今日の聖句  2026年3月    nagarenohotori      

      聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています



3月31日火曜日
ヨハネによる福音書 12:3-5 新共同訳
  そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 [4] 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 [5] 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
(黙想)
ここには マリアの 惜しみない 心からの贈り物とユダのお金を出し惜しむ愚痴とが 退避されて描かれています マリアはイエスを讃えるのに必要なものを用いましたが ユダは自分をよく見せるためにイエスを利用したのです 私たちはマリアから人に使える という美しい生き方を知りますが ユダを見るとお金が神と人間と隔ててしまう危険性があることを知るのです
(お祈り)
天の神さま、私は主イエスさまに捧げるべきものを捧げます。 それは単にお金ではなく、私の命そのもの、つまり私の行動・能力・ 目的をも含んでいるのです 。そのように、あらゆるものがあなたに仕えるものとして 、良い香りを放たさせてください。主のお名前によって お祈りいたします。アーメン

3月30日月曜日
マタイによる福音書 21:12-13 新共同訳
 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 そして言われた。「こう書いてある。 『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」
(黙想)
 静かに祈る場は、人々が動き回っている 喧騒の中心となってしまっていました。 議論したり企画や 商談 または 社交の場でもあったのです。 もちろん 、祈りも仕事をさっとこなしていくのにふさわしく、簡単な祈りとなっていました。多くの教会は祈りを 本来の姿に戻すためは 、この 宮清めを受けなければならないのです。 私たちの教会は祈りの教会にならなければなりません。
(祈り)
天の父なる神様、礼拝堂に入った時 、私たちが祈ることができるように備えさせてください。周囲の人と挨拶することに心を奪われず、何よりをあなたに語りかけ 、あなたに耳を傾けれることができますように、また、 イエス・キリストを通して 語りかけるお方の言葉を、聞き取れる場として、教会を保つことができますように、主の御名によって お祈りします。ア ーメン

3月29日棕梠の日
ヨハネによる福音書 12:12-13 新共同訳
 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。 「ホサナ。 主の名によって来られる方に、祝福があるように、 イスラエルの王に。」
(黙想)
 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」これは、ゼカリヤ書からの引用です。初め、弟子たちにはこれらのことがわかりませんでした。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出しています。神は人々を用いて、イエスが王として、キリストとして、たたえられるように仕向けておられたのです。
(お祈り)
主なる神様、あなたのなされることはみな、私たちへの深い愛を表していることをみ言葉教えています。しかし、それにはすぐに理解することができないほど奥深いご計画によって行われています。今年も棕梠の日曜日を迎えています 。平和の象徴である 棕梠の枝を持って 、人々が イエス様の到来に喜びを表しています。神様、私たちの社会には悲しい出来事がたくさん起きています。どうか、 目に見える現象に怯えることなく 、背後に神様の御心が進められていることを、この朝、 しっかりと受け止め、 私たちの救いのご計画が実現することを心待ち できるように導いてください 。救い主 イエスのお名前によって お祈りいたします 。アーメン

3月28日土曜日
ルカによる福音書 17:14-16 新共同訳
 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。  その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。  そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
(黙想)
 重い皮膚病(らい病)の人が、遠くから叫んでいます。サマリヤ人はユダヤ人と異邦人の混血であるため、また混合宗教を持っていたため、ユダヤ人はサマリヤ人を嫌い、彼らもユダヤ人を嫌いました。それでも、信仰で応答したのはサマリヤ人だったのです。彼は、イエスを礼拝し、感謝しました。イエスが神から来られた方であると認めました。彼は直りました。体だかけが直ったのではなく、霊も魂も直ったのです。このサマリヤ人にとって、イエスがすべてとなりました。イエスが神となったのです。
(お祈り)
 天の父なる神様、私たちは自分の欠点や弱さをいつも気にしていながら、心からあなたの助けと憐れみを求めることを忘れています。自分で努力すれば何とかなると思っていて、本当の自分自身の惨めさに気づいていないからです 。そのために、あなたの恵みの出来事に出会っても心から感謝することを失ってしまっています。 それは主イエス・キリストを通して救いの道を与えられていながら 、それを忘れてしまっているからです。神様、どうか私たちにもあなたの前に感謝と喜びと思って立ち返り、「 あなたの信仰があなたを救ったのだ」という主イエスの祝福のみ言葉を受けることを得させてください。主のみ名によって 祈ります。 アーメン

3月27日金曜日
ガラテヤの信徒への手紙 6:8 新共同訳
  自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。 
(黙想)
 自分の蒔いたものを自分が 刈り取るというのは 農業の法則です。 株の種から人参を収穫することはできず 、ナスの種からきゅうりを収穫することもできません。 若い時に道楽をすれば 、年を取ってからその実を刈り取ることになります。人は 肉欲の種をまけば、良いものを刈り取ることはできません 。肉のためにまくものは、すなわち 肉の衝動 や願いに従う者は、必ず霊的滅びを刈り取ります。 他方 、御霊のためにまくものは、永遠の命を刈り取ります。収穫は必ずしも 地上で与えられるわけではありません。 だからと言って善を行うのに飽いたり、 霊的な種まきをするのに飽いてはなりません 。神は確かに 収穫の約束を与えていてくださるからです。
(お祈り)
天の神様 、まいた種が実を実らせるのは大きな喜びです 。そのために色々な世話をすること、労苦も、喜びの生活をもたらしています。 神様、罪深い私たちは良い実をもたらすことはできませんが、 神を信じる 信仰によって、聖霊が働き、 良い結果を得ることができています。私たちが 、日々、霊的な良い実を実らせ 、刈り取ることができるように、どうか、私たちを働かせてください、そのために 祈りを積むことを行わせてらください 。尊い主のお名前によって お祈りします 。アーメン

