民数記 11:29 新共同訳
モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
(黙想)
この個所で興味深いのは、モーセのことばです。「主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と言っています。この当時、神は、特定の選ばれた者にのみ御霊を注がれました。そこで、モーセは「すべての人」が御霊が注がれるとよいのに、と言いました。実は、預言者ヨエルが、世の終わりにそのようになると預言しました。「その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。 あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。 その日、わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。(3:1-2)」そして、この預言は成就しました。五旬節の日に、聖霊が弟子たちに降り、それだけではなく、サマリヤ人、異邦人コルネリオの家族にも降りました。イスラエルの長老たちにくだった霊が、汚れていたとされ、イスラエルの契約とは無縁であるとされていた異邦人にさえ下ったのです。それは、私たちにも、預言するため、夢を見るため、幻を見るために注がれる御霊なのです。
(祈り)
全能の神さま、 私の魂を あなたの炎で燃え立たせてください。この世界に向けて 、私があなたの働きを知らせるためです。どうか、いつも熱心であなたへの思いに燃え上がれますように、
私をお助けください。
12月2日火曜日
エレミヤ書 31:18-19 新共同訳
わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。 「あなたはわたしを懲らしめ わたしは馴らされていない子牛のように 懲らしめを受けました。 どうかわたしを立ち帰らせてください。
わたしは立ち帰ります。 あなたは主、わたしの神です。 わたしは背きましたが、後悔し 思い知らされ、腿を打って悔いました。 わたしは恥を受け、卑しめられ
若いときのそしりを負って来ました。」
(黙想)
患難を通って彼らが救われる、残りの民が救われるというのは、ここにある悔い改めを通してです。「腿を打って(ももを打って)」とありますが、これは原語では性器の部分を打ったことを話しています。痛いです、けれどもこのような行為を行って、自分に対する悲しみ、嘆きを表したのです。「悲しむ人々は、幸いである」(マタイ5:4)とイエスさまは言われています。
(祈り)
主なる神さま、 この世では様々な苦難が待ち受けています。 しかし、私たちはあなたに感謝します。 あなたは祈りを通して 全ての苦難を癒すことができるからです。
また祈りが全ての涙を拭い取ることができるからです。 また 祈りがうち 沈む 心を立ち上がらせることができるからです 。どうか、信仰の 祈りによって、私たちを神の力が働くところに立ち返らせてください。
12月1日月曜日
ホセア書 12:6-7
主こそ万軍の神 その御名は主と唱えられる。 神のもとに立ち帰れ。 愛と正義を保ち 常にあなたの神を待ち望め。
(黙想)
この箇所には、三つの命令があります。それは、私たちと神との関係における基本です。第一歩は、「神に立ち返る」です。私たちが神から目を背けてしまったとき、初めに行なうのは立ち返ることです。次の一歩は、「誠実と公義を守る」ことです。誠実は憐れみと言い換えても良いでしょう。キリスト者にとって、憐れみと正しさがその生活の特徴です。
そして最後に、「常にあなたの神を待ち望」むことです。キリスト者として神を恐れ敬いつつ生きながら、そして主が戻ってこられることを待つのです。
(祈り)
憐れみ深い神さま、あなたは私たちに戻ってくるように求めておられます。私たちは造り主であるあなたの元から、罪深さの故に追い出されたのでありますが、あなたはもう一度憐れんでくださいました。神さま、主の元に戻る勇気をください。どうか、己の意思ではなく、御心に従って愛と正義を追い求め、主の御名を唱える者にならせてください。
11月30日 待降節第1主日
ゼカリヤ書 9:9
娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。 見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
(祈り)
天の神さま、今年もアドベントを迎えることができますことを感謝いたします。私たちの救い主が王としてロバに乗って来られるときがやって来ました。この王は柔和でへりくだって、平和の王であることを現しています。神さま、争いの多いこの世界にあって、私たちを救う為に来られ、平和をもたらしてくださるこの御方を、私たちも歓喜の声をあげてお迎えすることができますように、そして、御心がこの世界に実現することを願って、アドベントの時を守らせてください。主の御名によりて祈ります。
今日の聖句2025年11月
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