3月26日木曜日
エフェソの信徒への手紙 1:4-5 新共同訳
  天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
(黙想)
神は信じる者の身分を明らかにされました 。私たちは救われた時 、神は私たちに神の命と新しい性質を与えて神の子としての身分を備えてくださいました。 神の主権は人間の力や悪魔の力によって 侵害されることはありません 。選びと同様に 、神の子とされることの中にも、神の祝福が示されています。ですから、私たちは神の恵みの栄光を褒め称えます。 神の恵みは愛する子、 キリストを通して私たちにあふれています。
(お祈り)
天地の主なる 神様、 万物はあなたによって支えられ、 導かれること思い 、そのみ力を道をほめたたえます 。どうか、この世の小さな栄光に引かれることなく、 全宇宙にみなぎり渡るキリストの栄光を、 澄み渡った信仰の目を持ってひたすらに仰ぎ見るをようにしてください。 小さな 私の意志に執着して迷い、罪を犯すことなく、あなたの意志に従い 生きるようにしてください。主のみ名によって 祈ります。ア ーメン

3月25日水曜日
マタイによる福音書 17:22-23 新共同訳
 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。 そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
(黙想)
 主イエスは、もっとも大切な使信を何度も何度も弟子たちに送りました。もはやペテロは、「そんなことはあってはならない。」とは言いませんが、それでも分からずに非常に悲しい顔つきになっています。彼らには、「三日目によみがえります」という言葉が意味を持たない、あるいは聞こえていなかった可能性さえあります。「十字架」というのは、彼らはよく知っています。ローマが反逆罪に対してしばしば執行しているものです。十字架という言葉はここでは使っておられませんが、「自分の十字架を負いなさい」と言われた時に、すでに十字架刑であることは予測できました。大通りに人の目たけよりも少し高いところに、あのむごたらしい姿を見せるのです。これがあまりにも衝撃的で、よみがえりの言葉までに耳が開いていないのです。
(お祈り)
私の救い主よ、私を用いてください 。あなたの目的とあなたの道のために。ここに私の貧しい心があります。 この空の器を あなたの恵みで満たしてください。 ここに私の罪深く悩める魂があります。 あなたの愛で 元気づけてください。 私の心を住まいとしてください。 私の口をお使いください。御名の栄光を広めるために 。私の愛と力を用いてください。 あなたを信じるものが道に進むために。確かな 信仰が揺らぐことがないよう、 どうぞ私をお守りください 。アーメン

3月24日火曜日
ルカによる福音書 22:42-43 新共同訳
 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
(黙想)
イエスご自身も、戦っておられました。それは、ご自分の意思と御父の意思との間にある葛藤です。イエスは、できれば杯を取り除けてほしかったのです。この杯は、十字架での苦しみを示しています。みこころならば、取り除けてください。つまり、わたしが死ぬ以外で人々が救われるのなら、取りのけてください、ということです。もし信心深くなって救われるのなら、良い行ないを積むことによって救われるのなら、取りのけてください、ということです。けれども、やはりイエスが死ぬことは父のみこころでした。つまり、どんなに信心深くなっても、どんなに人間が努力しても、決して救われないということです。人はそれを認めたくありません。キリストの十字架は、人は何も善いところがない堕落した罪人であり、自分では救いようのない存在であることを教えています。
(お祈り)
天の神さま、 十字架の上でイエス様において完全に成し遂げられたことを 私にも成し遂げてください 。あなたが始められたことを イエスさまのために 、イエスさまの恵みによって仕上げ 完成させてください。神さま、あなたの 寛容な愛と キリストの取りなしの恵みに導かれて、私たちが過ごせるようにお守りください。救い主の尊い お名前によって お祈りします。 アーメン

3月23日月曜日
ヨハネの手紙一 2:20-21 新共同訳
 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。
(黙想)
 教師が教えていることが真理であるかどうか、私たちはそれを知ることができるとヨハネは言っています。それは、「聖なる方からの注ぎの油」によってです。これは、内に住まわれる聖霊のことです。聖霊が真理をその人が知るようにさせておられます。ここで、「真理を知っています」という「知る」という言葉は、「直感的に知る」というギリシヤ語になっています「知る」と言う言葉は、体験的に知るという意味のギリシヤ語がありますが、ここは別のギリシヤ語、直感的に知ると言う言葉が使われています。私たちは、たとえ、知識的に、また体験的に、ある教えが真理かどうか調べたことがなくても、聖なる油注ぎが私たちのうちに与えられるので、直感的にわかるように導かれるのです。
(お祈り)
天の父なる神様、 聖霊の働きを感謝いたします。 聖書は誰も 聖霊によらなければ キリストを主と告白することはできないと語っています。 私たちは 聖霊によって生かされています 、聖霊によって導かれています。 どうか 、聖霊がいつも注がれてるので、私たちが真理に導かれていると感謝できるように助けてください。私たちの 判断する その中にも、常に聖霊の働きがあることを覚えさせてください。主イエスさまのお名前によって お祈りいたします。アーメン

3月22日日曜日
マタイによる福音書 20:26-27 新共同訳
  あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
(黙想)
イエスは、ご自分のいのちを与えるまで、仕えておられます。ここの箇所は、イエスが父なる神に仕えられたように、あなたがたはキリストに仕えなさいという命令です。ここに、「異邦人間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。マタイ20:25」とありますが、私たちのお互いの関係の中で、自分の思っているようになってほしい、自分の必要が相手から満たされたい、という思いでいるならば、この異邦人の支配者と同じです。そして、私たちが人々に仕えるとき、決まってそうした気持ちが出てきます。すると、人々に仕えたり、親切にしているつもりなのが、いつの間にかその人から何かをもらいたいと願ってしまうのです。それはまさに、人々を支配したいという気持ちなのです。このように、私たちが人々に仕えるとき、どうしても見返りを期待します。それから解放される方法は、一つだけあります。キリストに仕えることです。私たちがキリストを自分の主とし、キリストに仕えているのであれば、惜しみなく、人々を愛し、人々lこ仕え、人々に与えることができます。なぜなら、キリストが父なる神に仕えたからであり、父なる神は惜しみなく与える方だからです。
(お祈り)
父なる神様、私たちに喜んで 人に仕えることのできる心を与えてください。私たちは仕えることよりも、仕えられることを好み、 与えるよりも与えられることを喜ぶ心を持っています。 どうか、 神様が価なしに与えてくださったことを忘れず 、与えることができるようにならせてくださいまた。人に仕える場合 、相手が何をしてほしいと望んでるかを知ることに努め 、人の気持ちを汲むこともできる柔軟な広い心を持つ人間にならせてください。救い主 キリストのみ名によって 祈ります 。アーメン

3月21日土曜日
フィリピの信徒への手紙 1:29 新共同訳
 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
(黙想)
もしもキリストを信じる 信仰 だけ が与えられていたら、私たちは信じ続けることができないので苦しみます 。でもキリストのために苦しむ 恵みも与えられているのです。 他の聖書の(訳の)なかでは「彼のために苦しみをも受ける」とあります。 私たちが苦しむ時 、私たちはこの苦しみをも賜っています 。それはあなたの苦しみは私の苦しみだと語ってくださるイエス様の愛です。 暗闇はこの主の愛に出会うためにあるのです。
(祈り)
主なる 神様、私たちの生活は楽しいときだけではなく、辛いとき、悲しいとき、苦しいときもあります。楽になりたいと願わされることがしばしばおきています。神さま、どうか、私が苦しむ時、 私があなたの恵みの中にいることを思い出させてください。その時には、御子キリストが守り支えておられることを喜べるようにしてください。救い主キリストのお名前によって祈ります。アーメン

3月20日金曜日
ローマの信徒への手紙 7:24-25 新共同訳
 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
(黙想)
パウロは、「主イエス・キリストを通して」と言っています。そうです、私が何かをするのではなく、すべてのことを行なってくださったキリストを信じるのです。私たちが、神の律法を行なうのではありません。キリストが律法をすべて成就してくださいました。私たちは、このキリストをただ信じるだけでよいのです。そして、信じるとき、いのちの御霊の原理が働き、私たちが聖霊に導かれ、肉の行ないを殺すことができます。私、ではなくキリストなのです。
(祈り)
 創造主 なる 神様、あなたは人生の外面的条件について思い煩うことの虚しさを教えてくださっただけでなく、 内面生活における偽善と欺瞞をも、あなたは指摘してくださいました。 私たちは頼りにもならぬものを頼りにして、自分の人生の安全と保証を求め 、結局は他人をも自分をも傷つけしてしまいました 。 神様、私たちがもう一度 、正直に生きられる望みを、イエス·キリストにおいて与えてくださいますように、み子 キリストによってお願いたします。アーメン

3月19日木曜日
ヨハネによる福音書 10:10 新共同訳
 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。   
(黙想)
 主イエスはご自分の足りなさを 私たちによって満たそうと なさるのではありません。 すでに空っぽになっている 私たちから、さらに力や 援助を得る必要など イエスには全くありません。 イエスはすでに十分に満たされ 、それ以上に溢れてさえいるのです。 ご自身の内に生命が溢れ出ているからこそ、 私たちに与えられるのです 。私たちから得たり、私たちを利用するのではなく、 私たちを 完全に補ってくださるのです。 神からもっと与えられたいものとは私にとって何であるでしょうか ?よく考えてみましょう。
(祈り)
  天の神様、 恐れずに、望みを持って、私は あなたの御子 キリストを主と受け入れます。 私が健やかに生きていくために、なすべきことを示してください 。私が生きていく意味のある場へと伴ってください 。生き生きと生きていかれるように力を与えてください。主イエスのお名前によって 祈ります。 アーメン

3月18日水曜日
ヨハネによる福音書 16:23-24 新共同訳
  「 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。  今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
(黙想)
私たちの経験する苦難、 迫害、 苦痛から、 やがて喜びの完成とイエスは私たちの信仰を導いてくださるのです。 そして、私たちが目標地点を最も大いなる喜びへと定め、 祈りによってその周辺を整えていくよう望んでおられるのです。 キリストの復活はその喜びがどのようにして満たされていったかを伝えているのです。 神はどのような喜びを 私たちに与えてくださるのでしょうか。
(祈り)
天の父なる神様、私が困難に遭遇した時、私が封じ込められてしまわないよう、しかし、 むしろ 困難の向こうに備えられている喜びを見通せるように支えてください。 復活 に示された あなたの強さを求めつつ、私にふさわしい 復活の恵みを見いだすよう 導いてください。復活の主 のお名前によって お祈りいたします 。アーメン

3月17日火曜日
ヨハネによる福音書 17:1-2 新共同訳
「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
(黙想)
イエスは、「子の栄光を現わしてください。」と願っておられます。ここでの「栄光」とは、天における栄光ではありません。そうではなく、十字架における栄光であります。あのむごたらしい、人の憎悪が現れた十字架が栄光なんて、ふつうでは到底思いもつかないことです。けれども、それは実に、神の愛の啓示でした。もし私たちが神の愛を知りたいなら、また神の愛が分からなくなってしまったら、十字架を見上げてください。ご自分の愛する、尊いひとり子を、ただ私たちのために、苦しみとのろいの下に置かれたのです。ただ私たちを愛してやまなくて、私たちが滅びるのを良しとされなくて、イエスを死に渡されました。したがって、子の栄光とは、十字架における死です。
 十字架における神の栄光を見て、それを信じた者は永遠のいのちを持ちます。永遠のいのちとは、神とキリストを知ることに他なりません。私たちが、日々、祈りの中で、みことばを読むなかで、主がどのように自分に関わってくださったかを知ります。神を仰ぎ見て、神の御前にひれ伏します。そうした行為が、まさに永遠のいのちなのです。自分の世界で生きるのではなく、神とキリストの世界で生きること、それが永遠のいのちです。
(祈り)
天の神様、あなたは空想的な未来にではなく、今日私たちの生きてるここに 永遠の命があると教えられています。 どうか、 唯一の真の父なる神と、ひとり子なる主イエス·キリストを信じて 永遠の命に預かることができるように導いてください。主イエスがこの地上に来られたのはこの私の罪の救いのためであったと告白する 者に、限りない喜びを 聖霊によってお与えください。主のみ名によって 祈ります。アーメン

3月16日月曜日
ヨハネによる福音書 12:24 新共同訳
 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
(黙想)
 イエスは、ご自分への関心が、ユダヤ人だけではなくギリシヤ人にも及んだことを知って、神の栄光の時が来たことを知ったのです。神のご計画は、ご自分の民だけではなく、地上のすべての民がキリストを拝し、キリストからみことばを聞くことでした。
本当の栄光は、キリストが死なれてからでないと現れません。イエスが死ななければ、救いが異邦人に及ばないからです。そこで、イエスは、死んでしまう一粒の種の話をされているのです。イエスが死ななければ、イエスご自身は生きるが、他の人々はみな滅んでしまう。けれども、イエスが死ねば、多くの人が救いを受けるということです。ですから、ギリシヤ人がイエスのところに来たとき、この十字架によって、あなたがたは救いにあずかることができるのだよ、と言うことをお伝えしたかったのです。
(祈り)
天の父なる神様、あなたは真の神としてのお姿を一粒の麦 において示してくださいました。 主イエスが ご自分の一粒の麦としての死を語りつつ、 心を騒がせておられる御言葉を読むとき、私たちの心は感謝に溢れます 。神から遠いと思われていた異邦人 、ギリシャ人の人々が主にお目にかかりたいと願ったことに答えてでありました。 私どもも またあなたから 本当に遠く隔てて生きています。 その私たちのところに来てくださるために 、み子は一粒の麦になってくださいました。 私たちにおいて  誠に 豊かな実を結ぶためです。 その主のみもとで、私どもは自分の命を憎むことを覚えます。 主に従い、お仕えすることを知ります。 そこに私どもの人生が開けます。 勇気を与えてください。 私どももまた一坪の麦になりきれることを信じさせてください。主のみ名によって 祈り願います 。アーメン

3月15(日)日曜日
マタイによる福音書 10:29, 31 新共同訳
  二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
(黙想)
 当時は、すずめが最も安く売られている食物でした。そのすずめでさえ父が守ってくださっているのであるから、ましてや私たちを気にとめておられないことはありません。神は、私たちの髪の毛の数をも知っておられるのです。そこまで私たちのことに関心があるのですから、人を恐れることはないのです。
(祈り)
天地の造り 主なる全能の神様、あなたは 真にに恐るべき主でいます。 罪人の身と魂とを滅ぼし給うお方です。 神様、そのあなたが私たちの すべてを知ってくださってること、 目に立つもの だけなく世の片隅でつまづき 多い 生の歩みを懸命に続けている者を 深く御心に止めてくださることは何という喜びでしょう 。私たちは自分の生涯の意味を 本当に知ることはできません 。ただ 真の主でありたもうあなたに信頼し 、そのみ手の導きにすべてを託して歩む 幸せだけを知っています 。どうか,あなたが私たちの聖なる主でいまし給うことを本当に知ることができるように教えてください。 尊い主のお名前によって お祈りします 。アーメン

3月14日土曜日
ガラテヤの信徒への手紙 5:13 新共同訳
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
(黙想)
私たちは、神がキリストにあって行なってくださったことに信仰を置き、安息を得ています。そこには、あらゆる天における霊的祝福があります。アブラハムの子孫とされ、神の相続人となりました。ですから、私たちは、どのようなことを行なってもよいということになります。   しかしパウロは、この自由を、肉を働かせる機会としないでください、と言っています。自由なのだから、自分の好き勝手に、肉の思いのままに生きることができるであろう、と思ってしまいます。けれども、もし私たちが肉の思いに自分自身を引き渡すのであれば、その時点で自由人ではなくなります。肉の欲望の奴隷になってしまうのです。私たちは、「自分」というものの奴隷であります。神のかたちに造られたのにも関わらず、神や人を第一にするのではなく、自分を第一にします。自分のことがもっとも可愛いい存在になっています。しかし、自分を喜ばせるための生き方は、むなしいものです。
 しかし、キリストは、私たちをそのような奴隷状態から解放してくださいました。自分を否み、神を愛して、隣人を愛していくことができるようにされたのです。これがキリストにある自由の本質であり、愛をもって互いに仕え合うことができるようになる自由を、私たちに与えてくださったのです。
(祈り)
天の父なる神様、 主イエスは私たちの自由の根拠であるとともに自由の目標でもあることを信じ、み名をあがめ ます。 どうか 、信仰に堅く たち 、主イエスによって開示された真の自由の道を歩むように導いてください 。主なる神様、 自由を 放縦と取り違え、 自己主張の道を互いに歩み、 滅びに向かって歩くことのないように守ってください。 愛が自由を完成することを知り 、主にして 僕、僕 にして 主なる、福音 の自由に生きるようにしてください 。自己中心の束縛 より 解放されて、進んで隣人へと 赴き 、愛を持って互いに仕えることができますように、 愛の主キリストのみ名によって 祈ります。 アーメン

3月13日金曜日
マタイによる福音書 14:29-31 新共同訳
 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
(黙想)
ペテロの失敗は、イエスから目を離して、状況を見てしまったことです。そして、こわくなったら沈みかけたのです。悪魔は、私たちが状況に目を止め続けるように仕向けます。そうすると、恐れが私たちの心に入ってくるので、信仰を失ってしまうのです。恐れと信仰は相容れないものだからです。しかし、私たちがキリストを見つめる時、その信仰によって、私たちには出来ないことが出来るようになります。パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)」と言いました。逆にイエスは、「私を離れては、あなたがたは何もする事ができないからです。(ヨハネ15:5)」と言いました。要は、イエスを見つめ続けることです。
(祈り)
父なる神様、信仰の薄い私たちを赦して、手を伸ばして捕まえてください 。ペトロはイエスがおいでと言われるのに、立ち騒ぐ 波を見て恐怖に襲われ 、信仰を失って溺れかけました。 私たちも 目の前の小さな 波乱に心を騒がして 、神様への信頼を失いがちになります。 どうぞ、私たちの神様に対する信頼の心を強くしてくださるようお願いします 。愛する主イエスのお名前によって お祈りします 。アーメン

3月12日木曜日
ローマの信徒への手紙 4:25 新共同訳
 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
(黙想)
 神が主イエスを死者の中からよみがえらせた方であることを信じる信仰を、神は義とみなされます。これは、アブラハムがイサクをささげるときに、神はイサクを死者の中からよみがえらせてくださると信じて、神の御声に従おうとした信仰にならうことであります。キリストの復活を信じることは、望みえないときに望むことであり、神の約束をしっかりと握りしめることであり、神の栄光を帰し、その全能の力に確信していることであります。そして何よりも、キリストの復活を信じることは、神の恵みを知ることであります。アブラハムが、イサクを死者の中からよみがえると信じたのは、彼に強い意思力があったからでしょうか。かれが努力家であり、たくさん祈って、神に深く献身したからでしょうか。いいえ、まったく違います。アブラハムは、神を信じて、それで義とみなされました。彼は、その生涯に数多くの過ちを犯しました。しかし、神は不敬虔な者を義と認める方であり、その神の大らかさと、恵み深さを、アブラハムは長い年月をかけて学んだのです。それゆえ、神をより深く信頼できるようになり、神に試されたときも、自然な応答として、イサクをささげる準備を始めました。私たちも、神が、キリストにあって行なってくださったことを知ることにより、神への愛と献身が増し加わり、キリストの復活の力に拠り頼むことができるようになるのです。
(祈り)
天の父なる神様、 あなたの約束を信じて生きることを私たちにお許しください 。あなたの恵みにより 、御言葉を通して死人を生かし、無から有 を呼び出される神を信じ、 望みえないのに、な おも望みつつ 信じることはできますように 。そして、私たち自身の力に基づく行動でも、生き方でもなく、 私たちの主イエスを死人の中からよみがえ らせた  お方を信じることによって義とされるのだということを、感謝と喜びを持って 見出すことができますように 。主のみ名によって 祈ります 。アーメン

3月11日水曜日
マタイによる福音書 8:16-17 新共同訳
 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。  それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 「彼はわたしたちの患いを負い、 わたしたちの病を担った。」
(黙想)
 イエスのいやしによる宣教は、預言の成就でした。この預言の内容に注目すると、イエスがどのようにして人々をいやされたかが書かれています。わずらいを身に引き受け、病を背負ったとあります。イエスが、私たちの罪のために身代わりになって死なれたということは、私たちがよく知っている事ですが、実は病をも身代わりに受けられていたのです。この預言はイザヤ書53章4節にありますが、そこを読み進めると、5節に「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。イエスは、十字架につけられる前に、39回のむちを受けられました。そのむちの先にはガラスや鉛の破片が入っていて、一度むち打つと、打たれた背中の肉がちぎれて飛びます。39回のむちによって、背中がどれだけ滅茶苦茶になったかは、想像できるでしょう。イエスは、この打ち傷によって私たちの病を背負われました。ですから、私たちが人々のいやしのために祈る時、イエスの身代わりの業にもとづいて祈る事が出来ます。イエスは、私たちの病を引き受けられたのです。
(祈り)
天の父なる神様、あなたのひとり子を私たちのところに送ってくださったことを感謝いたします。 彼は悪霊に疲れた人、病に取り憑かれた人 、悩みに取り憑かれた人 、寂しい人たち 、問題を抱えてる人たちを救い出すためにこの世に現れたのでした。 今もなお 本当に多くの人たちが 癒しを必要としています。 どうか、私たち主を信じる者が、病む人たち 苦しむ人たちを イエスさまのもとに導くことができますように、イエス様が 癒し主であることを、今も私たちの生活の中で確かなことであることを教えてください。 尊い主のみ名によって お祈りします。ア ーメン

3月10日火曜日
使徒言行録 4:29 新共同訳
 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
(黙想)
 彼らは迫害に遭うことのないように、祈りませんでした。むしろ、迫害される原因である福音宣教を大胆に行なうことができるように祈りました。私たちの願いは、主のみこころを行なうことができるようにその力と知恵を求めなければいけません。この世にあって患難があって、その患難が過ぎ去るように願うのではなく、患難の中で主のみこころを行なうことができるように祈ります。
(祈り)
父なる神様、私たちには難しい問題がたくさんあります。 そして 個人の生き方においても、 社会のあり方についても、何が正しく何が間違ってるのかを決めかねてることも少なくありません。 どうか、私たちに本当に何が正しいのかを教えてください。また自分の考えていることや、していることが間違ってないと思い込んでしまうことのないようにしてください 。そんな迷いと不安の中にある時にも、 御言葉を宣べ伝える機会だと立ち上がった使徒たちのように、 私たちも御言葉を語り伝える働きのために勇気を、信仰 を、愛を与えてください。主のみ名によって お願いいたします。ア ーメン

3月9日月曜日
使徒言行録 17:26-27 新共同訳
  神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。  これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
(黙想)
この一人の人とはアダムです。あるいは、洪水のあとのノアかもしれません。世界にはいろいろな人種、民族、国がありますが、みな同じ人から出てきました。それは、私たちが日本人であることから解放してくれます。私たちは日本人であるまえに、人間なのです。世界中のすべての人が同じ先祖を持ち、人間なのです。ですから、文化が異なっていても、言語が異なっていても、人はすべて同じ必要を持っています。神に愛され、罪が赦されたいと必要を持っているのです。
(祈り)
天地の造り主なる神さま、私たちを一人の一人からお創りくださり感謝します。しかも神さま、あなたに似せて造り、命の息を注いで生きる者にしてくれました。しかし、私たちは神 たるものを人間の技巧 や空想で金や銀や石などに貼り付けたものと同じ とみなすような無知の時代に生きています。 けれども 、あなたは御子イエスをこの世に遣わし 、私たちを 滅びることから救い出し、 永遠の命を与えてくださいました。どうか、このあなたが備えてくださった救いの道を、私たちがひたすらに歩むことができるようにしてください 。御子の名によってお祈りします 。アーメン
 
(今日の聖句)3月8日日曜日
ルカによる福音書 9:61-62 新共同訳
 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
(黙想)
 ここを読むと、キリストの弟子になることがとても大変なこと気づきます。けれども、そのことがここでの注意点ではありません。大切なのは、イエスがそのような差し迫った状況の中にいることなのです。御顔をエルサレムに向けたのは、ご自分が見捨てられ、死に渡されるのを、何があっても逃げないで直面するという決断です。大事なのは、そのキリストが私たちとともにいるということです。私たちが、毎日の生活の中で、疲れて、クリスチャンとしての歩みをやめたい、やめなくても、ちょっと後戻りしてみたいと感じるときがあるかもしれません。けれども、そのとき、イエスはあなたを見捨てておられず、「前を向きなさい。わたしがあなたとともにいる。進みなさい。」とおっしゃいます。人々から拒まれ、弟子たちも従うのをやめてしまった、あの辛さをみな知っておられます。その方が、私たちとともにいてくださるのです。キリストの弟子であることは、確かに大変です。けれども、イエスがともにおられるから大丈夫なのです。 
(祈り)
天の父なる神様、御子イエスは私たちに弟子となるためにわきまえるべきことを一つ一つの言葉を 読み聞かせ ながら教えてくださっています。 それは私たちが生きていく上での慰めを失うことや、  古い価値観をわきへ押しやることなど、これまでとは全く異なる教えです。 イエスがもたらしてくださったこの教えを受け入れることができますように導いてください。 また イエスが行かれるところに 共に行くことができるように、どんなことでも喜んで行うことはできるように、勇気を与えて歩ませてください。愛する主のお名前によってお祈りいたします。アーメン

3月7日土曜日
ヨハネによる福音書 14:11-12 新共同訳
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。  はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
(黙想)
信じるというのは、信頼しなさいということです。単に信条を受け入れることではなく、人格的に、個人的に信頼を寄せることであります。イエスは、まず、「わたしが言うのを信じなさい。」と言われました。イエスが、ご自分についておっしゃっていることを信じることです。私たちの信仰は、イエスのご性質に対するものでなければいけません。例えば、イエスは神の子であり、全知全能である。永遠に生きておられる方であり、決して変わらない方である。愛と恵みに満ちておられ、また義と聖を身にまとっておられる。こうしたイエスのご性質に信頼を置きます。けれども、そこまで私たちが信頼を寄せることができないときのために、「わざそのものによって信じなさい。」とイエスは言われています。神を信じきることができない私たちのために、主は私たちをあわれんで、しるしを私たちに見せてくださいます。ものすごく小さな事かも知れませんが、神が確かに生きておられるを示すために、わざを見せてくださるのです。  
(祈り)
天の神様、 あなたの独り子イエスを通して あなたの御心を教えてくださることを感謝いたします。御子イエスは明確に説得力を持ってあなたの御心を伝えました 。また完全な行いによってあなたを 正しく表してくださリ、 あなたの救いを示してくださったことを感謝いたします。神様、どうか、私たちが 御子の力に圧倒され、ただ その業を真似るだけで、何一つ自ら取り組もうとしない者になることがないように 、神様、あなたが始められた 贖いの愛を伝えることを、あらゆる方法を用いて積極的に広めていくことを、私たちの中で行わせてください。救い主イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン

3月6日金曜日
ルカによる福音書 18:22-23 新共同訳
 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
(黙想)
イエスは、ここで清貧を教えているのではありません。イエスは、この役人が神に従うのに妨げになっていたものを指摘されたのです。彼にとっては、お金が邪魔になっていました。石板の二枚目の掟は守っていましたが、一枚目は破っていました。「 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト20:3)」とあります。お金を神としていたのです。ですから、イエスはそれを捨てなさいとおっしゃられたのであって、貧しくなることが神の国にはいることではありません。それでは、イエスは、私たちに何を捨てるように命じられているでしょうか。それは絶対に手放したくないもの。お金であろうと、何であろうと、イエスはそれを捨てなさいと言われているのです。
(祈り)
天の父なる神様、私の人生をあなたに委ねて歩めることができますように。 あなたの導きに自分を委ね、あなたの働きのために私の宝物さえも捧げ、真の 喜びが得られることを分からせてください。私はあなたに造られ生かされているものです。これからの 人生に何があろうとも、造り主の思いを理解して、そのための歩みを築き、慈しみ と 憐れみを経験することができるように力を与えて導いてください 。イエス・キリストのお名前によって お願いいたします。ア ーメン

3月5日木曜日
ヨハネの黙示録 4:11 新共同訳
「主よ、わたしたちの神よ、 あなたこそ、 栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。 あなたは万物を造られ、 御心によって万物は存在し、 また創造されたからです。」
(黙想)
「主よ。わたしたちの神よ。」ということばですが、その意味を考えてみましょう。「主」はもちろん、主人、あるいは自分が服従する相手です。この方が自分を支配する存在であることを認めることです。自分勝手なことをして、それで「主よ」と言っても意味がありません。次に、「神よ」とありますが、神とは名前ではなく、「自分を突き動かす情熱」と言い換えても良いかもしれません。自分が行なっていることを、行なわせているその情熱は何なのか。何が自分を突き動かしているのか?それが、お金であれば金が神です。それが名誉であれば名誉が神です。「主よ、わたしたちの神よ」と言うときは、主に自分
のすべてが任されている、自分が主によって突き動かされていることを告白しています。
(祈り)
天の神様 、物事が自分の思うようにいかない時でも明るくしていられることができるようにならせてください。 私が自分の人生におけるあなたの導きを受け入れ 、どんな状況においてもあなたを信じ 、お委ねできるように助け 導いてください。自分の感情を抑えようとして頑張る日々は挫折感を感じる時間が長くなり、 すでに起きてしまったことを後悔してエネルギーを浪費してしまいがちです 。過去は変えられないことはわかっています。 どうか、私にあなたが与えてくださる 現在の助けと、将来に対する希望とに感謝することを教えてください。主イエス・キリストのお名前によって お祈りします。 アーメン

3月4日水曜日
マタイによる福音書 7:11 新共同訳
  このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
(黙想)
 再び、神が、「あなたがたの天の父」として紹介されています。私たちは良い行ないを積み上げて、神の御前に正しい者と認められるようにするのではありません。そうではなく、天と地とを造られた神を「父」と呼んで深い信頼を寄せること、つまり信仰による歩みをしているのです。イエスは私たちに善を行う力が全然ないことを、私たち以上によく知っておられます。ですから、自分の力で生きるのではなく、神にしっかりと結びついて、心を尽くしてより頼み、神の力によって歩みなさいと命令されているのです。この神との信頼関係が、キリスト教の真髄であります。
(祈り)
天の父なる神様、私のあらゆる 願いを あなたの愛のうちに成就させ、全ての求めをあなたの恵みのうちに完成させてください 。あなたが 祈りにおいて 招いてくださり、約束してくださってることを感謝いたします。 どうか、私が困窮している事柄を全て明らかに申し述べることができますように、また、あなたが知恵と平和を持って、それら対処してくださることを信頼して歩ませてください。 尊い主のお名前によって 祈ります。アーメン

3月3日火曜日
士師記 10:15-16 新共同訳
 イスラエルの人々は主に言った。「わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日わたしたちを救い出してください。」  彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになったので、主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった。
(黙想)
 主は怒るにおそく、あわれみ深い方です。彼らの姿を見て、冷酷になることなく見るに忍びなくなっておられます。
 ここでイスラエルが、外国の神々を取り去って、それで主に仕えているところに注目してください。むろんこれは後に再び外国の神々に戻ってしまうので、本当の意味で神々を捨て去ったわけではないのですが、けれども捨てていることは事実です。それではじめて、主があわれんでおられるのです。箴言には、「罪を隠している者は栄えない。 告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。(28:13」とあります。罪を告白し、その告白にそった行動を取る、つまり捨てるときに私たちは神のあわれみを受け、さばきを受けずに済みます。
(祈り)
天の神様、私の罪の代価を全て支払って 罪から解き放ってくださったことを感謝いたします。どうか、 あなたが私の生活の中にまで手を差し伸べ、心や 思いの複雑な部分にも語りかけてくださってことを感じることができますように。また、この世界が 問題ばかりでも、あなたが支配しておられ 私と共にいてくださるという事実に思いを集中できるように助けて 導いてください。今日も、イエス様が一緒にいてくださることを心に刻んであなたに向き合うことができるように、勝利の主、イエス様のお名前によって お祈りします。アーメン

3月2日月曜日
コリントの信徒への手紙一 4:7 新共同訳
 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
(黙想)
 コリントにいる教会は、自分がどこから出発したのかを忘れていました。罪と汚れの中から、キリストの十字架のみわざによって救われて、きよめられました。そして、御霊の賜物が与えられ、さまざまな知識と知恵が与えられました。けれども、これらはみな、神からいただいたプレゼントにしかすぎなく、彼らが自分自身も持っていたものは何一つありません。それなのに、「あの人は、あのようなことを行なっていない。」とか批判して、自分たちが持っているものを誇っているのです。私たちも、この高慢に気をつけなければいけません。いつも、自分がどこからスタートしたのかを忘れてはいけません。私たちには神から与えられた賜物がありますが、それはみな神の恵みによるものです。ですから、誇ることはできないのです
(祈り)
神様、あなたに頂いた賜物のゆえに、 私は へりくだります 。あなたはとこしえの命をくださっただけでなく、 この地上でのあふれるほどの豊かな命をも与えてくださいました 。あなたは私に才能や知性を授けて、 喜びをも与えてくださっています。どうか、あなたの愛の贈り物 を、たとえ私が忘れても  さらなる愛と希望を与えて、私をお守りください 。あなたの恵みと賜物のゆえに、 今日も感謝と賛美を御前にお 献げいたします。 アーメン

3月1日日曜日
ヨハネの手紙一 5:3-4 新共同訳
  神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。  神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
(黙想)
 イエスが弟子たちに、このことを教えておられました。「ヨハ 14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」 愛していることを、どのように示すのか?と言えば、この方の言われることを聞いて、従うことです。命令を守ることによって、愛していることを示します。
そこで大事なのは、「神の命令は重荷とはなりません。」ということです。愛において、命じられていることを重荷と感じるでしょうか?愛が全うされていれば、しなければいけないことが、義務でしているようなことはなくなるはずです。ヤコブが、おじのラバンの家に仕えることを決めましたが、それは、彼の娘ラケルが好きになったからです。七年間、働きました。「創世 29:20 ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。」 とあります。愛している人のためにすることは、重荷とはなりません。そして、愛が全うされていれば、そこでは神のことばが守られています
(祈り)
天の神様 、私たちに注がれたあなたの愛を感謝して あなたの戒めを守ることはできるように導いてください。神様、どのような人間的な状況の中にあっても、謙虚な心を失わないようにしてください。 あらゆる苦難を雄々しく 耐え抜く勇気と力とを与えてください。 いかなる敗北にあっても揺らぐことのない洞察力を与えてください。 様々な挫折にあっても びくともしない心を持たせてください 。勝利の主キリストの御名によって 祈ります。アーメン

2月28日土曜日
エフェソの信徒への手紙 2:10 新共同訳
  なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

(黙想)
救われた私たちは「神に造られたもの(神の作品)」であると、パウロは言っています。この作品とは、ギリシヤ語で「ポエマ」であり、その言葉から英語の「ポエム」つまり「詩」が派生しました。つまり、私たちは神の芸術品なのです。私たちは、他の聖書個所で、「陶器」であるとも言われています。神が陶器師であり私たちが陶器です。神の願われるままに、神の喜びとして、私たちは形造られていきます。私たちはただ、主の御手の中に生き、主に委ねて、主がなされることに身を任せることが必要です。

(祈り)
天地を造られた神様、あなたはその世界を見て良いものができたと言われています。 神様の手によるものは皆良いものであったのです 。私たちも良いものとして造られています。 しかし 、その 私たちが、誘惑されて、神様の造られたように歩むことができなくなりなりました。けれども、創り主である神様はもう一度私たちが良いものになるように救いの道を開いてくださいました 。イエス・キリストによって私たちは 改めて 神様に造られた 良いものに戻ることができています。 神様、どうか私たちが造られたあなたの意思に従って 、良いことを表して、その歩みを続けることができるように、助けを与え導いてください。主のお名前によって お祈りいたします。ア ーメン







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